第2話 地獄のデート

 そこからは、なんだか妙な空気になってしまった研究室に居辛さを感じてしまい、私はバイトを理由に1時間ほど滞在したのち退室した。

 今日はいろいろありすぎた。まさか高校の同級生と再会するとは……しかも、相手は私のことを覚えていた。

 あの時から変わらない、周囲を明るく照らすような湊くんの弾ける笑顔。学部違うのに、湊くんと阿崎くんって友だちだったんだ。相変わらず顔が広いな。そんな彼の〈友人〉というカテゴリーに自分も入ることができたんだ。と思うと、少しだけ嬉しくなる。

 しかし、バイト先に向かう道すがら気持ちは喜んでいるものおそらく自分の顔は、相変わらず冴えないのだろう。

 分厚い眼鏡の奥の目は泳ぎ、自分を少しでも小さく見せようと肩をすぼめている。 「……リスクしかない」湊くんに言った自分の言葉を思い出し、喉の奥がヒリついた。

 握っていたスマホが震える。開くと、そこにはさっき交換したばかりの湊くんからの通知があった。

『実里!さっきは急にごめん。でも再会できてマジで嬉しいわ!これ、俺のスタンプ。似てるって言われるんだよね(笑)』

 添えられたのは、満面の笑みを浮かべた陽気なクマのスタンプ。 その真っ直ぐな好意が、今の私には鋭利な刃物のように感じられた。

 ――だめだ。関わっちゃいけない。あの時みたいに。

 「おまえ、気持ち悪いんだよ!」「ちょっと○○と仲がいいからって調子に乗らないで!」

 子どもの頃から幾度となく浴びてきた罵声や恨み言の数々。自分の好意は誰かを不快にさせるもの。自分にその気がなかったとしても誰かの「特別」な気持ちを邪魔してしまう。私という人間は「わき役」であることが、きっと身の丈に合っている。ひとたび「主役」になろうなどと考えたら、身の程を知らない代償を支払わされる。それが私の人生に書き込まれた絶対的なルールなのだ。


 それから夏休みの間は、必要最低限のみ研究室に顔を出すように努めた。

 不用意に黒坂先輩や、阿崎くん、ひいては湊くんと会わないように。会ったとしても、極力会話を避ける。どうしても研究室に行かなければならない時は、3年の先輩にお願いして人の少ない日を教えてもらって、そのタイミングを狙って顔を出すようにした。まだ準備段階のこともあって2年生の私が行かなければならない日はそこまで多くなかったのが幸いだ。

 残りの夏休みは、お盆の時期も含めてとにかくアルバイトに勤しんだ。いっぱい働けばその分だけ余計なことを考えなくて済む。趣味の小説作成もこの時ばかりはお休みした。とにかく今は、あの怒涛の一日を忘れたい。

 

 9月の半ば、大学は後期日程へと移行した。カリキュラムの都合上で時間割も少し変わり、いつもは授業を受けている時間帯に空き時間ができた。

「佐野さん、8月たくさん入ってくれて助かったよ。9月はゆっくりしてね」とバイト先の店長から夏休みボーナスまでいただき、懐がちょっとだけ温かいので、今日は贅沢をして大学近くのカフェに来ている。

 いつもは図書室で行っている趣味の時間も、おしゃれカフェのスペースで行えば、なんだか作家にでもなった気分でちょっとだけ優雅に感じる。この夏休み中執筆はお休みしていても、メモやプロット書きは思いつたときにノートでまとめていたので、今日はそれをノートPCに書き起こす作業だ。

 新しい文章を開き、キーボードをたたく。タイトルはまだない。 『ヒロインの髪は、夕陽を浴びて黄金色に輝いていた。彼女の隣に立つのは、誰からも愛される太陽のような青年――』

「いたいた! 実里、探したよ!」

 背後から響いた華やかな声に、私は心臓が跳ね上がる思いでPCを叩くように閉じた。 振り返ると、そこには完璧なメイクと、トレンドを押さえたファッションに身を包んだ船山エリカが立っていた。彼女の周りだけ、空気の粒子がキラキラと輝いているように見える。

