第3話 嘘つきな関係

 映画館での「事件」から、一週間が経とうとしていた。

 暗闇の中で耳元に響いた、湊くんの「背景になんてさせない」という囁き。指先に触れた、熱い体温。あの日から、私の脳内にあるプロット作成機能は、致命的なエラーを起こしたまま停止している。

 けれど、世界は私のパニックを置き去りにして、『物語』はあまりにも「正しく」回り始めていた。

「ねえ、聞いた? 福岡研の船山さん。あの佐野くんと付き合い始めたんだって」

「やっぱりねー。あの二人、お似合いだと思ってた」

「目を引くもんね。どっちも人気者っていうか、目立つタイプだし」

「見た目も、イケメンと美人ってかんじで合ってるよね」

「羨ましいわ。私もそんな彼氏ほしい」

「無理無理。私らみたいな顔面は、もっと身の丈に合った相手見つけなくちゃ」

 学食のテーブルに座って一人寂しくうどんを食べていると、後ろの席から聞こえてきた話し声に、箸を持つ手が微かに震えた。

 もともと学年の中でも目立つ2人だ。噂は瞬く間にキャンパスを駆け巡っていく。主役級の2人がキャンパス内を並んで歩く姿は、まるで映画のワンシーンのようで、誰もがその「配役」に納得し、祝福の視線を送っている。

(……ほら、ね。私の書いた通りになった)

 私は胸の奥をキリキリと焼くような痛みを、強引に「満足感」へと書き換えた。

 私の考えた『物語』は間違っていなかった。湊くんがあの時言った言葉は、きっと暗闇が生んだ一時のバグに過ぎない。彼が船山さんの隣で笑っている。それが、最も美しいエンディングなのだ。

「実里! 探したよー!」

 弾けるような声とともに、船山さんが私のテーブルに駆け寄ってきた。

 ああこの感じ、前にもあったな。なんて思っていると、その後ろには、どこか疲れ切ったような表情の湊くんが立っていた。

「実里のおかげ! あの映画デートから、湊くんと急接近しちゃって。昨日、正式に付き合うことになったの!」

 エリカさんは私の手を握り、幸せを全身で体現するように笑った。

 湊くんと目が合う。

 彼は何かを言いたげに唇を動かしたが、船山さんに腕を引かれると、諦めたように視線を床に落とした。その目は、あの日暗闇で私を見ていた時の熱を、完全に失っているように見えた。

「知ってるよ。その日に連絡くれたじゃない。……おめでとう。船山さん、佐野くん」

 私は、自分の顔が死んでいるのを自覚しながら、精一杯の笑みを貼り付けた。喉の奥が引き攣れて、声がひどく掠れている。

「本当にお似合いだよ。二人を見てると、なんだか映画のワンシーンみたい」

「え?ほんとう?やだもう、大げさだな」

(実際、さっきまでそう噂されてたんだよ。知ってて言わせんな)

 貼り付けた笑顔の裏で、ほんの少しだけ本音が漏れる。それでも口は噓を吐き出すのだから、何とも天邪鬼すぎて笑えてくる。

「……本当によかった。これ以上ないくらい、お似合いのだと思う」

 嘘だ。そんなこと一ミリだって思っていない。心臓が、今にも握りつぶされるんじゃないかというくらい苦しい。それでも、私は「背景」としての役割を完遂しなければならない。

「実里ってば、泣くほど喜んでくれてる! やっぱりあんたはいいやつだわ!」

 船山さんは私の目尻に溜まった涙を、感極まったものだと解釈して無邪気に笑う。「じゃあ、また研究室でねー」と湊くんと腕を組んで学食を去っていく背中を最後まで笑って見送った。

 湊くんは、最後まで一言も発さなかった。

 

