第4話 加速する歪み
「そのまま昼食へ行こうか?」と笑う阿崎くんが突然教授に呼ばれ、ようやく「監視」が解かれた。
私はそのまま講義を一本自主休講にして、一人図書室の一番奥の書架で呼吸を整えていた。けれど、背後から近づく聞き慣れた足音に、心臓が跳ねる。
「……逃げんなよ。もうハルはいねーだろ」
振り返ると、湊くんがそこにいた。船山さんといる時の作り物のような笑顔ではない、ひどく傷ついた、けれど剥き出しの熱を孕んだ瞳。
「佐野くん……。船山さんは?あ、授業…… 」
「あいつの話はいい。今は、お前の話をしてるんだ」
湊くんが、本棚に手をついて私の逃げ道を塞ぐ。映画館の暗闇で触れた時よりも、今の彼の体温はずっと高く、鋭く感じられた。
「実里。お前、本当にハルが好きなのか? あいつが、お前の何を見てるか分かってて付き合ってんのかよ」
「阿崎くんは……私のこと、ちゃんと見てくれてるよ。湊くんが知らない私のことも」
私の言葉に、湊くんが絶望したように顔を歪める。
(そうだ。阿崎くんは私の『醜い妄想(小説)』を知っている。それを面白いと言ってくれた。綺麗な光の中にいる湊くんには、そんな私の泥濘(ぬかるみ)なんて見せられない)
「俺だって見てるよ! 昔からずっと……! 実里、俺がエリカと付き合ってるのは……」
「言わなくていいよ。分かってるから」
私は湊くんの言葉を遮った。彼が言おうとしているのはきっと、「船山さんに押し切られた」とか「実里に背中を押されたから」という理由だろう。それは私にとって、自分の書いた『物語』の正しさを証明する残酷な宣告でしかない。
「お似合いだよ、二人とも。佐野くんは、船山さんみたいな明るい場所が似合う人だもん。……私みたいな、暗い場所でしか呼吸できない人間と一緒にいちゃダメなんだよ。だから、もう私のことは放っておいて」
「……お前、本気で言ってんのか?」
湊くんの声が、震えている。彼は私の眼鏡の奥を覗き込もうとしたが、私は咄嗟に視線を逸らした。
「ああ、そうかよ。お前の中の俺はそんなに信用ねーんだな。……分かったよ。お前がそこまで言うなら、俺は徹底的に『お前の理想通りの男』を演じてやる。エリカを誰よりも幸せにして、お前が後悔する隙もないくらいのヒーローになってやるよ」
「……っ」
違う。そんなことが聞きたいんじゃない。でも、私の口から出たのは「……うん。頑張って」という、最低の激励だった。
湊くんは、吐き捨てるように背を向けて去っていった。 私は崩れ落ちるように書架に背を預ける。
(これでいい。これで湊くんは、完璧なハッピーエンドに向かって歩き出した)
心臓が千切れそうなほど痛いのに、私の脳内では、また新しい悲恋の物語が動き始めていた。湊くんの「好き」という叫びは、私の卑屈な翻訳機(フィルター)によって、「実里への失望」へと書き換えられてしまったのだ。
湊くんの足音が遠ざかり、図書室の奥に、また元の静寂が戻ってきた。私は、彼が去っていった方向を、ただぼんやりと見つめていた。
「……これでいいんだ」
自分に言い聞かせるように声に出した。彼は船山さんと幸せになる。私は阿崎くんの隣で、安全に物語を書き続ける。私の書いた、完璧なシナリオ。
けれど、視界を塞ぐように置いた自分の手を見て、私は凍りついた。――手が、震えて止まらない。
心臓の奥が、今までに感じたことのないほど熱く、そして暴力的な痛みを上げていた。頭の中に溢れてくるのは、小説の美文化された言葉じゃない。 高校の頃から見てきた、教室の中心で輝いていた湊くんの横顔。私の名前を、特別なものみたいに呼んでくれたあの声。あの日、映画館の暗闇で触れた、熱すぎる指先の記憶。
(あ……。私……)