「ふ、船山さん……。どうしてここに」

「どうしてって、実里に用があったから。図書室に居なかったら、ここじゃない?って聞いたんだよ。栞に」

(いらんことを……)

 おそらく悪気はなく、ただ同じ研究室にいる者同士で用事があるのだろう。という気づかいのつもりで教えたのか、はたまた船山さんの圧に押されて教えてしまったのか……栞の性格上後者はないから、前者だろう。ともかく、私の優雅な執筆タイムを邪魔した原因を作った栞には、心の中で盛大に悪態をついた。

「ねえ、それより聞いたよ!あの湊くんと同じ高校だったんだって?しかも、もう連絡先まで交換したとか」

(誰だ、そこまでしゃべったやつ!)

 さすがにそこまでは栞にしゃべってないぞ。今初めて、目の前に座っている人物に恐怖した。女の情報網恐るべし。

 船山さんは私の向かいの席に、ふわりと香水の香りを残して座り込んだ。手にはさっきレジで購入してきたであろうテイクアウト用のカップに入った飲み物がある。この様子から、おそらくそこまで長居するつもりはないだろう。大変申し訳ないが、用事を済ましてとっととどこかへ行ってくれ。

 「あの子、マジで超タイプなんだよね。高校から一緒で、連絡先も知ってるならさ……ねえ、お願い。今度、私と湊くんと三人で遊ぶ場を、セッティングしてよ」

 突然のお願いに心臓がドクンと嫌な音を立てた。湊くんと、二人。いや、三人。船山さんの言葉は続く。その無邪気な残酷さが、ナイフよりも鋭く私の胸を裂いて、高価な香水の香りが、私の安物の石鹸の匂いを一瞬で塗りつぶしていく。

「実里なら、ほら、変に色気出さないし。あんたなら『邪魔』にならなそうだし、安心して任せられるかなって。お願い!」

 ――邪魔にならない。  その言葉が、すとんと腑に落ちてしまった。

 そうだ。船山さんのような大輪の薔薇の隣に、道端の石ころみたいな私がいても、誰も私を「女」としては認識しない。彼女の美しさを際立たせるための、最高のコントラスト。私は彼女を輝かせるための、ただの「背景(バックグラウンド)」だ。

「……うん、わかったよ。今度聞いてみるね」

 自分の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。ショックを受けているはずなのに、脳内ではすでに、冷徹な私が新しい物語の構成を練り始めている。

(そうだよね。湊くんの隣には、私じゃなくて、船山さんみたいな人が似合う。正しい配役だ)

 私は思わず泣きそうになるのを、膝の上に置いた手の甲を抓って耐えた。鋭い痛みが、この現実の痛みを麻痺させてくれる気がした。

(よし。次の小説のモデルは、この人たちにしよう。……彼女が湊くんを誘惑して、彼がその眩しさに目を細めて、二人が結ばれる。私はそれを一番近くで観察して、置き換えて、最高にエモいハッピーエンドを書くんだ。そうすれば、現実の私はただの『モブ』でいられる。傷つくことも、誰かに指を差されることもない、安全な場所で自分だけの恋愛をすることができる)

