第3話:24歳のウエディング・ベル
【第2章:結婚、そして試練】
第3話:24歳のウエディング・ベル
純白のドレスの裾が、ホテルの絨毯の上で静かに衣擦れの音を立てる。
鏡の中にいたのは、いつもの髪を振り乱して走り回る看護師ではなく、少しだけ背伸びをした二十四歳の私だった。
「……瑞希、綺麗だよ。本当に」
タキシード姿の健太が、少し照れくさそうに、でも誇らしげに私の隣に立った。彼の首元には、いつもなら聴診器があるはずの場所に、窮屈そうな蝶ネクタイが収まっている。
「健太くんも、今日はちゃんと『高橋看護師』じゃなくて、『新郎』に見えるね」
親族と、病院の同期や先輩たちに囲まれたささやかな式。披露宴の最中、私たちは何度も顔を見合わせて笑った。
上司からの祝辞は「命を預かる二人が、家庭という新たな病棟を立ち上げる……」という、いかにも看護師らしいものだった。けれど、私たちの心に深く響いたのは、乾杯のシャンパングラスが触れ合った時の、あの澄んだ音だった。
披露宴を終え、二次会も終わり、ようやく二人きりになったホテルのスイートルーム。
重いドレスを脱ぎ捨て、安物のスウェットに着替えた瞬間、私たちは同時にふかふかのソファへ倒れ込んだ。
「……疲れたぁぁぁ! 救急外来のフル稼働より疲れたかもしれない」
健太が仰向けになって天井を見上げる。
「本当だね。でも、やっと、本当に夫婦になったんだね」
「ああ。今日から、チーム高橋の始動だ」
健太は起き上がると、カバンから一冊のノートを取り出した。表紙には大きく『マイホーム計画書』と書かれている。今日という晴れの日に、彼はこれを持ち歩いていたのだ。
「二十四歳。世間から見ればまだ若い。看護師としても、中堅に足を踏み入れたばかりだ。正直、不安じゃないか?」
健太の問いに、私は窓の外に広がる東京の夜景を見つめた。宝石を散りばめたような光の群れ。その一つひとつに、誰かの生活があり、誰かの家がある。
「不安だよ。でも、一人じゃないから。ねえ、健太くん。私たち、これからどれくらい貯めなきゃいけないのかな」
健太はノートを開き、計算機を叩き始めた。カチカチという乾いた音が、静かな部屋に響く。
「東京都内で家を買うなら、今の相場だと数千万……いや、将来を考えたらもっとかかるかもしれない。俺たちの今の年収、夜勤手当をフルに入れて、ボーナスを全部貯金に回したとして……」
「私、家計簿つけるの頑張る。コンビニスイーツも我慢するし、夜勤だって喜んで入るよ」
「無理はすんなよ。でも、二人で頑張れば、年間でこれくらいは貯められるはずだ」
彼が示した数字は、気が遠くなるほど大きなものだった。
看護師の仕事は過酷だ。人の死に直面し、精神を削り、足が浮腫んで棒になるまで働き続ける。その対価として得られるお金の重みを、私たちは誰よりも知っている。
「これ、全部『家』になるんだね。私たちが流した汗と、我慢した眠気が、いつか壁になって、屋根になるんだ」
「そう思うと、夜勤のナースコールも、少しだけ前向きに取れる気がしないか?」
「ふふ、それはどうかな。でも……頑張れる。健太くんと一緒に、最強のチームになりたい」
私は、健太の手を握った。
結婚指輪が、照明を反射してキラリと光る。まだ指に馴染まない、少しだけ冷たいプラチナの感触。
「約束しよう。どんなに仕事が辛くても、このノートを閉じる時は、笑顔でいよう。家を買うのがゴールじゃなくて、そこで二人で笑って過ごすのがゴールなんだから」
「ああ、わかってる。……瑞希、まずは明日からの五連勤、生き残ろうな」
「やめてよ、現実に戻さないで!」
私たちは笑い合い、どちらからともなく手を繋いで、ホテルの広いベッドに潜り込んだ。
窓の外には、未来の私たちが住むはずの街が、どこまでも広がっている。
二十四歳の春。
私たちは、まだ何の手がかりもない夢に向かって、最初の十円玉を貯金箱に入れるような、ささやかな、けれど確かな一歩を踏み出した。
この時、まさか自分たちが後に「七千六百八十万円」という、想像も絶する壁に挑むことになるとは思いもしなかったけれど。
幸せな高揚感と、少しの疲労、そして心地よい重圧。
私たちは、新しい名前で呼び合う照れ臭さを抱えたまま、深い眠りに落ちていった。
明日からまた、戦場のような病棟が始まる。
でも、もう「寮」へ帰るのではない。「私たちの家」へ続く道を、歩き始めたのだ。
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**【次回予告】**
第4話:初めての命、初めての涙
「私、お母さんになれるかな……」
長女の妊娠。看護師として知っている「知識」と、初めて経験する「身体の変化」のギャップに苦しむ瑞希。そして、父になる健太の葛藤。
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