第4話:初めての命、初めての涙

つわりの吐き気は、病院の消毒液の匂いを、耐え難い「異臭」へと変えた。


 結婚して一年が過ぎた二十五歳の夏。私の腹部には、小さな、けれど確かな拍動が宿っていた。

 看護師として、数えきれないほどの「命の誕生」と「命の終わり」に立ち会ってきた。胎児の心音の聴き方も、異常出血の対応も、教科書的な知識なら誰よりも頭に入っている。

 けれど、いざ自分の身にそれが降りかかると、知識はただの冷たい文字の羅列に過ぎなかった。


「……瑞希、大丈夫か? 水、飲む?」

 夜勤明け、トイレの床に座り込む私に、健太が駆け寄る。

「……ごめん。また、吐いちゃった。今日、検温回るの遅れちゃって、先輩に迷惑かけちゃった……」

「仕事のことはいいよ。今は、お前と、その子の中の『命』が一番なんだから」


 健太の温かい手が、私の背中を優しくさする。その手は、かつて屋上で誓い合った「戦友」の手であり、今は私の身体を気遣う「夫」の手だった。

 

 数ヶ月後。産声は、深夜の分娩室に響き渡った。

 五歳の長女が生まれた瞬間。

 赤紫色の肌、シワシワの指先、そして、この世の何よりも清らかな涙。

「……おめでとう、瑞希。頑張ったな」

 立ち会った健太の瞳も、真っ赤に充血していた。私たちは、初めて自分たちが「親」という、マニュアルのない役職に就いたことを知った。


 しかし、本当の試練は退院してから始まった。


「……お願い、泣き止んで……」

 午前三時。薄暗いリビングで、私は娘を抱いて立ち尽くしていた。

 生後三ヶ月。ひどい夜泣き。抱っこしても、おむつを替えても、ミルクをあげても、娘は火がついたように泣き続ける。

 寝不足で頭はガンガンと痛み、視界は砂嵐が混じったように霞む。

 看護師として「泣くのが赤ちゃんの仕事」なんて、患者の家族には何度も言ってきた。でも、今の私には、その泣き声が自分を責め立てるナイフのように聞こえた。


「……瑞希、交代するよ」

 奥の部屋から、健太がフラフラと起きてきた。彼もまた、日勤続きで限界のはずだった。

「いいよ、健太くん明日も早いんでしょ。寝てて」

「いいから。お前、さっきから手が震えてるぞ」

 健太が無理やり私から娘を奪うように抱き上げた。その拍子に、私の堪えていたものが決壊した。


「……わかってるよ! 私だって、看護師なんだからこれくらい出来るはずなのに!」

 叫んだ声が、静かな部屋に刺さる。娘がさらに激しく泣き出す。

「……なんで、教科書通りにいかないの? なんで、こんなに苦しいの? 命を預かる仕事をしてるのに、自分の子供一人、まともにあやせないなんて……」

 涙が止まらない。頬を伝う涙は熱く、情けなくて、喉の奥が震えた。


 健太は黙って娘をあやしながら、空いた左手で私の肩を抱き寄せた。

 彼のTシャツから、懐かしい、柔軟剤と微かな石鹸の匂いがした。

「瑞希。俺たちは看護師だけど、神様じゃない。……親、一年目なんだよ。同期なんだ、俺たちとこの子は」

 健太の声も、かすれていた。

「家を建てるための貯金とか、キャリアのこととか、今は全部横に置こう。……二人で、泣きながらでもいいから、今日を生き延びようぜ」


 娘の泣き声が、少しずつ小さくなっていく。

 窓の外、夜明けの群青色がゆっくりと白んでいく。

 かつて屋上で見た朝日とは違う、泥臭くて、必死で、でも確かな「生活」の音がする朝だった。


 私たちは、最強のチームを目指していた。

 でも、最強っていうのは、弱音を吐かないことじゃない。

 ボロボロの姿を見せ合って、それでも手を離さないことなんだ。


「……健太くん」

「ん?」

「……お腹すいた。おにぎり、作ってくれる?」

「了解。最強の夜勤明けメニュー、作ってやるよ」


 健太が笑った。

 私は、彼の腕の中で眠りについた娘の、ミルクの匂いがする柔らかな頭にそっと触れた。

 マイホームへの貯金は、思うように進まないかもしれない。

 仕事への復帰も、不安しかない。

 けれど、この小さな命の温もりを知ってしまった私たちは、もう、あの頃の「ただの二十歳」には戻れない。


 初めての命。初めての、本当の涙。

 私たちは、この子のための「家」をいつか必ず作るのだと、眠い目をこすりながら、心のカルテに深く刻み込んだ。


---


**【次回予告】**

第5話:三歳の姉と、新たな命

「パパ、お家せまーい!」

次女が誕生し、さらに賑やかになる高橋家。賃貸マンションの限界。子供たちの成長と共に、物語は再び「7680万円の夢」へと大きく動き出す。


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