 一人残された私は、逃げるように図書室へと向かった。いつもの自習スペースへ向かった。

 震える手でノートPCを開く。今のこの、心臓が握りつぶされるような痛みを、文字に書き換えないと私の中の何かが壊れてしまいそうだった。

『――ヒーローは、黄金色に輝くヒロインの手を取った。脇役の少女は、祝福の拍手の中に紛れ、誰にも気づかれることなく舞台を去る。これこそが、彼女が望んだ完璧なハッピーエンドなのだから』

 書き終えた瞬間、視界からポタポタと涙が溢れ、キーボードを濡らした。

 納得している。これでいいんだ。

 そう自分に言い聞かせて、濡れた頬を拭おうとした時――。

「……気持ち悪いな。そんな顔して、何が『お似合い』だよ」

 背後から響いた冷徹な声に、指先が凍りついた。

 振り返らなくてもわかる。阿崎くんだ。

 彼は音もなく私の背後に立ち、あろうことか、画面に映る私の「聖域」を真っ向から覗き込んでいた。

「あ、阿崎くん……!? いつから……っ」

 慌てて画面を閉じようとしたが、阿崎くんの細長い指が、ノートPCの縁を力強く押さえつけた。 彼は眼鏡の奥の瞳を冷たく細め、私の耳元に顔を寄せる。

「『脇役の少女』、ね。……佐倉さん、君のペン、今すぐ折った方がいいんじゃない? 自分の心も読めない作家なんて、三流以下だよ」

 阿崎くんの言葉が、湊くんの沈黙よりも深く心を抉る。

 パニックで声が出ない私に、彼はさらに追い打ちをかけるように、私だけに聞こえる低い声で囁いた。

「この物語、最悪だ。湊のキャラ造形完全に間違えてるよ。あいつはこんな結末、1つも望んでないのに。……君は自分の平穏を守るために、自分の小説に湊を嵌め込んで、殺したんだ」

「違う……私は、ただ……」

「違わないよ。この小説の中の君は、自分の物語うそを守るために、あいつの気持ちを捨てる」

 阿崎くんの言葉が、鋭利な刃物のように私の心を切り裂く。

「べ、別に……阿崎くんには関係ない、よね?」

 それでも口から出るのは精一杯の虚勢。こうありたいと願う自分の姿を、ついこの間連絡先を交換したばかりの相手に否定されたくない。

 これ以上口を挟むな。という意味を込めて阿崎くんを睨みつけてると、彼はそんなもの意にも返さずけろりとしている。

「まあ、そうだね。これはあくまでの君の妄想だし、趣味の一環みたいなものなんだろ?」

「そうだよ。それに、この主人公が佐野くんだなんて、私は一言も明記してない。勝手に読んで、勝手な解釈で人の趣味をそんな風に言わないで」

 あくまでも、私が趣味で書いた妄想小説。こうした方が物語として面白いから、好き勝手に書いているだけ。そういう形に持っていきたいのに、阿崎くんの視線と声にはそれを許さない圧を感じる。

 「でもさ……バラされたくはないよね? この、気持ち悪い妄想小説」

 阿崎くんの指先が、私の震える肩をなぞる。

 その触れ方は、優等生の彼の優しさとは程遠い、獲物を追い詰めた捕食者のそれだった。

「これを読んだ俺は、『湊や船山さんをモデルにして、君が悲劇のヒロインごっこに興じるため、気持ちの悪い妄想を垂れ流していた。』と解釈した。それ、俺はその解釈のまま、湊たちに報告することができる」

 ―― 「おまえ、気持ち悪いんだよ!」

 阿崎くんの言葉に重なって、あの日自分に浴びせられた罵声が耳の奥で聞こえてくる。

 自分の好意を否定され、自分の思いが汚されていくような……あの吐き気のする恐怖が、足元から這い上がってくるような感覚がある。

「あ、阿崎くん……」

「やめて」「忘れて」「放っておいて」つぎに発したい言葉が喉の奥で詰まる。

「ま、そんなことしないけどね」

「え?」

 突然肩から彼の手が離れる。彼は私の向かいの席に座ると、テーブルの上で震えるように握りしめられた私の手の上に自分の手を重ねた。

「え。って、俺を何だと思ってるの?そこまで鬼畜なことはしないよ」

「ひどいなあ」と笑っているけど、私には分かる。彼の眼は一切笑っていないし、その表情は変わらず私の心の奥を値踏みしているようだ。

「この『俺の勝手な解釈』を湊たちにバラされたくなかったら……俺を、その『物語』の登場人物にしてよ。それも、悲劇のヒロインをそっと助ける……そうだな、次の章の主役。ってのはどう?」