 私のなかで、湊くんとの再会の高揚感は、急速に冷めていった。

 代わりに、新しいプロットが真っ黒なインクのように私の心を塗りつぶしていく。

「ありがとう実里。話が早くて助かる! 期待してるからね!」

 船山さんは満足そうに私の背中をポンと叩くと、飲み物片手に軽やかな足取りで去っていった。

 残されたのは、冷めたコーヒーと食べかけのケーキ。そして書きかけの「誰かの恋物語」が詰まった妄想の残骸だけだった。



 翌日。学食の片隅で、私は目の前のうどんをちまちまと啜っていた。

 向かい側に座る栞は、私が一通り話し終えるのを待ってから、持っていた箸を机に置いた。

「……ねえ、実里。あんた、バカなの?」

「ひどいよ、栞。私だって好きで引き受けたわけじゃ……」

「いや、バカを通り越して心配になってきた。なんで了承しちゃうかな?」

 栞は盛大な溜息をついて、自分の額を押さえた。

「まあ船山も船山だけどさ。実里を『邪魔』だのと、よくもまあ頼む側のくせに失礼なこと言えるわね。……で、あんたはそれを言われて『納得しちゃった』わけ?」

「……だって、事実じゃない。船山さんと並んだら、私なんて砂粒みたいなものでしょ。そもそも了承しなかったら居座られそうな勢いだったし。てか、私の居所を船山さんに教えた栞が事の発端では?」

「まさかそんなサクセスストーリーになってるとは思わなかったんだよ。そこは許せ」


「実里!あー、やっと捕まえた」

 

 突然学食の入り口から、ホール全体に響くくらいの大声で湊くんの声が響いた。

「来た、諸悪の根源」

 栞が小声でぼやいた内容に「コラコラ」と諫める。そんな私たちの空気などお構いなしに、湊くんは私たちのテーブルにやってきた。その屈託のない笑顔が、今の私には眩しすぎて、直視できない。

「あ、あのさ。よかったらなんだけど、今度映画行かない?」

「映画?」

「そう!駅前の映画館で、ちょうど今面白いのやっててさ。アニメのやつなんだけど、実里、ああいう世界観好きだろ?」

 湊くんは期待に満ちた目で私を見る。キラキラとした、純粋な誘い。でも、私の脳内には昨日の船山さんの言葉がリフレインしていた。

「いいけど……あぁ、よかったら私の研究室の人もさそっていい?阿崎くんとか、あとその……船山さんもなんだけど?」

「ん?ハル?それに、船山エリカだっけ?なんでその2人が出てくんだよ」

 湊くんが目に見えて狼狽する。でも、私は眼鏡の奥の視線を泳がせながら、事務的に言葉を繋いだ。

「いや、だって……さすがに湊くんと2人で出かけるのはちょっと……付き合ってるわけでもないし。私、周囲から要らん誤解を招いて面倒ごとになるの嫌なんだし」

 ――また、あの時みたいに。女子たちの冷たい視線。ひそひそ話。「絶対に許さない」という眼光。中学の時の記憶が、心臓を針で刺すように疼く。色恋沙汰の「主役」に巻き込まれることの恐怖が、私の足を止めた。

「面倒ごとって……。お前、俺のことそんな風に……」

「私はさ、ただの『元クラスメイト』で、『大学の友だち』でしょ?」

 湊くんは、何かを言いかけて口を噤んだ。差し伸べようとした手が、空中で行き場を失って震えている。私は逃げるように空になった食器と荷物をもってその場を離れた。


 「……私は今、猛烈に佐野君がかわいそうになった。実里、あんたはやっぱりバカだ?」

 湊くんと別れて廊下を歩く私に追いつくと、開口一番、直球の言葉が飛んできた。栞の目は笑っていない。

「なんで佐野湊本人から誘われてんのに、別の女召喚してんのよ! それ、船山への義理立てのつもり?ボランティア? それとも苦行かなんか?」

 そんなつもりは毛頭ないが、どうしたって昨日の話が頭をよぎってしまい、素直に「行きたい!」という言葉が出てこなかった。

 「ん?いや待って、そもそもの話なんだけどさ。……佐野くんにも選ぶ権利があるって知ってる? 佐野くんの気持ちとか考えた?」

 不意を突かれ、私は息を呑んだ。栞の視線が、私の厚い眼鏡を通り越して、心の一番深いところを射抜いてくる。

「あんた今『これが一番だ』って勝手に配役を決めて勝手に満足してるかもしれないけどさ。佐野くんはあんたに映画へ行こうって言ったんだよ。それを船山へのパスに使われるアッチの身にもなりなよ。哀れだわ」

 喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

 たしかに、自分のことしか考えていなかった。傷つきたくない、目立ちたくない、あの頃に戻りたくない――。自分の平穏を守るため「完璧な恋愛小説」を書くとに必死で、誘ってくれた湊くんの気持ちや、その言葉に込められた意味を、私は一文字も読み取ろうとしていなかった。

「……湊くんの、気持ち」

「そうだよ。そこは、あんたが勝手に書き換えていいものじゃないでしょ。ま、そんな卑屈な妄想を書く余裕があるなら、もう少しだけ周りを見てみたら?……佐野くんや阿崎くん、あんたが思ってるほどバカじゃないと思うよ。」

「ん?なんでそこに阿崎君?」

「うわぁ、そっちもか……。ま、そっちは放っておいても大丈夫な気がするから、私からは言わないでおくよ」

 私が必死に守ろうとしている「無害な脇役」という立場が、実は湊くんという一人の人間を、私の物語の駒(パーツ)として扱っているだけなのではないか――。その罪悪感が、嵐の前の静けさのように、私の心をかき乱し始めていた。



 翌日、研究室のドアを開けるのが、これほど重苦しいとは思わなかった。

 湊くんに言ってしまったあの冷たい拒絶。栞からの指摘を受けて芽生えた後悔は、一晩経っても消えるどころか、心の中にどろどろとした澱のように溜まっている。

 研究室には、阿崎くんが一人で資料を整理していた。彼は私に気づくと、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべた。

「あ、佐倉さん。おはよう。……なんだか、今日は一段と顔色が悪いね?」

「あ、おはようございます……。ちょっと、寝不足で」

「ふーん。寝不足、ね」

 阿崎くんは手元の資料を置くと、無造作に置かれたパイプ椅子を引き、私に座るよう促した。

 それから、淹れたてのコーヒーを私の前に置く。

「昨日さ、湊が珍しくへこんでたんだ。あいつ、相当ショック受けたみいで……『俺、実里に嫌われたかもしれない』って、今にも泣き出しそうな声でさ」

 心臓を直接掴まれたような気がして、私は俯いた。

「嫌ってなんて……ないです。ただ、私は本当に『背景』でいたいだけで。佐野くんみたいな人には私じゃなくて、きっと……もっと、こう……いい人がいるんじゃないかな。って思うだけで」

「……それってさ、船山さんのため? それとも、自分の安心のため?」

 阿崎くんの声のトーンが、わずかに変わった。低く、耳元に滑り込むような、逃げ場のない響き。私が顔を上げると、阿崎くんは眼鏡の奥の瞳を、細めている。それは心配している友人の目ではなく、矛盾した数式を解こうとする学者のような、冷徹な光を帯びていた。

「佐倉さん。君の眼鏡、ときどき鏡みたいに見えるよ。湊の真っ直ぐな好意も、自分の本当の願いも、全部跳ね返して映さないようにしてる。……そんなに、誰かの好意と向き合うのって『リスク』なのかな」

「それは……」

「湊を船山さんに押し付けて、自分は安全な場所で見守る。……それって一見謙虚に見えるけど、実は湊の気持ちを一番無視してるよね。君は、自分の平穏守るために、湊の心を『利用』してる」

 図星だった。

 私が「小説」と呼んでいた防衛策を、阿崎くんは「利用」という言葉で切り捨てた。

「君が何を怖がってるのかは知らない。でも、そんなに自分を『わき役』に固定して、誰かの心を勝手に書き換えて……。もし湊が本当に傷ついて、もう君に二度と話しかけなくなっても、君は『これで良かった』『もう自分は安全だ』って笑えるの?」

 阿崎くんの手が、テーブルの上の私の手に、触れるか触れないかの距離まで近づく。

「……俺は、そんなのつまらないと思うな。君が頭の中で描く『物語』。誰の心にも寄り添わない、独りよがりの『負け惜しみ』……ねえ、折角なら俺も混ぜてよ。君がどうしても船山さんを登場させて、必死になって逃げるなら、僕が君の隣を塞いで逃げられないようにしてあげようか?」

