第5話 執着と真実
あの日、湊くんを突き放してから、私の日常は色彩を失った。
大学の講義中も、移動中も、私の隣には常に「阿崎陽人」がいた。彼は周囲に対しては完璧に優しく、聡明な恋人を演じているけれど、二人きりになると、その瞳は冷たく私を縛り付けた。
「佐倉さん、今日のノルマは終わった? 君の書く俺、もっと楽しそうに笑わせてよ。このままだと、読者が俺に感情移入できないじゃないか」
学食の片隅で、彼は私のノートPCを覗き込みながら、まるでチェスの駒を動かすように私の文章を指図する。私のペンは、もう私の心を映してはいなかった。彼が望む、都合のいい「ヒーロー像」をなぞるだけの作業。それは、自分自身の魂を少しずつ削り取っていくような苦痛だった。
そこへ、飲み物を手に黒坂先輩が私たちの席の横を通りかかった。先輩は、私が書いている画面を一瞥し、鼻で笑った。
「……なんだ、その死んだ文字。阿崎、お前が欲しかったのは、こんな空っぽの紙人形か?」
その言葉に、阿崎くんのキーボードを叩く指がピタリと止まった。彼は顔を上げず、低く、湿り気を帯びた声で答える。
「……価値なんて、どうでもいいんですよ、先輩。中身が空っぽでも、この物語の中で彼女の隣に立っているのが『俺』であることに意味がある」
阿崎くんはゆっくりと顔を上げ、黒坂先輩を真っ向から睨みつけた。その瞳には、いつもの余裕など微塵もなかった。
「湊はいいですよね。何もしなくても、彼女のペンは勝手に彼を追いかける。……先輩だって一年前、講義室で読んだんでしょ?彼女が書き残したあの支離滅裂な物語を。 あの中心は、いつだって眩しいくらいの湊だ。俺は……彼女をどれだけ観察して、どれだけ言葉を尽くしても、彼女の物語の中には一文字も存在できない」
阿崎くんの指先が、私の肩を痛いくらいに強く掴む。
「この子の世界に俺がいないのは、俺のアピール不足と言われてしまえばそうなのかもしれない。でも、彼女が自分の作った物語で勝手に傷ついて泣くくらいなら……俺の好きな人が報われない物語なら、こうして現実ごと彼女を塗りつぶして、俺が無理やりにでも彼女が一番幸せな形に書き換えてあげるしかじゃないですか。……そうすれば、俺は彼女にとって『忘れられない主役』になれる」
それは、黒坂先輩に向けられた、醜くも切実な嫉妬の吐露だった。彼は私を愛しているというより、私が描く「世界」そのものを奪い取ることで、ようやく現実における私の「ヒーロー」になろうとしているようだった。
「……小学生以下の理屈だな。お前のやってるのは、物語の執筆じゃねえ。ただの強姦だ」
黒坂先輩は吐き捨てるようにそう言い残し、背を向けた。残された阿崎くんの横顔は、勝利者のそれではなく、暗い海の底に取り残された子どものような、酷い孤独に満ちていた。
黒坂先輩が去った後、阿崎くんはしばらくの間、私の肩を掴んだまま動かなかった。指先から伝わってくる微かな震えが、彼の言葉が単なる脅しではなく、もっと無様で切実な渇望であることを物語っていた。
「……阿崎くん、痛いよ」
小さく呟くと、彼は弾かれたように手を離した。
「ああ……ごめん。また、君を怖がらせたね」
彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべようとしたけれど、その口角は歪んでいた。私は、自分の手元を見つめる。阿崎くんの言ったことは、あまりにも卑怯で、けれど恐ろしいほど私には理解できてしまったのだ。
(「俺の好きな人が報われない物語なら、こうして現実ごと彼女を塗りつぶして、俺が無理やりにでも彼女が一番幸せな形に書き換えてあげるしかじゃないですか」……)