その瞬間、ダムが決壊したように、私は自分の「本当の気持ち」を悟ってしまった。私が彼に船山さんを勧めたのは、彼を想ってのことじゃない。自分が傷つくのが怖くて、彼からの真っ直ぐな好意に耐えられなくて、自分の安全な「観客席」を守るために、彼を別の女に押し付けたんだ。
(私は、湊くんが好き。……大好きだったんだ)
自覚した瞬間に溢れ出たのは、甘酸っぱい喜びなんてものじゃなかった。それは、自分の手で「運命」をゴミ箱に捨てて、二度と戻れない扉を閉めてしまったという、耐え難い後悔と絶望だった。
私はその場に蹲り、誰にも見られないように声を殺して泣いた。書き上げたばかりの「完璧な物語」が、自分の涙でぐちゃぐちゃに溶けていくのを、止めることさえできなかった。
「……大好きだったんだ」
一度自覚してしまえば、今までかけていた「物語」という名のフィルターは粉々に砕け散った。
私は、自分がどれだけ卑怯だったかを思い知る。傷つかないために湊くんを捨てた。その結果、私は誰よりも彼を、そして自分を傷つけた。膝をつき、声を殺して泣く私の視界は、涙と曇った眼鏡で真っ白だった。
その時、頭上から聞き慣れた、けれど今は一番聞きたくない低い声が降ってきた。
「……いつまでそこで、ボロ雑巾みたいに丸まってんだよ」
黒坂先輩だった。見上げると、先輩はいつものように無愛想な顔で、けれどどこか呆れたような、射抜くような視線を私に投げかけていた。
「先輩……。私……」
「湊とあんなクソみたいな別れ方して、今さら『ヒロイン』の役になりたくなったか?」
先輩は私の隣にしゃがみ込むと、震える私の手から投げ出された荷物たちを無造作に拾い上げた。
「やめて、ください……。見ないで……」
「見ねえよ。お前の書いた嘘っぱちのハッピーエンドなんて、一行も興味ねえ」
黒坂先輩はそう吐き捨てると、私の眼鏡をひい、と指で持ち上げた。視界が少しだけクリアになり、先輩の鋭い瞳が至近距離で私を捉える。
「……泣くくらいなら、最初から書くな。現実を書き換える度胸もねえクセに、神様ごっこしてんじゃねえよ」
突き放すような言葉。なのに、先輩の手は私の頭を、大きな掌で乱暴に、けれど確かに包み込んだ。その重みに耐えきれず、私は先輩の服の裾を掴んで、子どものように泣きじゃくった。
黒坂先輩に連れられ、私はふらふらと立ち上がった。先輩は何も言わず、私の荷物を小脇に抱え、「歩け」とだけ言って先を歩く。その背中は、どんな物語にも書けないほど不器用で、確かだった。
図書室の重い扉を開け、廊下に出た、その時。
「おや。先輩に先を越されるなんて、計算外だな」
冷ややかな、けれど艶のある声。壁に背を預け、腕を組んで待ち構えていたのは、阿崎くんだった。
彼は私たちが並んでいるのを見て、眼鏡の奥の瞳をすっと細める。
「阿崎……。お前、まだそこにいたのか」
黒坂先輩が私を一歩後ろに隠すように、阿崎くんの前に立った。
「ええ。僕の『恋人』が、迷子になって泣いているんじゃないかと思ってね。……先輩、その子は僕との一応恋人関係にあるんです。勝手に連れ去られては困るな」
阿崎くんがゆっくりと近づき、黒坂先輩の腕を掴もうとする。二人の間に、一瞬でピリついた火花が散った。
「恋人? 笑わせんな。弱み握ってこいつの首に鎖つけてんのが、お前の言う『恋人』かよ」
黒坂先輩は阿崎くんを真っ向から睨みつける。
「前にも言ったけどさ、お前のその感情、小学生みたいな執着だな。そのねじ曲がった性格、直さねえとモテないぞ」
阿崎くんの微笑みが、一瞬だけぴくりと凍りついた。けれど彼はすぐに、より深く、底の知れない笑みを浮かべて私を見つめた。
「……わかりましたよ、先輩。今は、あなたに預けます。でも、佐倉さん」