 阿崎くんの微笑みは、優しくて、残酷だった。湊くんの太陽のような熱とは違う、じわじわと肌を焼くような、冷たい執着。

「さて、映画、楽しみだね? 佐倉さん」

 阿崎くんは立ち上がり、何事もなかったかのように資料整理に戻った。

 私は、震える指先を隠すように荷物を抱きしめ、「ちょ、ちょっと飲み物買ってくる」と研究室を後にした。

 


 逃げるように研究室を後にした実里の足音が、廊下の向こうで消えていく。残された室内には、彼女のために淹れたコーヒーの香りと、先ほどまでの重苦しい残響だけが漂っていた。

 阿崎は、実里が座っていた空の椅子を見つめながら、「嘘、へたくそだな」と呟いていつもの穏やかな笑みに戻った。

「……さて。僕も資料の続きをやろうかな」

 何事もなかったかのように作業に戻ろうとした阿崎に、部屋の入口から低い声が投げかけられた。

「……趣味悪いな、阿崎」

 阿崎の手が止まる。今日は不在のはずだった蓮が、研究室の入口に立っていた。その瞳は眠たげだが、射抜くような鋭さを孕んでいる。

「何のことですか? 先輩」

「とぼけんな。あいつをあそこまで追い詰めて、逃げ場をなくして……。湊の味方のふりして、結局一番あいつを揺さぶってんのはお前だろ」

 蓮はゆっくりと阿崎に近づいた。全部聞いていたのか、その口調はさきほどの実里への言動を責めるようで、目はどこか面白いものでも見つけたかのように少しだけ笑っている。

「湊のためなんてのは建前だ。お前、あいつが自分を『わき役』だと思い込んで、誰のことも視界に入れないのが……気に入らないんだろ。だから、無理やり自分を意識させるようなマネをした」

 阿崎は黙って先輩を見返した。眼鏡の奥の瞳から、先ほどまでの「優しい優等生」の光が消えていく。

「……さすが蓮先輩ですね。隠せてると思ったんだけどな」

 阿崎は短く息を吐くと、少しだけ口角を上げた。その笑みには、実里には決して見せない、冷ややかで計算高い色が混じっている。

「そうですよ。あの子、自分のことを透明人間かなにかだと思ってる。でも、本当は誰よりも人間臭くて、面白いものを持ってる。……それを、湊みたいな真っ直ぐすぎる奴に独り占めされるのは、少し癪なんです」

「……好意を自覚してんのか、それともただの独占欲か」

「さあ、どっちでしょうね。でも、あの子のあの変な眼鏡を外させるのが俺じゃなきゃいけない理由なら、今から作るところです」

 阿崎の言葉を聞き、蓮は鼻で笑った。

「勝手にしろ。人の恋路に首突っ込むほど暇じゃない。……けど、あいつは案外、お前らが思ってるよりずっと頑固だぞ。無理にこじ開けようとすれば、それこそ本当に壊れて消える」

「……わかってますよ。だからこそ、慎重に、逃げ道を塞いでいくんです」

 阿崎の静かな、けれど確かな執着が、静かな研究室を侵食していく。

 蓮はそれ以上何も言わず、ただこんな腹黒い男に好かれてしまった実里を少々哀れに思いながら、いつもの指定席であるソファに身を沈めた。



 阿崎くんに研究室で魂の奥まで見透かされた後、私は居ても立ってもいられず湊くんにメッセージを送った。

 『昨日は、ごめん。……もし良ければ、少しだけ話せないかな』

 送信して数秒。既読がつき、指定された中庭のベンチに向かうと、そこには湊くんが所在なさげに座っていた。

「……佐野くん」

「……実里」

 湊くんは力なく笑った。いつもの眩しい太陽のような彼じゃない。雲がかかったような、少しだけ怯えた瞳。

「ごめん。私、自分のことばっかりで……。佐野くんが誘ってくれたのが、本当はすごく嬉しかったのに。変な言い方して、傷つけたよね」

 私は勇気を振り絞って、逃げずに彼を見た。

「その……佐野くんは高校の時から、太陽みたいに明るくて……わ、私みたいな日陰者とは別世界の人間って感じがあって……その、船山さんみたいな人のほうが佐野くんも楽しいんじゃないか。って勝手に思って、あんな言い方になっただけ、なの。本当にごめんなさい」