それは、私が小説を書き始めた動機と、鏡合わせのように似ていた。現実の世界に居場所がないから、自分の望む物語を書き、そこに閉じこもる。私は文字で世界を再構築したけれど、阿崎くんは現実の人間を動かすことで、自分の物語を完結させようとしている。
もし私が、湊くんという光に出会わず、物語という逃げ道も持っていなかったら。私も彼と同じように、誰かを力ずくで自分の世界に引きずり込み、存在を証明しようとしたのではないだろうか。
「……佐倉さん。まだ、続きを書いてくれるかな。俺が君のヒーローになる、あの物語を」
阿崎くんの瞳が、縋るように私を捉える。ここで拒絶して、彼の秘密をバラし、すべてを終わりにすることはできたはずだ。栞や先輩なら、迷わずそうしろと言うだろう。
けれど、私はできなかった。彼の底知れない孤独に触れてしまった今、彼を一人にすることは、過去の自分を見捨てるような、形容しがたい罪悪感を伴った。
「……うん。書くよ。阿崎くん」
私は、自らノートPCを開いた。湊くんを想い、自分の心を救うために使っていたこの指先は、今や阿崎くんの孤独を埋めるための道具になろうとしている。
「嬉しいな。やっぱり佐倉さんは、俺の期待通りの『作者』だ」
阿崎くんが満足げに私の背中に手を添える。その温もりが、今はひどく冷たい鎖のように感じられた。
湊くんを守るため。そして、目の前の壊れそうな少年を繋ぎ止めるため。私は、嘘の言葉を紡ぎ続ける。それは、誰にも読まれることのない、世界で一番惨めな執筆作業の始まりだった。
「時間あるなら、ちょっと付き合ってよ」
ある日、バイトへ行く彼女を見送っていると、彼女の友人に声をかけられた。
彼女に誘われ、俺たちはカフェテリアの端のテーブルに向かい合った。
「……阿崎くんは、実里をどうしたいの?なんで、実里じゃなきゃいけないの?」
その目は、興味本位で聞いているのではなく彼女の友人として心配の色を映している。
「こう言っちゃなんだけど、実里はお世辞にも可愛い部類には入らない。性格も根暗気味だし、正直口も悪いし、ずぼらで大雑把。服のセンスは壊滅的で……友人の贔屓目なしに、女としてはなかなか終わってるほうだと思う」
「この前から思ってたけど、君って本当に佐倉さんの友だち?」
「友だちだよ。だからこうやってわざわざ聞いてんじゃん。……実里を追い詰めて、その先にあんたは何が欲しいの?」
栞の問いに、阿崎は手にしていたティーカップを静かに置いた。鏡のような紅茶の水面に、自分の冷めた瞳が映っている。
「欲しいもの、か。そんなもの決まっている」
阿崎はふっと、毒を含んだ笑みを浮かべる。
「好きだから。愛しているから、彼女の全部が欲しいと思うのは当然でしょ? 彼女が隠している醜い妄想も、誰にも見せない震える指先も……そのすべてを俺が独占して、鎖で繋ぎ止めておきたい。それだけのことです」
栞は呆れたように鼻を鳴らした。
「……愛ね。あんたのは、愛じゃなくてただの呪いよ。それも質が悪すぎて、祓うのが超絶難しい類のね」
「呪いでも何でもいい。……湊にだけは、彼女を渡さない」
阿崎は席を立ち、カフェテリアを出た。
秋の訪れをつげる冷たい風に吹かれながら、彼はふと、あの四月の風景を思い出していた。
(――本当は、呪うつもりなんてなかったんだ)
入学式の掲示板。人混みから離れて、透明な壁の中に閉じこもっていた君の横顔。
君はきっと、俺たちが大学の共通講義で初めて言葉を交わしたと思っているだろうね。でも、違うんだ。
