第2話:同期からパートナーへ

夜の病院は、昼間とは違う生き物のような呼吸をしている。

 遠くで鳴り続けるシリンジポンプのアラーム音、リノリウムの床を叩くナースシューズの乾いた音、そして、常に漂う微かな死と生の混濁した匂い。


 新人としての半年が過ぎた頃、私と健太は、戦友という言葉すら生ぬるいほどの極限状態の中にいた。


「瑞希、あっちの102区、心電図モニターの波形が怪しい。すぐにルート確保の準備を!」

 健太の鋭い声が、ナースステーションに響いた。

「わかった。除細動器も持っていく?」

「いや、まずは酸素だ。急げ!」


 私たちは、お互いの顔を見る余裕すらなかった。ただ、相手の足音や、点滴台を運ぶ金属音だけで、次に何をすべきかを察知する。

 急変した患者のベッドサイド。心臓マッサージを交代で続ける中、額から流れる汗が目に入る。拭う暇もない。ゴム手袋の中の手は汗で滑り、心拍再開を告げるモニターの電子音だけを、祈るような心地で待つ。


 その夜、患者はなんとか一命を取り留めた。


「……死ぬかと思った、本当に」

 午前三時。処置を終え、二人で機材の片付けをしていた。

 健太の指先が、わずかに震えているのが見えた。私の手も同じだった。

「高橋くんの判断、早かったね。私、一瞬頭が真っ白になっちゃった」

「俺だって必死だよ。でも、お前がすぐにアンビューバッグを繋いでくれたから、俺は胸骨圧迫に集中できた。……サンキュ」


 健太は、自分の首に下げたステートスコープを弄りながら、ふと私を見た。その瞳には、半年間の荒波に揉まれて磨かれた、プロとしての光が宿り始めていた。

 

「瑞希さ、最近変わったよな」

「え、何が?」

「前はすぐ泣きそうな顔してたけど。今は、誰よりも先に動いてる。……正直、負けてらんねえなって思うよ」


 その言葉が、熱を帯びて心臓に刺さった。

 厳しい指導医に「看護師向いてない」と突き放された夜、二人で非常階段に隠れて食べた冷え切ったコンビニのあんパン。あの時感じた砂糖の甘さと、悔し涙のしょっぱさは、いつの間にか、お互いへの深い信頼へと形を変えていた。


「私もだよ。高橋くんが隣にいると、なぜか『まだ頑張れる』って思えるんだ」


 そこからは、早かった。

 恋愛という甘い言葉よりも先に、「人生という当直」を一緒に回すパートナーとして、心が溶け合っていったのだ。


 ある休日の午後。初めて病院の外で会った私たちは、代々木公園の芝生に座っていた。

 仕事着ではない私服の彼は、どこか幼く見えて、不思議な感覚だった。

 吹き抜ける風が、病院の消毒液の匂いではなく、若葉の瑞々しい香りを運んでくる。


「なあ、瑞希。こないだ屋上で話した『家』のこと、覚えてる?」

 健太が、芝生をむしりながら唐突に切り出した。

「覚えてるよ。広いリビングと、大きなベッドが欲しいんだよね」

「……あれさ、一人じゃなくて、お前と一緒に住む家だったらいいなって、最近ずっと考えてるんだ」


 心臓がドクン、と跳ねた。

 彼の顔を見ると、真っ直ぐに私を見つめていた。その目は、急変対応の時の鋭さとは違う、壊れ物を扱うような優しさに満ちていた。


「俺、性格も雑だし、仕事人間だし、頼りないかもしれないけど。でも、看護師としてのお前を一番近くで支えたいし、俺のことも支えてほしい。……ずっと一緒に、戦ってくれないか」


 セリフの終わりを待たずに、私の視界は滲んでいた。

 この人と一緒なら、たとえどれだけ過酷な夜が来ても、朝日を待てる。

 この人と一緒なら、あの時夢見た「自分たちの居場所」を、本物の形にできる。


「……ずるいよ、高橋くん。私だって、同じこと思ってたのに」

 私は彼の手を握った。看護師特有の、少し荒れていて、でも温かい、命を救うための手。

「一生かけて、私を看護してよね。私も、あなたを支え続けるから」


「ああ、約束だ。……じゃあ、まずはこの後のデート、どこ行く?」

「牛丼は卒業して、今日はちょっといいお店に行きたいな」

「了解。じゃあ、まずは『予約』っていう、俺たちが一番苦手な業務をこなすか」


 二人の笑い声が、青空に溶けていく。

 同期としての「戦友」から、人生の「パートナー」へ。

 私たちは、まだ何者でもない二十代の入り口で、未来という名のカルテに、最初の一行を書き込んだ。

 それは、愛という文字よりも強く、契約という言葉よりも重い、魂の誓いだった。


 私たちは、この手で未来を掴む。

 たとえその代償が、七千六百八十万円という巨大な数字だったとしても。

 この時の私たちには、それを乗り越える確信しかなかった。


---


**【次回予告】**

第3話:24歳のウエディング・ベル

「この給料で、本当に家なんて買えるのかな」

結婚、そして本格的な貯金生活のスタート。理想と現実の間で揺れながらも、二人三脚で歩み出す新婚生活。


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