 湊くんは一瞬、驚いたように目を見開いた。それから、深く息を吐いて、ベンチの背もたれに体を預ける。

「……そっか。じゃあ、俺は別に実里に嫌われてるとかじゃないんだ」

「そんな、嫌いだなんて……思ったことないよ」

「良かった。嫌われたんじゃないなら。……うん、今はそれで良しにしとくわ」

 湊くんは、「隣、座ってよ」と自分の隣のスペースを指すので、立っているのも変だから。と隣に座った。

 すると、湊くんの手が、私の手に触れるか触れないかの距離で置かれる。

「俺、実里と大学で再会できて嬉しかったんだぜ。こうやって一緒に話せんのも、なんだか高校の時よりずっと距離が近くなったみたいでさ。今だって、実里の考えてること、もっと知りたいって思う。だから……その、リスクとか面倒ごととか寂しいこと言うなよ。また普通に誘わせて」

「……うん。ありがとう」

 空が茜色に染まり、二人の間に穏やかな時間が流れる。阿崎くんに暴かれた「本音」が、少しだけ温かいものに変わろうとしていた、その時だった。


「湊くーーん! やっぱりここにいた!」


 静寂を切り裂くような、高らかで華やかな声。

 振り返ると、そこには完璧な笑顔を浮かべた船山さんが、長い髪をなびかせて駆け寄ってくるところだった。彼女は私の存在など最初から透明であるかのように、湊くんの腕に自分の腕を絡めた。

「船山!? え、なんでここに……」

「研究室に寄ったら阿崎くんがいて、教えてもらっちゃった!来週四人で映画行くことになったんだって?湊くんから誘ってもらえて超嬉しい!ね、湊くん、そのあと私の行きたいお店あるんだけど予約してもいいかな?」

 湊くんの体が、凍りついたように固まった。彼は縋るような目で私を見るけど、船山さんの「悪気のない主役の輝き」を前にして、私の心は急速に冷えていった。

「あ、うん……。船山さん、すごく楽しみにしてたから。い、いいよね?佐野くん」

 私は、自分の声がまた「観客」のものに戻っていくのを感じた。船山さんの隣で、戸惑いながらも彼女の華やかさに呑まれていく湊くん。その光景が、あまりにも「正しい形」に見えてしまった。

「決まりね!実里、ありがとう。あんたがいてくれると、湊くんも照れなくて済むもんね!」

 船山さんは満足そうに湊くんの手を引いていく。湊くんは何度もこちらを振り返ろうとしたけれど、そのたびに彼女の楽しそうな笑い声に遮られた。私は、肩にかけられたカバンの紐を強く握りしめる。

 ――これでいい。

 さっきの温かな時間は、きっと書き損じ……ミスだ。私は再び、眼鏡の奥で感情を殺し、来週の「四人デート」という有体な小説を脳内で完成させ始めた。




 約束の日の朝、私は鏡の前で入念に「地味」を確認していた。

 ネイビーのロングスカートに、色味のないベージュのブラウス。あえてメイクはせず、髪は後ろで一本に束ね、レンズの厚い眼鏡を深くかける。今日の私の役割は、隣に立つ船山エリカという大輪の薔薇を、いかに美しく、いかに気高く見せるか。そのための「くすんだ背景」に徹することだ。

(これでいい。これが一番、安全で正しい形なんだから)

 湊くんへの申し訳なさは、心の底に沈めた。

 これは彼のためでもある。私のような「リスクしかないような存在」と一緒にいるより、船山さんのような「正解」と一緒にいる方が、彼の人生には相応しい。そう自分に言い聞かせ、私は今日の戦場――映画館へと向かった。