四月。桜が散り始めた入学式の日。華やかなスーツを着こなして、未来への希望を語り合う新入生たちの群れの中で、君だけがひどく場違いな顔をして、行動の隅に座っていた。誰かとしゃべろうともせず、ただ周囲を眺めるだけ。まるで彼女の周りに透明な壁でもあるかのように、この世界を「観察」しているようなその瞳。
(ああ、この子は俺と同じだ)
そう直感したんだ。君がどんな小説を書くのかも、君の過去に「佐野湊」という眩しすぎる太陽がいたことも、その時の俺はまだ知らなかった。ただ、君のあの寂しそうな、けれど気高い横顔に、どうしようもなく惹かれた。
君と接点が欲しかった。君の隣を歩くための理由が欲しかった。だから、君を観察し、君が隠していた「中身」を暴き出したとき、俺は失望するどころか、狂喜したんだよ。これでやっと、君と俺だけの秘密ができる。君が一番隠したかったその「秘密」こそが、俺にとっては君と繋がれる唯一の鎖だったんだ。
あの日、君が誰にも言わずに抱えていたその孤独に、俺は一方的に救われてしまった。接点が欲しかった。君が俺を認識してくれるなら、物語の「共犯者」でも、「敵」でも、何だってよかった。
「好きだ」なんて、安っぽい言葉で伝えたら、君はきっと俺をただの「善良なモブ」として分類して、すぐに忘れてしまっただろう。
(だから、俺は俺のやり方で、君の記憶の特等席を奪いに行く)
阿崎は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、少し雲が広がりだした空の向こうを見据えた。その瞳には、栞に見せた冷酷な笑みとは違う、ひどく幼くて、脆い執着の色が滲んでいた。
ハルに連れられて実里が消えてから、僕の時計は止まったままだった。
講義に出ても、エリカの隣で笑おうとしても、脳裏に焼き付いているのはハルの腕の中で凍りついていた実里の瞳だ。
(あいつ、あんなところにいたくないはずなのに……なんであんなに頑なに俺を拒むんだよ)
焦燥感に突き動かされ、俺は再び栞を呼び出した。
放課後の旧校舎裏。あの日、実里が俺ではなくハルを選んだベンチの前で、栞は相変わらず不機嫌そうに俺を睨んでいる。
「……で、何。まだ実里のことでウジウジ悩んでるわけ? アンタ、船山とのデートの時間は大丈夫なの?」
「エリカのことはいい。……それより教えてくれ。実里が隠してる『秘密』って、ハルが言ってた『妄想』って、一体何なんだよ」
俺が詰め寄ると、栞は深くため息をつき、空を仰いだ。
「……あんたにそれを言うのは、私の本意じゃないっていうか、実里を裏切ることになるっていうか……気乗りしないんだけどな」
「頼む。このままだと、実里が本当にハルに壊されそうなんだ。……あいつ、自分からあいつのそばにいるって言ったけど、あれは絶対に本心じゃない」
栞はしばらく黙っていたが、やがて軽蔑するような、けれどどこか同情を含んだ声で口を開いた。
「……あいつね、小説を書いてるのよ。ずっと前から」
「小説?それ、確か高校の時に……」
「あ、そこは知ってたんだ。そう……それも、あんたと船山のことをモデルにして、それを自分に置き換えた恋愛小説。自分はあくまでも『観察』に徹しておきながら、頭の中ではあんたに大切にされてる自分を夢見て、あんたを『王子様』に仕立て上げた、救いようのない妄想。……阿崎くんは、どんな経緯か知らないけど、それを偶然手に入れて、ネタにあいつを脅してる」
全身の血が引いていくような感覚がした。実里が書いていた小説。あの日、空き教室で彼女が大切そうに抱えていたノート。それが、彼女を縛り付ける鎖になっていたなんて。