阿崎くんの声が、一段と低くなる。
「君が自分の汚い心を自覚したところで、現実は何も変わらない。湊は船山さんの元へ行った。そして、君の秘密を握っているのは、僕だけ。……ちゃんと自覚出来たら、僕のところへ戻っておいで」
阿崎くんはそれだけ言うと、優雅な足取りで立ち去っていった。残されたのは、先輩の低い舌打ちと、私の消えない震えだけだった。
自覚してしまった「恋心」を抱えたまま、私は黒坂先輩の隣で、阿崎くんという逃れられない闇に引きずり戻されるのを待つことしかできなかった。
阿崎くんの粘つくような視線から逃れ、先輩に連れてこられたのは、旧校舎の裏手にある誰もいないベンチ。先輩は乱暴に私のカバンを隣に置くと、ポケットから煙草を取り出し、火をつけずに指先で弄んだ。
「……いつから、知ってたんですか」
震える声で尋ねる。阿崎くんにバレたのはつい最近だ。でも、先輩のあの言い草は、もっとずっと前から私の「中身」を知っていたようだった。
「 ――あ、一年前くらい前、お前そっちのメモ代わりにしているノートを講義室に忘れていったことがあっただろ」
一年、前。確かに一度、高校生の時に書いていたノートをPCに清書しよと思って大学に持ってきて、そのまま忘れていったことがある。アパートに戻ったときに気が付いて、その日の夜は誰かに読まれてはいないかと気が気じゃなかった。翌朝一番に講義室に行ったら、誰かに動かされた形跡もなく机の中に残っていたので大丈夫かと思っていたのだが、まさか黒坂先輩に読まれていたなんて。
最悪だ。自分でも忘れていた大失態を、この人はずっと握っていた。
「読んだんですか……?」
「ああ。反吐が出るほど、つまんねえ物語だったよ」
蓮先輩は煙草を口に咥え、冷たい目で私を見下ろした。
「自分を可愛く飾り立てて、男に愛されて……。まあご都合主義もりもりの内容。今時少女漫画でもここまでじゃないだろう。って思った後、これを書いたやつの顔を拝んでみようと、翌朝講義室の前を張ってたらお前が来た」
「先輩、もしかして暇人ですか?」
「慰めてやろうとしてる優しい先輩に対して失礼だな、お前」
冗談めいた私の言葉に、ちょっとだけ先輩のまとっている空気が柔らかくなった。
「んでだ、現実の自分は誰とも向き合わず、画面の中だけでしか笑えない。……なんて可哀想な奴なんだって、最初はただの同情だったよ。お前がそれを、命の次に大事な聖域みたいに抱えてるのを見るたびにな」
「可哀想……」
「そうだよ。現実に恋もできねえから、他人の恋愛を盗んで自分の栄養にしてる。……ハイエナと同じだろ。それがお前の言う『背景』の正体だ」
黒坂先輩の言葉は、阿崎くんの脅しよりもずっと重く、私の自尊心を粉々に砕いていく。けれど、先輩はそこで言葉を止めなかった。
「でも、最近のお前の原稿……。湊が出てきてから、明らかに筆が鈍ったろ。神様気取ってたお前が、自分の書いた『物語』に殺されかけてる。……それを見て、ようやく『可哀想な奴』から、『見てて面白い奴』に昇格したんだよ、お前は」
先輩の手が、再び私の頭を乱暴に撫でる。
「阿崎に言われただろ。お前のペンは三流だ。……でもな、三流なら三流なりに、そのぐちゃぐちゃになった現実をそのまま書けよ。嘘のハッピーエンドなんて、お前にはもう似合わねえ」
先輩の言葉は、毒のようでいて、私を現実に繋ぎ止める唯一の「楔」だった。私が湊くんを好きになったことも、阿崎くんに脅されていることも、すべてを見透かした上で、彼は私に「書け」と言っている。
阿崎くんが「支配者」なら、蓮先輩は「冷徹な編集者」だ。それでも二人の男に挟まれ、湊くんという光を失った私は、もう綺麗な嘘を綴ることはできなかった。