 映画館のロビーは、週末を楽しむ人々で溢れていた。

 待ち合わせ場所にいた船山さんは、人混みの中でも一瞬で見つかった。淡いピンクのワンピースを完璧に着こなし、周囲の視線を独占している。

「あ、実里! こっちこっち!」

 彼女が手を振ると、すぐ横にいた二人の人影がこちらを向いた。湊くんと、阿崎くんだ。

 湊くんは黒のブルゾンに白のTシャツというシンプルな格好だが、素材の良さが際立っていて、まるで雑誌のモデルのようだ。けれど、その表情は驚くほど暗い。私と目が合うと、すぐに視線を逸らしてしまった。一方で阿崎くんは、ネイビーのシャツをさらりと着こなし、眼鏡の奥で余裕のある笑みを浮かべている。

「実里、予約ありがとう! 最高の席取ってくれたんでしょ? 湊くんと並んで映画なんて、超楽しみ!」

 船山さんが湊くんの腕に抱きつく。湊くんは露骨に顔を顰めたが、私の方を一度だけチラリと見て、諦めたように溜息をついた。彼の表情を見るたびに胸がチクリと痛む。でも、私は事務的にチケットを発券機から取り出した。

「はい、これ」

「ありがとう、俺が配るよ」

 連番で発券された四枚のチケット。それを配ろうと彼らのほうへ戻ると、私の手から阿崎くんがチケットひったくるように奪った。チラリとチケットの座席番号を確認し、流れ作業のように2人に配り、自分の分をポケットへしまう。そして余った一枚を私へ戻した。

「まだ上映まで時間あるよね?何か飲み物とか買っておこう。湊、俺一人じゃ無理だし手伝ってよ」

「え、お、おう」

「二人とも、何飲む?」

「私、アイスティー!ガムシロとミルクお願い!」

「えっと……アイスコーヒー。ブラックで」

 注文を聞くと、2人はフードコーナーの人ごみへと消えた。

「実里、今日はセッティングしてくれてありがとうね」

 二人っきり気まずい。って思う隙も与えず、船山さんが話しかけてきた。

「映画の後だけど、実里はさそっと阿崎君と一緒にフェイドアウトしてよ。私、湊くんと2人で行きたいんだよね、あのお店」

 この一言ですべて察した。なるほど、本日の当て馬の役割は、あくまでもWデートを装った告白アシスト。私は彼女が湊くんと最高の時間を過ごせるように、それとなく空気を読んで消える。一緒に当て馬役をすることになってしまった阿崎くんには申し訳ないが、ここは彼女に従うのが正しい行動だ。

「わかった。楽しんできてね」

「ありがとう」

 しばらくすると2人が4人分の飲み物やポップコーンを持って再び合流した。「代金は要らないよ。こういうのは男が奢るものでしょ」とスマートに言い切る阿崎くんは、なんだか少しいつもと違う。うまくは表現できないが、いたずらを企んでる子どものようだ。

 劇場の中に入り、チケットに表示された番号へそれぞれ着席する。チケットは、予約の段階で「湊くんと船山さん」、「私と阿崎くん」になるように、わざと少し離れた席をとった。

 最後列の通路側。自分の番号を確認して座って隣を見ると……。

「え、佐野君?」

「お、隣実里じゃん。やったー」

 阿崎くんになるように手配した席に来たのは、湊くんだった。

 なんで?と思って、本来湊くんが座る予定だった席を見ると、そこには阿崎くんが座っている。隣の船山さんはこちらを見て不服そうな顔をするが、何か阿崎くんに耳打ちされて黙ってしまった。

 (あの笑顔の意味は、これだったのか……)

 私からチケットを奪い、あの一瞬で座席を確認してこの席順になるようにチケットを配布した。私が配ったわけではないから、船山さんも私に文句は言えない。少し離れた席だから、そこから席替えを申し出ようにも他のお客さんの迷惑になってしまう。と、阿崎くんがそっと伝えたに違いない。