「あいつにとってはね、自分の醜い自意識を誰よりもあんたに見られるのが、死ぬよりも恥ずかしくて怖いことなのよ。だからアンタを遠ざけて、阿崎くんの懐に逃げ込んだ。……自分の『神域』を荒らされるくらいなら、泥沼に沈む方を選んだの」
「……馬鹿だよ。そんなこと、俺は……」
「馬鹿よ。あいつも、あんたもね」
栞は僕の言葉を遮り、鋭い口調で畳み掛ける。
「いい? 実里が今、阿崎くんのそばにいるのは『脅されてるから』だけじゃない。あいつ、阿崎くんの中に自分と同じ『孤独』を見ちゃったのよ。だから責任を感じて、共倒れになろうとしてる」
風が吹き抜け、栞の長い髪が揺れる。
「今さら『王子様』が現れて、『その小説を読んでも嫌いにならないよ』なんて甘いセリフを吐いたところで、あいつのプライドが許さない。……あいつを救いたいなら、アンタもヒーローごっこはやめなさい。あいつの汚い部分も、阿崎くんの歪みも、全部丸呑みして泥を被る覚悟があるの?」
俺は拳を強く握りしめた。エリカという「正解」の隣で、綺麗なままの実里だけを見ていた俺。けれど、栞の言う通り、実里の本当の救いは、そんな清潔な場所にはないのだ。
「……泥を被るなんて、最初からそのつもりだよ」
実里の書く物語がどんなに醜くても、彼女が俺をどう描いていようと、そんなことはもうどうでもいい。俺は「ヒーロー」としてではなく、彼女と同じ地獄に落ちてでも、その腕を引く男になりたかった。
阿崎くんの傍に居続けることを選んでから、私の世界は静かに、けれど確実に壊れ始めていた。
そんなある日の放課後、阿崎くんが教授に呼ばれて席を外した隙に、彼女は現れた。
「……実里、少し話せる?」
船山さんだった。大学一の美少女と名高い彼女は、いつも通りの完璧な笑顔ではなく、どこか決然とした、それでいて寂しげな瞳で私を見つめていた。
連れて行かれたのは、キャンパスの隅にある静かなカフェのテラス席だった。
「湊くん、最近おかしいの。私と一緒にいても、心ここに在らずっていうか……。栞に何を聞いたのか知らないけど、あの日からずっと、何かを覚悟したような目をしてる」
船山さんはティーカップを見つめたまま、一気に言葉を継いだ。
「私、阿崎くんにも聞いてきたわ。『実里と付き合ってるって本当?』って。……そしたらアイツ、笑いながら言ったわよ。『俺たちは恋人だよ』って。ねえ、実里。あんた、阿崎くんに何か弱みでも握られてるの?」
「それは……」
声が詰まる。船山さんの真っ直ぐな視線が痛い。
「……いいわ。言いたくないなら。でも、1つだけ盛大な勘違いを解いておくわね。あんた……私が湊くんと付き合ってるから、自分は身を引くべきだって、そう思ってない?」
図星だった。私の書いた物語では、二人はお似合いの主役で、私はそれを邪魔してはいけない背景のはずだった。
「湊くんと私はね、まだ『本当の恋人』じゃないのよ」
「え……?」
「お試し交際、っていうのが正しいかな。私が無理を言って、少しの間だけ付き合ってみてってお願いしたの。その間に私のことをちゃんと知って、もし湊くんがその気になったら、改めて交際しようって。……そんなズルいルールで繋ぎ止めてただけ」
船山さんは自嘲気味に笑い、私の目を見た。
「でも、もう結果は出ちゃったみたい。……湊くんが本当に守りたいのは、私じゃない。ボロボロになって、阿崎くんの隣で震えてるあなたなのよ」
心臓が激しく脈打つ。私が「完璧な物語」だと思っていた二人の関係は、実は不安定で、不器用な歩み寄りの最中だった。
――佐野くんにも選ぶ権利があるって知ってる?
