『僕たちのバイタルサイン ―東京、2DKから7680万円の夢へ―』
春秋花壇
第1話:20歳のステートスコープ
ゴムの焼けたような匂いと、消毒液のツンとした刺激が鼻腔にこびりついて離れない。
二十歳の春。私、木下瑞希(みずき)の視界は、常に白かった。白衣の白、ナースコールの点滅、そして寝不足で霞む意識の白。
都立病院の救急病棟。新人看護師として配属されて三ヶ月、私は自分の無力さに打ちのめされていた。先輩に怒鳴られ、受け持ち患者の容態変化に背中を冷やし、処置室の隅で震える毎日。
「……はぁ、死ぬかと思った」
午前九時十五分。夜勤明けの重い足取りで、私は病院の屋上へと続く重い鉄扉を押し開けた。
途端、五月の眩い光が網膜を刺した。生ぬるい風が、ナースキャップで蒸れた髪をなでる。コンクリートの照り返しが、疲れ切った目に熱い。
先客がいた。
フェンスに寄りかかり、遠くの新宿副都心を眺めている背中。同じ新人バッジをつけた、同期の高橋健太だ。
「お疲れ。……ひどい顔だな、木下」
健太が振り返る。彼もまた、目の下にクマを作り、頬はこけていた。
「……高橋くんだって。鏡見てから言ってよ」
私は彼から数歩離れた場所に腰を下ろし、硬いコンクリートに体重を預けた。お尻から伝わる熱が、冷え切った体には妙に心地よかった。
「点滴、三回失敗した」
健太がボソリと呟く。その声は、乾いた風にさらわれて消えそうだった。
「患者さんに『新人はあっち行け』って言われた。手の震え、止まんなくてさ」
「私は、検温の順番間違えて師長に十五分立たされた。……私たち、本当に看護師に向いてるのかな」
沈黙が流れる。遠くで救急車のサイレンが聞こえる。さっきまで私たちがいた戦場に、また新しい「命」が運ばれていく音だ。
私は首に下げたステートスコープ(聴診器)を指でなぞった。まだピカピカの、冷たい金属の感触。この道具一つで誰かの命の灯火を測るには、私の指先はあまりに頼りない。
「ねえ、高橋くん」
「ん?」
「……ここじゃないどこかに、逃げたくならない?」
健太は少しだけ笑った。自嘲気味な、でもどこか優しい響き。
「逃げたいよ。でもさ、どこに行けばいいかわかんないんだ。寮の壁は薄いし、隣の部屋のテレビの音聞こえるし。自分の家なのに、全然落ち着かない」
彼はフェンスを掴む手に力を込めた。
「いつかさ、自分たちの場所が欲しいよな。誰にも文句言われない、自分たちが本当に安心できる場所。……家とかさ」
「家?」
「そう。帰ってきたら、消毒液の匂いがしなくて、窓を開けたら静かな風が入ってくるような。そこにいれば、看護師じゃなくて、ただの自分に戻れる場所」
彼の言葉が、私の心の中の、乾ききった場所にポタポタと落ちていくのがわかった。
家。それは、今の私にとって一番遠い夢のような響きだった。
「いいな、それ。……私なら、キッチンが広い家がいい。仕事でボロボロになっても、そこで温かいスープを作って、ゆっくり飲むの」
「俺は、寝心地のいいベッドと、広いリビング。そこで一日中、泥のように眠るんだ」
「ふふ、それただの引きこもりじゃない」
「いいだろ。それくらい、今の俺たちには贅沢なんだから」
健太が私の隣に座り直した。彼の体温が、わずかに伝わってくる。
二十歳の私たちは、まだ何も持っていなかった。貯金通帳の残高は心許なく、技術は未熟で、明日への自信なんて欠片もない。持っているのは、首から下げたステートスコープと、終わりの見えない疲労感だけ。
「……約束しようよ、高橋くん」
私は無意識に、彼の腕に軽く触れていた。
「何を?」
「いつか、その『居場所』を手に入れるまで、辞めないこと。今日のこのボロボロの自分を忘れないこと」
健太は驚いたように私を見つめ、それから力強く頷いた。
「ああ。約束だ。……十数年後か、もっと先か分かんないけど。俺たちの家、作ろうぜ。東京のどこかに」
空はどこまでも青く、高く、突き抜けていた。
私の指先に残るステートスコープの冷たさが、次第に自分の体温で温まっていく。
この時、私たちはまだ知らない。
この誓いから六年後に夫婦になることを。
十年後、二人の子供の手を引き、七千六百八十万円という途方もない数字の契約書に、震える手で判を突くことを。
「……お腹すいたね」
「牛丼食べて帰るか」
「賛成。大盛りで」
立ち上がった健太の背中が、少しだけ頼もしく見えた。
コンクリートの熱を背中に感じながら、私たちは病院の階段を下りていく。
一歩、また一歩。
重い足取りは変わらないけれど、心の中には、まだ間取り図さえ存在しない「いつかの家」の灯火が、小さく、けれど確かに灯っていた。
これが、私たちの、長い長い十年の看護記録(ナース・ログ)の、最初の1ページ目だった。
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**【次回予告】**
第2話:同期からパートナーへ
「お互い、一番かっこ悪いところを見せ合っちゃったから」
仕事への誇りと、芽生える恋心。プロフェッショナルとして、そして一人の男女として、二人の距離が急速に縮まるエピソード。
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