 (なんという……怖い男だ……)

 どこまでが彼の計算だったのかは分からないが、あの笑顔を思い出して恐怖したとき、場内が暗転し、映画が始まった。

 ポップコーンの甘い香りと、スクリーンの青白い光が揺れる。左隣には、湊くんがいる。腕が触れそうなほどの距離。 私は映画に集中しようと必死に目を開いたが、内容は全く頭に入ってこない。すると、暗闇の中で湊くんが不自然に身を乗り出してきた。

「……実里」

 耳元で、熱い吐息混じりの囁きが聞こえた。

「俺、実里の物語通りに動くつもりねーから。……絶対お前のこと、背景になんてさせない」

 湊くんの手が、暗闇の中で私の座席の肘置きに置かれた。私の指先に、彼の指が微かに触れる。

 (バグだ……。これは、致命的なエラーだ……!)

 心臓が耳のすぐ横で警報を鳴らしている。

 私は「わき役」として、このシーンをどう処理すべきか必死に脳内ライブラリを検索するが、どの回答も出てこない。隣に座る湊くんの熱量が、私の冷徹な筆致を溶かしていく。



 上映終了後。

 「感動したね!」とはしゃぐ船山さんと、それを上手くあしらう阿崎くん。そして、顔を真っ赤にしたまま一言も喋らない湊くん。

 私はパニックを隠すために「ちょっとお手洗いに」と言い残し、逃げるようにロビーへ向かった。

 洗面台で冷たい水を手に取る。鏡の中の自分は、地味な格好をしているはずなのに、顔は上気し、眼鏡は曇っていた。

 「……お、傍観者気取りの後輩くんじゃん」

 気持ちを落ち着けるためと、船山さんと湊くんを2人きりにするという約束のため、わざと時間をかけてトイレから出てくると背後から響いた聞きなれた冷徹な声に、心臓が止まるかと思った。

 振り返ると、そこには黒いキャップを深く被り、映画を観に来ていたらしい黒坂先輩が立っていた。先輩は、壁に背を預けたまま、私の震える指先を嘲笑うように見つめている。

「先輩……。どうしてここに」

「妹の付き添い。……どうだ?お前が必死こいて書き上げた『物語』、阿崎のせいで全部破綻したな。キャラクターに意志を持たせすぎ」

 先輩は一歩近づき、私の曇った眼鏡の縁を指先で弾いた。

「現実は小説じゃねえ。……いつまでも遠くから傍観できると思うなよ」

 先輩はそれだけ言うと、雑踏の中に消えていった。

 もう何が何だか……落ち着けたはずの気持ちが再び混乱しているが、いつまでも突っ立ているわけにはいかないのでロビーへ戻る。そこには予想通り、阿崎くんだけが待っていた。

「2人、先に行ったよ」

「知ってる。そうするように頼まれた」と心の中で返事を呟き、「そっか。待たせてごめんね」と思ってもいない言葉を口にした。

「どうする?俺でよければ、このあとお茶でもしようか?」

 気を使ってくれてるのか、本気で誘ってくれているのか、今の私の心はその真意を読み取れない。

 申し訳なかったが、気分がすぐれない。と断りを入れて、私は阿崎くんとも別れてアパートに帰った。その道すがら、自分がどんな表情をしていたのかも、何を考えていたのかも、どうやって帰ったのかも、正直覚えていない。 ただ、何度も黒坂先輩や阿崎の言葉がリフレインして、胸が苦しい。

 気が付いたときには、自宅のベッドで出かけた時の服装のまま横になっていた。カーテンの向こうすでに真っ暗で、いったい何時間こうしていたのかと、考えるのことすら億劫だった。

「おなか、空いた」

 ぼそっと呟いて、何か食べ物を探しに行こうと起き上がった時、枕元にあったスマホがメッセージの通知を表示した。


 ――今日、湊くんと付き合うことになったよ。

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