実里が蓮に回収され、旧校舎の裏で自分の無力さを突きつけられていた頃。学食近くのテラス席では、大学公認の「主役カップル」が遅めのランチを摂っていた。
エリカは上機嫌で、週末の予定を湊に話しかけている。けれど湊は、パスタにフォークを突っ込んだまま、どこか遠くを見つめていた。図書室で実里を突き放した時の、自分の手の痺れがまだ残っているかのように。
「――ねえ、湊くん聞いてる? 来週なんだけど……」
「あ、ああ……悪い、何だっけ」
その、ひどく上の空な返事と同時に、テーブルに影が落ちた。
「ちょっと、佐野湊。ツラ貸しな」
ドスの効いた声。見上げると、そこには腕を組み、仁王立ちで二人を見下ろす栞がいた。エリカはパッと顔を輝かせ、同時に少しだけ警戒の色を浮かべる。
「あ、栞! ちょうど良かった、今から湊くんと――」
「船山。悪いんだけどアンタの王子様、ちょっとだけ借りるわ。……女子にしか分からない『大事な相談』があるのよ。あんたには聞かせられない類のね」
「は?俺は別に……」
「私、佐倉実里の友人なの。これ聞いて、少しは納得して付いてきてもらえるかな?」
実里の名前を出すと、湊はあからさまに動揺の色を映した。栞はそのまま有無を言わせぬ圧力で、湊の襟足を掴む勢いで立ち上がらせた。
「ほら、行くよ。……船山、すぐ返すから」
湊は困惑しながらも、栞のただならぬ気配に押され、エリカを残して人影のない渡り廊下へと連行された。
渡り廊下の突き当たり。栞は湊の体を壁に押し付けるような位置に立つと、その鋭い視線で彼を射抜いた。
「……何だよ、急に」
「何だよ、はこっちのセリフよ。アンタさ、さっき実里と何話したの? あいつ、今、黒坂先輩の横で死んだ魚みたいな顔して泣き崩れてんだけど」
湊の肩が、びくりと跳ねた。
「……あいつが? でも、あいつは……俺に、エリカを幸せにしろって、頑張れって」
「実里も大概バカだけど……アンタも、本当にバカなの?」
栞は湊の胸ぐらを掴み、ぐいと顔を近づけた。
「実里が『頑張って』なんて言う時、どんな顔してたか一秒でも見たわけ? あの子が自分の本心をそのまま喋るわけないでしょ。あいつは、傷つくのが怖くて、アンタが離れていくのが怖くて、必死で自分に『これは物語だ』『自分はわき役だ』って嘘ついてアンタを追い出したのよ!」
「嘘……? じゃあ、ハルのことは……」
「多分。としか言えないけど、阿崎くんに弱み握られて、断れない状況になってんのよ。あいつ、自分の気持ちを自覚した瞬間に絶望してると思う。アンタが去っていった背中を見て、一生分後悔してる最中よ」
湊の瞳が、激しく揺れ動く。エリカという「正しい選択」をしたはずの自分。けれど、栞に突きつけられたのは、自分が救うべき相手は誰なのかという、残酷なまでの真実だった。
「アンタさ、ヒーロー演じるのは勝手だけど、あいつが今どんな気持ちで、誰に壊されかけてるのか……ちゃんと自分の目で見に行きなさいよ。それとも、このまま阿崎くんにあいつを完膚なきまで書き換えられてもいいわけ?」
栞の手が離れる。
湊は、信じられないものを見たかのように自分の手を見つめ、それから実里がいるはずの旧校舎の方へと、今にも走り出しそうな足元を震わせた。
湊に対し言いたいことを思いっきり言ってやった栞は、小さく溜息をつきポケットからスマホを取り出した。
その足で彼女が向かったのは、蓮と実里いるであろう旧校舎ではなく、阿崎が実里を待ち伏せしていると予想した「裏ルート」の入り口だった。
案の定、そこには実里を追い詰めようと余裕の足取りで歩く阿崎の姿があった。
「阿崎くん。ちょっといいかな?」
栞の冷ややかな声に、阿崎が足を止める。
「えっと、栞さんだよね?」
「あ、私のこと知ってたんだ。実里しか見てないと思ってたよ」