少し前に栞から言われた言葉を思い出した。私の勝手な思い込みが、また湊くんの意志を無視して、彼を船山さんという枠に閉じ込めようとしていたのだ。
「実里。私は湊くんが好き。だから、彼が心から笑えない隣に居続けるのは、私のプライドが許さない。……阿崎くんとのことも、湊くんとのことも、自分でちゃんとケリをつけなさいよ。これ以上、私の王子様に情けない顔をさせないで」
「これ以上湊くんを困らせたら、今度は力づくでも奪うわよ」
背中を押すようにかけられた声の裏で、船山さんは悔しそうに笑って去っていった。
残された私は、震える手で自分の胸元を掴んだ。私が守ろうとした物語は、最初から間違っていた。船山さんの潔さが、私の卑怯な逃げ道を塞いでいく。
湊くんは、私の想像以上に、私を見てくれていた。
その事実が何よりうれしいと思ってしまった。ああ、好きな人に想ってもらえるって、こんなに嬉しいことだったんだ。今まで物語の中でしか知ることのできなかった感情が、冷めきった心を少しだけ温めた。
――実里。
頭の中の彼が、私の名前を呼ぶ。そうか、ずっとそんな優しそうな顔をしてくれてたんだね。気づけなくて、ごめんなさい。
彼の思いを改めて自覚すると同時に、今のまま阿崎くんの孤独に同情して隣にいることは、もしかしたら彼に対する一番の不誠実なのかもしれない。
実里との話を終えたその足で、エリカは校門前の銀杏並木に湊を呼び出していた。夕日に照らされた銀杏の葉が、彼女の金髪のように眩しく揺れている。やってきた湊は、どこか言い訳を探すような、落ち着かない視線を泳がせていた。
「エリカ、ごめん。待たせたか?」
「ううん、今来たところ。……湊くん、顔。すごく必死な顔してるよ」
エリカは、わざと茶化すように笑った。けれど、その指先はコートのポケットの中で強く握りしめられている。
「……湊くん。私ね、さっき実里に会ってきた」
「えっ、実里に?」
「そう。あの子、阿崎くんと一緒にいたわ。……でもね、あの子の目は、隣にいる阿崎くんじゃなくて、ずっと遠くにいる『誰か』を探してた」
エリカは一歩、湊に歩み寄った。二人の影が長く伸びて重なる。
「湊くん。私たちの『お試し交際』、今日で終わりにしましょう。……私から、振ってあげる」
「エリカ……」
湊の声が、罪悪感でかすれる。それを遮るように、エリカは凛とした声で続けた。
「謝らないで。謝られたら、私が全部惨めなものになっちゃう。……湊くんは、私と一緒にいるとき、いつも『完璧な彼氏』だった。優しくて、レディファーストで、誰に自慢しても恥ずかしくない王子様。……でもね、一度も『ただの湊くん』を見せてくれなかった」
彼女の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。けれど、それは決して零れ落ちなかった。
「あなたが本当に心から笑ったり、怒ったり、なりふり構わず誰かを助けに行こうとするのは……私の前じゃない。実里の前でだけなのよ。……悔しいけど、私にはその場所を奪うことはできなかった」
湊は言葉を失い、ただ彼女の言葉を受け止めるしかなかった。エリカがどれほど自分の変化に敏感で、どれほど自分を想ってくれていたかを、今さら突きつけられたのだ。
「……ごめん。……エリカ、俺、本当にお前のこと……」
「『いい子だと思ってる』なんて言ったら、一生恨むからね」
エリカは最高の笑顔で、湊の胸を軽く小突いた。
「いい? あの子、今にも壊れそうだった。あの子の物語の中に、あんたっていうヒーローが必要なの。……早く行きなさいよ。私の王子様を卒業して、あの子だけのヒーローになってあげて」
