第7話:東京、7680万円の現実

【第4章:決断の時】


第7話:東京、7680万円の現実


不動産屋のオフィスに漂う、高級なアロマと新築物件のパンフレットのインクの匂い。それが、私たちの戦場の香りに加わった。


 目の前に置かれた一枚の図面。そこには、私たちが夢にまで見た「四LDK、南向き、庭付き」の文字があった。そしてその右下に、冷徹なフォントで刻まれた数字。


 ――7,680万円。


「……ななせん、ろっぴゃく、はちじゅうまん」

 私は、その数字を舌の上で転がしてみた。苦い。あまりに現実味がなくて、まるで誰かの電子カルテの異常値を見ているような気分だった。


「どうでしょうか、高橋様。現在の都内の地価上昇を考えますと、このエリアでこの広さは、まさに『掘り出し物』と言っても過言ではありません」

 営業担当者の滑らかな声が、耳を素通りしていく。

 

 健太は黙って図面を見つめていた。彼の指が、テーブルの上でトントンと不規則なリズムを刻む。それは、彼が重症患者のバイタルサインを分析する時の癖だった。


「……瑞希、ちょっといいか」

 健太に促され、私たちは一度、店の外へ出た。


 東京の街角。見上げれば、空を切り取るようにマンションやビルが建ち並んでいる。この建物の数だけ、何千万円というローンを背負って生きている人たちがいるのだ。

 私たちは、近くの公園のベンチに座った。五歳と三歳の娘たちは、少し離れたところで鳩を追いかけて笑っている。その無邪気な声が、今の私たちには眩しすぎた。


「健太くん、正直に言って。……無理だよね? 7,680万なんて、看護師二人の給料で、一生かかっても返せないよ」

 私は自分の膝の上で拳を握りしめた。

「二十歳の時に言った『家』って、もっと……もっとささやかなものだった気がする。こんなに、震えるような数字じゃなかった」


 健太はカバンから、一冊の分厚いファイルを取り出した。

 それは、私たちが十年間、一度も欠かさずにファイリングしてきた給与明細と、ボロボロになった貯金通帳のコピーだった。


「瑞希。これ、見てくれ」

 健太がページを捲る。

 二十歳の、手取りがまだ少なかった頃の明細。夜勤を月八回こなした時の、汗と涙の結晶のような増額分。

「これを見て、何を感じる?」


 私は、一通一通の明細に宿る記憶を辿った。

 インフルエンザが流行して、倒れそうになりながら回った検温。

 患者さんを看取り、一人で泣いた夜の帰り道。

 子供が熱を出して、交代で休みを取りながら必死に繋いだシフト。

 そこには、私たちがこの十年間で削り出してきた「命の時間」が、数字となって積み上がっていた。


「……頑張ったね。私たち、本当に、がむしゃらに働いてきたんだね」

「ああ。この数字は、俺たちが誰かを助け、社会に必要とされてきた証拠だ。……そして、これを見てくれ」


 健太が通帳の最後のページを指差した。

 そこには、私たちが目標にしてきた額を少しだけ上回る、誇らしい数字があった。


「7,680万円。確かに、とんでもない数字だ。でもな、瑞希。この十年間、俺たちは一度も逃げなかった。夜勤明けの駅の改札で、死にそうな顔をしながらもバトンタッチして、娘たちを育ててきた。その『最強のチーム』が、今、ここにいるんだ」


 健太の言葉が、私の心の奥の、一番柔らかい場所に熱を持って届く。


「この家は、ただの不動産じゃない。俺たちが十年間、ステートスコープを首に下げて、患者さんの心音を聴き続けてきた『報酬』なんだよ。……俺は、この家を買いたい。陽葵と葵が、自分の部屋で安心して眠れる場所を、俺たちの手で作りたい」


 私は、健太の目を見た。

 そこには、二十歳の時の頼りなさなんて微塵もなかった。

 

「……わかった。やりましょう。7,680万円、受けて立とうじゃない」

 私は、自分の手の震えが止まっていることに気づいた。

「私たち、看護師だもんね。どんな急変だって、二人で乗り越えてきた。このローンだって、人生という名の長いシフトだと思えば、きっと回せる」


 健太が笑った。十年前の屋上で見た、あの悪戯っぽい、けれど信頼できる笑顔。

「よし。じゃあ、戻ろう。あのお兄さんに、『この家、俺たちが救います』って言ってやるか」

「『買います』でしょ。職業病出さないでよ」


 私たちは立ち上がり、娘たちを呼び寄せた。

「陽葵! 葵! 素敵なお家、見に行こうか!」


 不動産屋のドアを開ける時、私の胸にはもう、迷いはなかった。

 7,680万円。それは、私たちがこれから三十年かけて、この街で生きていくという「宣誓」だった。

 

 私たちは、契約書の重みを感じながら、再びペンを握る。

 それは、かつて命を繋ぐためにサインした同意書よりも、ずっとずっと、重くて温かいものだった。


---


**【次回予告】**

第8話:最後の1ピース

ローンの本審査。不動産会社との最終交渉。しかし、土壇場で思わぬトラブルが? 二人の夢を阻む現実の壁に、看護師ならではの「冷静な判断」で立ち向かう。


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