第5話:三歳の姉と、新たな命
【第3章:家族のカタチ】
第5話:三歳の姉と、新たな命
「ママー! あーちゃんが、ひなのおもちゃ取ったー!」
「うわぁぁぁん! これ、あーちゃんのっ!」
二LDKの賃貸マンション、その狭いリビングは、もはや野戦病院の様相を呈していた。
五歳になった長女の陽葵(ひなた)が、三歳になった次女の葵(あおい)と積み木を奪い合って泣き叫んでいる。床には絵本が散乱し、脱ぎ捨てられた靴下が転がり、空気中には微かに、夕飯のカレーの匂いと、子供特有の甘酸っぱい汗の匂いが混じっていた。
「はいはい、順番! あーちゃん、お姉ちゃんに返そうね。陽葵も、ちょっとだけ貸してあげて?」
私は台所で、お玉を握ったまま声を張り上げた。二十七歳で次女を出産し、今は三十歳。看護師としてのキャリアも中堅になり、仕事では後輩を指導する立場だ。けれど、家の中に一歩足を踏み入れれば、私はただの、余裕を失くした母親でしかない。
「ただいま……。お、今日も賑やかだな」
玄関のドアが開く音と共に、健太が帰ってきた。夜勤明けの彼は、白衣を脱いでもなお、どこか病院の緊迫感を纏っている。けれど、駆け寄る娘たちに揉みくちゃにされると、その表情は一気に緩んだ。
「パパ! あのね、今日ね!」
「パパ、だっこ! あーちゃん、だっこぉ!」
健太は二人を左右の腕で抱え上げ、「重くなったなぁ」と笑った。けれど、その直後、彼の視線がリビングの隅で止まった。
「……瑞希、またあそこの壁、剥がれてきたな」
健太の視線の先には、葵がいたずらして剥がしてしまった壁紙の端があった。湿気で少し浮き上がり、中のコンクリートが覗いている。
このマンションは、二人が結婚した時に「とりあえず」で選んだ場所だった。当時は二人で住むには十分すぎる広さだと思っていたけれど、成長する子供たちのエネルギーを受け止めるには、あまりに窮屈で、あまりに「仮住まい」だった。
その夜、子供たちがようやく寝静まった後。
私たちは、キッチンカウンターの小さな椅子に並んで座った。テーブルの上には、冷めた麦茶と、使い古されたあの『マイホーム計画書』のノート。
「……瑞希。今日さ、陽葵が寝る前に言ったんだ。『もっとお部屋があったら、あーちゃんと喧嘩しないのにね』って」
健太の声は静かだったが、その奥に決意のような響きがあった。
私はコップの結露を指でなぞった。冷たい水滴が指先を伝う。
「わかるよ。私も今日、葵を追いかけてて、思いっきりタンスの角に足をぶつけちゃってさ。この狭さ、もう限界かもね」
私たちは顔を見合わせた。
二十歳の頃、病院の屋上で語り合った夢。
二十四歳で、結婚式の夜に誓い合った最強のチーム。
あの頃はまだ、「家」は遠い蜃気楼のようなものだった。でも、今は違う。隣の部屋で眠る二人の寝息が、私たちの背中を強く、強く押している。
「貯金、いくらになった?」
私の問いに、健太が最新の数字をノートに書き込んだ。
共働きの看護師として、夜勤をこなし、残業を厭わず、自分たちの贅沢を削って積み上げてきた、血と汗と涙の結晶。
「……やっと、頭金として勝負できるくらいにはなった。でも、東京で探すなら、相当な覚悟が必要だぞ」
健太が計算機を叩く。カチカチという規則的な音が、私の鼓動とシンクロする。
「ねえ、健太くん。子供たちが、泥んこで帰ってきても『汚さないで!』って怒鳴らなくていい家がいい。廊下を全力で走っても、下の階の人に謝りに行かなくていい家がいい」
「ああ。夜勤明けに、窓から朝日が入ってきて、子供たちの笑い声で目が覚めるような……そんな、俺たちの本物の『居場所』を作ろう」
健太の手が、私の手を包み込んだ。
その手は、十年前よりも少しゴツゴツして、数々の処置や家事で荒れている。けれど、これまでで一番、頼もしく感じられた。
「明日、不動産屋に行ってみよう。まずは、自分たちがどれだけ戦えるのか、現実を見に行こうぜ」
「うん。……怖くないって言ったら嘘になるけど。でも、私たちなら大丈夫だよね。あの激務を乗り越えてきたんだから」
私たちは、冷めた麦茶で小さく乾杯した。
窓の外、東京の夜景は相変わらず眩しい。かつてはただの光の列だったそれが、今は私たちが挑むべき「戦場」のように見えた。
三十歳。看護師として働き盛り。
私たちはついに、夢の設計図を描き始める。
五歳と三歳の娘たちの、未来という名の土地の上に。
「……七千万円、超えるかな」
「かもな。でも、それ以上の価値を、俺たちで作っていくんだよ」
戦場のような毎日の先に、静かな、けれど情熱に満ちた夜が更けていく。
第5話、私たちの物語は、ここから加速する。
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**【次回予告】**
第6話:夜勤とバトンタッチ
「パパ、いってらっしゃい。ママ、おかえりなさい」
駅の改札で行われる、夫婦の「バトンタッチ」。多忙を極める日常の中で、夢のために走り続ける二人のリアルな奮闘記。
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