「実里の友人だから知ってただけだよ」
「あっそ」
「湊の次は僕の番? 忙しい人だね」
「これは、あくまでも私の個人的な感情。もしかしたら阿崎くんには阿崎くんなりの考えがあって、それが巡り巡って実里のためになるのかもしれないけど、それでも今ハッキリ言ってやりたいから、言わせてもらうわ。あんたの趣味の悪さにはヘドが出る。実里の小説をネタに脅してるんでしょ? ……小学生のいじめより低俗ね」
阿崎の笑みが、わずかに消える。栞は彼に一歩歩み寄り、指先で彼の胸元を突いた。
「言っておくけど、あんなバカで少女漫画脳な実里でも、あの子は決してあんたの『お人形』じゃない。あの子が書くのは確かに頭のかわいそうな妄想だけど、それでも実里にとってはその世界が確かに必要だった」
「……君、俺を諫めているようで、一緒に彼女のこと馬鹿にしてない?」
「そこは否定しない」
「否定しないんだ」
「遊びのつもりであの子を傷つけるっていうなら、私が許さない。ぶっちゃけ、私は阿崎くんでも佐野くんでもどっちでもいいの。あの子がちゃんと現実見てリアルな恋愛ができるようになるなら」
栞はそれだけ言うと、阿崎の返事も待たずに踵を返した。
阿崎の背後に漂う空気が、一瞬で冷たく、鋭いものに変質するのを背中で感じながら。
旧校舎の裏。湿った風が吹き抜けるベンチで、私は黒坂先輩の隣にいた。先輩に全てを見透かされ、自分の愚かさを噛み締めていたその時、遠くから激しい足音が近づいてきた。
栞に胸ぐらを掴まれ、真実を突きつけられた湊は、なりふり構わず旧校舎へと走っていた。肺が焼けるように熱い。けれど、それ以上に胸の奥が疼いていた。
――脳裏に、実里との古い記憶が蘇る。
それはまだ、二人が高校生の頃。湊が忘れ物を取りに教室へ戻ると、彼女が一人で一心不乱にノートに何かを書き殴っていた姿だ。
声をかけようとした湊は、彼女の表情を見て息を呑んだ。普段はおどおどして、教室の背景に溶け込もうとしている彼女が、その時だけは――誰よりも激しく、何かに怒り、何かに恋焦がれるような、情熱的な瞳をしていた。
『……あ、佐野くん』
『お、おっつー。なになに?宿題でもしてた?』
『これ? ……何でもない。ただの、メモ書きだから』
湊に気づいた瞬間、彼女はすぐに「いつものわき役」という仮面を被り、ノートを隠して笑った。
でも、湊はその一瞬の「剥き出しの彼女」に、目を奪われてしまったのだ。
『ねえ、それってもしかして、自作小説。ってやつ?俺、アニメとか漫画とかラノベとかすげえ好きなんだ。読んでもいい?』
『え……でも……』
『お願い!絶対笑わないし、誰にも言わないから!』
少し困ったような顔をして、実里は一冊のノートを湊に渡した。そこに綴られていたのは、湊の頭ではとても思いつかないような『物語』だった。
素直に面白いと思った。今まで彼女が視てきたであろう世界は、こんな風に見えていたのだと感心したし、それをここまで色鮮やかに表現できる彼女のセンスを湊は心から尊敬した。
――佐倉実里の頭の中には、俺の知らない凄い物語がある。
『これ、すげぇ面白い!ねえ、続きは?』
『いやまだ書き途中。というか、完結させる気もないやつというか……』
『えー、もったいない!これ、俺のために完結させてよ。……そんでさ、いつか読ませてくれる?』
実里は困ったように笑い、ただ一言「完結できたらね」とだけ告げた。
もう彼女は忘れてしまったかもしれないが、湊はあの瞬間実里に恋をして、実里の世界をもっと見てみたいと思ったのだ。
(背景なんかじゃない。あいつの中には、あいつだけのきれいな世界がある。……それを、あんなハルみたいな奴に明け渡していいわけねーだろ!)
