第6話:夜勤とバトンタッチ

夕暮れの西武線、急行列車が駅に滑り込む。

 ドアが開いた瞬間、私は湿り気を帯びた都会の熱気の中へと飛び出した。時刻は十七時四十五分。日勤を終え、記録をマッハで片付け、病院の更衣室を脱兎のごとく飛び出してきた。


「急がなきゃ……」


 足が重い。終日の立ち仕事でふくらはぎはパンパンに張り、ナースシューズから履き替えたスニーカーが妙にきつく感じる。背中のリュックには、保育園から持ち帰るはずの汚れ物の山を想像し、すでに肩が凝るような感覚があった。


 駅の改札。そこが、私たち夫婦の「聖域」であり、「戦場」だった。


「瑞希! こっちだ!」


 自動改札機の向こう側。五歳の陽葵の手を引き、三歳の葵を抱っこ紐で胸に抱えた健太がいた。彼はこれから夜勤に向かう。私は今、仕事を終えた。


「ごめん、健太くん! 申し送り長引いちゃって」

「いいよ、想定内だ。ほら、バトンタッチ」


 改札のフェンス越しに、まず陽葵が私の元へ潜り抜けてくる。

「ママぁ! あのね、今日ね、お給食全部食べたの!」

「偉いね、陽葵! ちょっと待ってね、パパと代わるから」


 次に、健太が胸の葵を慎重に私へと預ける。葵の体は温かく、少し汗ばんでいて、ミルクと石鹸が混ざったような幼い匂いが鼻をくすぐった。

 健太の肩から私の肩へ。ずしりと重い「命の重み」が移動する。


「……はい、これ。葵の着替えと、明日の保育園の連絡帳。あと、夕飯は冷蔵庫にハンバーグ焼いてあるから」

 健太が仕事用の重いカバンを肩にかけ直す。彼の目は、すでに「看護師」の鋭い光を帯びていた。


「わかった。健太くん、今夜は救急外来だっけ?」

「ああ。また激しくなりそうだけど、頑張るよ。……瑞希、お疲れ様。今日、大変だったんだろ?」


 その一言に、喉の奥がツンとした。

 日勤中、受け持ち患者の容態が急変し、医師の指示を仰ぎながら処置に追われ、息をつく暇もなかった。昼食のパンは一口しか齧れなかった。

「……うん。でも、健太くんの顔見たら、ちょっと元気出た。お疲れ様。今夜、頼むね」


「おう。明日の朝、駅でな。……あと一息だぞ、貯金」

 健太が改札を通る際、私の耳元で小さく囁いた。

「家、絶対買おうな」


 電子音が鳴り、彼が人混みの中に消えていく。私は、両手に娘たちの体温を感じながら、彼の背中を見送った。

 

 家へ帰る道すがら、スーパーに寄る気力も残っていない。

「ママ、パパ行っちゃったね」

 陽葵が私の手をぎゅっと握る。

「そうだね。パパは今から病院で、病気の人を助けに行くんだよ」

「かっこいいね。……でも、寂しいね」


 三歳の葵が、私の肩口でウトウトし始める。重い。本当に重い。けれど、この重みこそが、私たちががむしゃらに働く理由そのものだった。

 

 帰宅してからの数時間は、まさに「嵐」だ。

 子供たちを風呂に入れ、冷蔵庫のハンバーグを温め、こぼした牛乳を拭き、歯磨きを嫌がる葵をなだめる。自分の食事は、子供たちが残した冷めた米を台所で立ったままかき込むだけ。

 ふと壁のカレンダーを見る。赤ペンで「夜勤」「明け」「日勤」の文字がびっしりと書き込まれている。お互いのシフトが合う日は月に数日しかない。


 深夜。子供たちがようやく寝静まり、しんとしたリビングで家計簿を開く。

 通帳の数字は、着実に、けれど亀のような歩みで増えていた。

 一晩夜勤に入れば、これだけの手当がつく。残業をすれば、これだけの「レンガ」が積み上がる。

 私たちは今、人生という名の巨大な建物を、自分たちの時間と体力を削って削って、一つずつ積み上げている。


「……疲れたなぁ」

 独り言が漏れる。

 ふと、スマホに通知が届いた。健太からだ。

『今、休憩。搬送が続いてまだ座れてない。瑞希、子供たち寝たか? 無理すんなよ。愛してる。』


 短い文字。それだけで、私の凝り固まった心が少しだけ解けていく。

 彼も今、病院の廊下を走っている。誰かの呼吸を守り、誰かの家族を支えている。

 そしてその報酬が、いつか私たちの「城」の窓になる。


『子供たち、ぐっすり。ハンバーグ美味しかったよ、ありがとう。私も、愛してる。明けの駅で待ってるね。』


 返信を打つ指が少し震える。

 目をつぶると、あの改札での「バトンタッチ」の感触が蘇る。

 お互いの「お疲れ様」という言葉は、ただの挨拶じゃない。それは、「今日も自分を犠牲にして、家族のために戦ってくれてありがとう」という、最も深い愛の告白だった。


 翌朝。

 少し寝不足の頭を抱え、子供たちを急かして再び駅へ向かう。

 改札の向こう側、疲れ果てて少し猫背になった健太が、私たちを見つけて顔を綻ばせる。


「おかえり、健太くん」

「ただいま、瑞希」


 また、バトンが渡される。

 この繰り返しの先に、私たちは七千六百八十万円の夢を、確信へと変えていくのだ。

 東京の喧騒の中、私たちは誰よりも強く、泥臭く、愛を積み上げていた。


---


**【次回予告】**

第7話:東京、7680万円の現実

「これ……本当に、私たちが買うの?」

ついに見つけた運命の家。しかし、突きつけられた見積書に手が震える。看護師として、親として、最大の「賭け」に出る決断の時。


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