「……ありがとう、エリカ。本当にかっこいいよ、お前」
「……バカ。かっこいいなんて、一番言われたくない言葉よ」
湊が深く頭を下げ、駆け出していく。その足音が遠ざかるまで、エリカは背筋を伸ばしたまま立ち尽くしていた。やがて完全に気配が消えたとき、彼女はふっと力を抜き、銀杏の幹に寄りかかった。
「……あーあ。けっこう本気で頑張ったんだけどな」
エリカは空を見上げ、一人で小さく鼻をすすった。
――始めは、クラスの中で浮いてる陰キャへの嫌がらせのつもりだった。
あの子が湊に片思いしてるのなんて、目を見ればわかる。こんなチンチクリンに思われてる男はどんな奴だろう。っていう興味あって、調べてみたらこれがまたイケメンで。私がちょっと押せばコロッとこちらに傾いてくれるかな?そしたらあの陰キャはどんな顔するのかな?と、思っただけなのに……私のほうが本気になってしまった。
「でも、負けちゃった。悔しいなあ……」
これで、湊は自由になった。自由にしてあげた。
「ちゃんと、ものにしなさいよ。私が譲ってあげたんだから」
放課後の研究棟、西日が長く伸びる渡り廊下。俺は一人で、ハルが来るのを待っていた。やがて、実里をどこかに送り届けたらしい彼が、鼻歌まじりにこちらへ歩いてくる。
「おや、湊。まだ佐倉さんに未練があるのかい? 彼女なら今、俺のために『続き』を書くのに忙しいんだ」
ハルは余裕の笑みを浮かべて俺の横を通り過ぎようとした。その肩を、俺は逃がさないように強く掴む。
「……ハル。お前がどんな方法で実里を手に入れたのか、全部知ってる」
阿崎の動きが止まった。振り返った彼の瞳には、薄ら寒い静寂が宿っている。
「栞から聞いた。実里の書いてた小説のこと。お前、それをネタに、あいつを脅して隣に置いてるんだろ。……最低だな、お前」
「最低? 心外だな。俺は彼女の作品を誰よりも評価し、守ってあげているだけだ。君に見られたら、彼女は死んでしまうだろうからね。……知ったうえでどうする? 軽蔑して、彼女を解放してくれと泣いて頼むのかい?」
ハルは俺を試すように、歪んだ笑みを深めた。けれど、俺は揺らがなかった。今の俺には、綺麗な正論なんて必要ない。
「いいや。……全部知ったうえで、俺は実里がほしい」
ハルの笑みが一瞬で消えた。眼鏡の奥の瞳が、驚愕に細められる。
「……何だって?」
「あいつが俺をモデルにどんな妄想をしてようが、俺をどう利用してようが、そんなのどうでもいい。俺は、俺が惚れた実里を、お前の檻から奪い返す。お前がどれだけあいつの秘密を盾にしたって無駄だ。俺はあいつの汚い部分も、卑怯なところも、全部ひっくるめて手に入れるって決めたんだ」
宣戦布告だった。
ハルは一歩詰め寄り、俺の胸ぐらを掴み返した。その瞳には、今までに見たことのない激しい「熱」がこもっている。
「……正気か、湊。その答えが、彼女をさらに苦しめるかもしれないってわかっていても、ほしいって言うのか?」
「ああ」
「彼女は君に見られることを何よりも恐れているんだ。君が執着すればするほど、彼女は自分の醜さに耐えられなくなって壊れる。……それでも君は、自分の欲のために彼女を地獄へ引きずり戻すのか?」
「地獄なら、俺も一緒に行く。……あいつを一人でハル、お前の隣っていう孤独に閉じ込めておくより、よっぽどマシだろ」
ハルの指が、怒りか、あるいは絶望か、激しく震えていた。彼は初めて、自分の言葉が通じない相手に出会った子どものような顔をした。
「……面白いね、湊。そこまで言うなら、試してみようか。君のその『無私な愛』が、彼女の絶望に勝てるのかどうかを」