「実里……!」
現れたのは、息を切らした湊くんだった。その瞳には、図書室で私を突き放した時とは違う、剥き出しの必死さが宿っていた。
「……佐野くん。どうして」
「お前の友だちっていう、栞に聞いた。お前、ハルに何かされてんだろ? あいつに何を言われたか知らないけど、そんなの俺が……」
「ちょっと、せっかく彼女が逃がしてくれたのに、わざわざ戻ってくるなんて。湊は本当に、物語の読みが甘いね」
凍りつくような声。湊くんの背後から、阿崎くんがゆっくりと姿を現した。彼は獲物を追い詰めた蛇のような笑みを浮かべ、迷うことなく私の隣へと歩み寄る。
「ハル、お前……!」
湊くんが拳を固めるが、阿崎くんはそれを鼻で笑い、私の肩を抱き寄せた。
「いいのかい、湊? ここで騒げば、佐倉さんの『秘密』が白日の下に晒される」
「秘密……?」 湊くんが動きを止める。
私は、阿崎くんの腕の中で震えることしかできなかった。今の私にとって、小説の露呈は、湊くんに「自分の本当の姿」を軽蔑されることと同義だ。
「……大学中の掲示板にバラまかれてもいいのかな?」
「やめて……阿崎くん、もう言わないで」
「じゃあ、選ぶんだ、佐倉さん。君の物語……ひいては世界を守ってくれるのは、誰?」
阿崎くんの指先が、私の頬をなぞる。隣で黒坂先輩が、忌々しそうに舌打ちをした。
「……阿崎、お前、本当にいい加減にしろ。佐倉、こいつの言うことなんて放っておけ。こんな三流の脅しに屈して、何が作家だ」
黒坂先輩は私を阿崎くんから引き離そうと手を伸ばしたが、私はその手を、自分から拒絶した。
「……ごめんなさい、先輩」
「佐倉……?」
私は、湊くんの目を見ることができなかった。
ここで私が湊くんの手を取れば、彼は「船山エリカの恋人」という立場を捨てて私を助けようとするだろう。そうすれば、彼は裏切り者のレッテルを貼られ、私の醜い小説に巻き込まれて、その輝かしい未来を汚してしまう。
(私が湊くんを、道連れにするわけにはいかない。これは、彼の好意を裏切った私が受けるべき当然の報いなんだ)
私は、震える声を無理やり押し殺し、阿崎くんの腕に自分から縋り付いた。
「佐野くん、帰って。……私は、自分の意志で阿崎くんと一緒にいるの」
「嘘だろ……? 実里、お前、さっきあんなに……!」
「嘘じゃない。……佐野くんは、船山さんと幸せになって。それが私の、一番の望みだから」
湊くんの顔が、絶望に白く染まっていく。阿崎くんは勝利を確信したように、私を深く抱き寄せた。
「聞いたかい、湊。……さあ、主役は舞台に戻りなよ。ここから先は、僕と彼女だけの『R指定』の続きがあるからさ」
阿崎くんはそう告げると、私の視界を塞ぐように、再びその長い指で私の目を覆った。闇の中で、湊くんの絶叫に近い呼び声と、黒坂先輩の鋭い視線を感じる。けれど私は、そのすべてを拒絶するように、阿崎くんの腕の中で心を殺した。
私の物語は、最も望まない形で、けれど最も強固に固定された。私はもう、ただの観客ではいられない。阿崎くんという檻の中で、逃げられない「共犯者」としての幕が上がったのだ。
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