第8話:最後の1ピース
「ペアローンで……よろしいですね?」
銀行の応接室。空調の効きすぎた部屋は、どこか手術室の前の待合室に似た、独特の緊張感に包まれていた。
担当者の差し出した書類には、私たちの名前が並んでいる。主債務者、高橋健太。連帯債務者、高橋瑞希。
7,680万円という金額は、紙の上ではただのインクの塊だ。けれど、それが「35年返済」という文字と並んだ瞬間、ずっしりとした鉄の塊のような重圧となって、私の胃のあたりにのしかかった。
「……瑞希、大丈夫か? 手、冷たいぞ」
隣に座る健太が、テーブルの下で私の手を握った。彼の手も少し汗ばんでいる。
「……うん。でも、なんか急に現実味が湧いてきちゃって。私たちが定年を過ぎても、まだ返し続けてるんだなって」
そこに、もう一つの「現実」が追い打ちをかけた。私の実家の母からの電話だった。
『瑞希、本当に大丈夫なの? 看護師の仕事は確かに安定してるけど、女の身でそんな大きな借金を背負うなんて。もし病気になったら、もし働けなくなったら……』
母の心配はもっともだった。世間一般の「24歳で結婚し、30歳で7680万円の家を買う」という決断は、無謀に見えるのかもしれない。
「高橋様」
銀行員の男性が、眼鏡の奥の目を和らげた。
「正直に申し上げまして、この金額の審査は非常に厳しいものです。しかし、お二人の過去10年間の勤務実績、そして『看護師』という国家資格の重み。これまでの欠勤の少なさや、夜勤を含めた安定した収入……これらは、どんな担保よりも強い『信用』となります」
信用。
その言葉が、私の胸にストンと落ちた。
私たちがこの10年間、どれだけ足の浮腫みに耐え、どれだけ理不尽な怒号を受け流し、どれだけ患者さんの最期に寄り添って、誠実に働いてきたか。その一分一秒の積み重ねが、今、銀行のAIや審査官の手元にある「数字」となって評価されている。
「健太くん。私たち、ただお金を貯めてきただけじゃないんだね」
私は、健太の目を見て言った。
「10年前、点滴を失敗して泣いてた日も、急変対応で必死だった夜も。あの全部の時間が、この家の土台になってたんだ」
健太は深く頷き、銀行員の方を向いた。
「お願いします。俺たちは、命を守る現場で働いています。明日何が起こるかわからない世界だからこそ、家族が帰る場所だけは、何があっても守り抜く覚悟です」
その時だった。銀行員が分厚いファイルを閉じ、にっこりと微笑んだ。
「審査、承認されました。満額です」
一瞬、部屋の空気が止まったような気がした。
耳の奥で、ドクン、ドクンと自分の鼓動が聞こえる。10年前にステートスコープで初めて聴いた自分の心音よりも、ずっと速くて、力強い音。
「……通ったんだ」
健太の声が震えていた。
「瑞希、俺たちの10年、認められたんだよ」
応接室を出た時、外は夕焼けに染まっていた。
オレンジ色の光が、都会のビル群を優しく包み込んでいる。
私は、母にメールを打った。
『お母さん、大丈夫だよ。私たちは看護師として、これからも誰かの役に立ちながら、自分たちの家を支えていく。それが私たちの、新しい「夜勤」だと思ってるから』
健太が私の肩を抱き寄せた。
「最後の1ピース、埋まったな」
「うん。……でも、これからが本当のスタートだね。最強のチーム、解散禁止だよ?」
「当たり前だろ。次の10年は、この家で、もっとすごい記録(ログ)を書いていこうぜ」
30歳の夏。
私たちはついに、夢の入り口の鍵を手に入れた。
7,680万円の重みは、もう恐怖ではない。
それは、私たちが誇りを持って働き続けるための、一番大きな「理由」に変わっていた。
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**【次回予告】**
第9話:引越し前夜の静寂
「この狭い部屋が、今の私たちを作ってくれたんだね」
荷造りを終えた古いアパート。二人の10年間の思い出が詰まった空間との別れ。そして、新居へ向かう直前の、夫婦の深い語らい。
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