「何、言って……」

「この物語を思い通りに動かしたいって言うなら、俺が協力してあげる。ねえ、俺に湊が本来立つべきはずだった場所を譲ってよ」

 阿崎くんの微笑みは、極上の絶望を孕んでいた。

 船山さんと湊くんの交際という「偽りの真実」に絶望していた私の前に、阿崎くんという「本物の脅威」が牙を剥く。

 私の書き上げたはずのハッピーエンドは、今この瞬間、阿崎くんの手によって最も予測不能で、最も残酷な第2章へと書き換えられようとしていた。



  阿崎くんから申し込まれた「次の章の主役、僕に譲ってよ」という悪魔の囁きを聞いたあの瞬間から、私の日常は音を立てて崩れ去った。

 彼に秘密を握られた恐怖と、彼が放つ圧倒的な存在感に抗えず、私はなし崩し的に彼との「特別な関係」を周囲に見せつけることとなった。

 それは、私の書いた地味で平穏な物語には存在しないはずの、暴力的な展開。

「……阿崎くん、もういいでしょ。みんな見てるよ」

 講義室へ向かう廊下、阿崎くんは私の歩調に合わせ、わざとらしく距離を詰めてくる。

「いいじゃない。俺たちは今、君の新しい小説の『取材』をしてるんだから。……それとも、湊に見られるのが怖い?」

 阿崎くんは、私が一番触れられたくない部分を、事もなげに突いてくる。

 その時だった。曲がり角の先から、重苦しい足音が近づいてきた。現れたのは、湊くんだ。その隣に船山さんの姿はない。彼は私と阿崎くんが並んでいるのを見つけると、弾かれたように足を止め、射貫くような視線をこちらに向けた。

「……ハル。ちょっといいか」

 湊くんの声は低く、地を這うような怒りが混じっていた。

 阿崎くんは「いいよ」と短く応え、私に「先に行って」と優しく微笑む。その笑みが、私には湊くんを挑発しているようにしか見えなかった。

 私は逃げるようにその場を離れたが、柱の陰で足を止めてしまった。どうしても、二人の声を聞かずにはいられなかったのだ。


「――なんで、実里と付き合ってんの?」

 湊くんの、剥き出しの敵意。あんなに仲の良かった二人の間に、これほど鋭い火花が散るなんて。

「急すぎるだろ。お前、あいつのこと……」

「それ、そのままそっくり湊に返そうか?」

 阿崎くんの、冷ややかで余裕のある声が響く。

「なんで、船山さんと付き合うことにしたの?あんなに佐倉さんのこと、特別だって言ってたのにさ」

「それは……」

「言えない事情があるわけ? それとも、船山さんっていう『ヒロイン』の隣の方が、自分もヒーローらしくいられるから?」

 阿崎くんの言葉は、私の胸をも深く抉った。

 湊くんが黙り込む。その沈黙が、私の心に「やっぱり彼は私を選ばなかったんだ」という歪んだ納得を植え付ける。

「湊。君は自分で選んだんだよ。物語のエンディングを。……だったら、俺がどの席に座ろうが、君に文句を言われる筋合いはないはずだ」

「……ハル、お前……っ」

「佐倉さんは、君が思ってるよりずっと脆い。そして、面白い。……あの子の気持ちを、誰にも見せないように隠しておくのは、意外と重労働だよ?」

 阿崎くんの足音がこちらへ近づいてくるのがわかり、私は慌ててその場を走り去った。

 背後で、湊くんが壁を強く叩くような音が聞こえた気がした。湊くんと船山さん。阿崎くんと、私。四人の関係は、私の知らないところで、歪に、そして決定的に狂い始めていた。