ハルは突き放すように僕を放すと、闇を孕んだ視線を残して立ち去った。
船山さんの言葉は、私が必死に積み上げてきた「悲劇のヒロイン」としての物語を、跡形もなく吹き飛ばした。湊くんを守るため犠牲になっているつもりだった私は、ただ、彼が差し出していた真っ直ぐな手から逃げていただけだったのだ。
その日の夜。私は重い足取りで、黒坂先輩がいつもいる研究室へと向かった。研究室の奥。来客用に設置された大きなソファの上に、先輩はいた。
「……なんだ、その顔。阿崎にでも捨てられたか」
先輩は片目だけ開けると、冷ややかに言い放つ。私は向かいのソファに座ると、震える手でカバンからノートPCを取り出した。
「先輩。私……阿崎くんとの関係を、清算しようと思います」
先輩が初めて両目を開けて、私の前に座りなおして私を真っ向から見た。その瞳には、私の覚悟を品定めするような鋭さがあった。
「清算? 秘密をバラされるのが怖くて、あいつの足元で鳴いてた奴が、急にどうした」
「……船山さんに会いました。私、ずっと勘違いしてたんです。佐野くんと彼女は完璧な主役で、私は邪魔者だって。でも、事実は違った」
私は、膝の上で拳を握りしめた。
「自分を被害者にして、阿崎くんの孤独に同乗して逃げ続けるのは……もう、やめたいんです。それが、誰よりも湊くんに対して失礼だって、ようやく気づきました」
先輩は鼻で笑い、ポケットから煙草を出すと、火をつけることなく口にくわえた。
「……気づくのが遅せえんだよ。お前が書いてたのは物語じゃねえ、ただの言い訳だ。自分を悲劇のヒロインにして、可哀想な自分に酔いしれてるだけの、安っぽい三流コメディだ」
先輩は無造作に私のノートPCを引き寄せると、スリープを解除させた。画面には、阿崎くんに書かされていた「歪なハッピーエンド」が並んでいる。
「このゴミみたいな原稿を、自分の手で消す度胸はあるのか? 阿崎がバラそうとしてる『恥ずかしい妄想』を、裸で晒される以上の覚悟を持って、お前自身が『真実』に書き換える気はあるのか?」
「はい。……書きます。嘘じゃない、私の本当の気持ちを。それが、どれだけ醜くても」
「……そうか。じゃあ、これを消せ。お前の意思で」
先輩がエンターキーの上に指を添える。私は震える手で、その上から自分の指を重ねた。
「阿崎を拒絶すれば、お前の秘密はバラされるだろう。お前が隠したかったドロドロの妄想が、世間に晒される。……それでもいいのか?」
「はい。誰かに笑われる恐怖より、湊くんに嘘をつき続ける自分の方が、よっぽど耐えられないから」
私は迷わず先輩の指の上からキーを叩いた。画面上の「阿崎の望んだ結末」が、一瞬で空白に変わる。
「……なら、いいんじゃね。お前の物語は、もうお前だけのものだ」
先輩はそう言うと、初めて口角をわずかに上げた。その顔は、師匠でも先輩でもなく、同じ「言葉」に命を削る同志のそれだった。
「書けよ。誰のためでもねえ、お前自身の叫びをな」
「ふざけた内容じゃなけりゃ、また読んでやる」黒坂先輩はそう言うと、PCを私に押し戻した。その指先には、初めて私を「書き手」として認めたような、かすかな力がこもっていた。
その日の夜、私は震える指をキーボードに乗せた。 今度は誰かに命じられた言葉じゃない。私が、私として湊くんに伝えたい「本当」を。 最初の一文字を打ち込んだその音は、私の耳にはどんなファンファーレよりも力強く響いた。
――明日、私は阿崎くんに会う。彼が握っている「秘密」という名の鎖を、自分自身で断ち切るために。
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