 心臓の音がうるさくて、呼吸の仕方を忘れそうだった。

 湊くんと阿崎くんの衝突。その火種が自分であるという事実に耐えられず、私はこちらに向かってくる阿崎くんから逃げるように女子トイレの洗面台に縋り付いていた。

「……あんたねえ。船山の次は阿崎くんって……どんだけ厄介なものを引き寄せてんのよ」

 背後から飛んできた栞の呆れ声に、肩が跳ねた。彼女は腕を組んで、鏡越しに私をジロリと睨んでいる。

「栞……。私、もうどうしたらいいか……」

「状況整理しようか。いい? 船山は湊くんをゲットして幸せの絶頂。湊くんはなぜか不機嫌。阿崎くんはあんたの弱みを握って楽しんでる。……で、あんたは『全部自分のせいだ』って悲劇のヒロイン気取って酔ってる」

「酔ってなんて……!」

「酔ってるよ。外野のフリして、一番中身をかき乱してんのはあんたなの。いい加減、今の自分がとこに立っているのか自覚しなさい」

 自分の立っている場所……そんなの、分かっている。もう、自分だけが安全な小説の中にいるわけにはいかないのだ。

「このまま逃げてたら、実里はずっと前を向けないよ。何があんたをそこまで卑屈にさせるのかは知らないけど、もう本当の自分をヒロインにおいてあげてもいいんじゃない?」


 栞の辛辣な、けれど確かな現実が、私の頭を少しだけ冷やしてくれた。

 ふらふらとトイレを出ると、そこにはなぜか、バルコニーの柵に身を預けて煙草を弄んでいる黒坂先輩がいた。

「……落ち着いたか、後輩」

「先輩……本当に、どこにでもいますね」

「ちがう。お前が俺のいるところに現れんの。んで、いい加減自覚したか?お前のその『逃げ』が一番周囲を振り回してたってこと」

 黒坂先輩は私に近づくと、少しだけ視線を和らげて、私の頭にポンと手を置いた。それは、慰めというにはあまりに無骨で、けれど今の私には泣きたくなるほど優しい重みだった。

「佐野も阿崎も、お前のその『わき役になりたい』『わき役でいなくてはいけない』『自分は背景なんだ』って歪んだ自意識を、力ずくで剥がそうとしてるだけだ。……まあ、やり方はクソだがな」

 その温もりに、少しだけ涙が滲んだ。けれど、その静寂を壊すように、冷ややかな足音が廊下に響く。

「おや、先輩。僕の『恋人』を口説かないでもらえますか?」

 阿崎くんだった。彼はいつの間にか私の背後に立ち、所有権を主張するように私の腰に手を回した。

 黒坂先輩は手を離し、心底不愉快そうに鼻を鳴らす。

「……阿崎。お前、それ以上追い詰めるのはやめとけ。小学生みたいに好きな女に意地悪して気を引きたいのか?」

 蓮先輩の直球の進言に、阿崎くんの笑みが一瞬だけ消え、眼鏡の奥の瞳に鋭い光が宿った。けれど彼はすぐに、より一層深い、艶やかな笑みを浮かべて私を引き寄せた。

「執着、結構じゃないですか。……佐倉さん、行こうか。続きの『物語』、まだ白紙のままでしょ? 俺が、君の手が震えて書けなくなるくらい、刺激的な展開を教えてあげる」

 阿崎くんの指先が、私の首筋に触れる。蓮先輩の警告も、栞の正論も、すべてを飲み込んでいくような彼の執念。

 私は、湊くんとのささやかな和解さえも遠い過去のように感じながら、阿崎くんという逃れられない「主役」に引きずられていった。

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