第2話:きれいな水と、泥の怪獣。――僕の絶望が見える女、カナコ
非常階段がひしゃげる異様な金属音が、冷たい夕闇に消えていく。
僕の背後にそびえ立つ透明な怪獣は、獲物を待つ獣のように静かに、しかし確かな殺意を持ってそこにいた。
「おい、どうしたんだその音は!」
ビルの勝手口から、警備員の男が血相を変えて飛び出してきた。
僕はとっさに逃げようとしたが、足が動かない。怪獣と繋がっている感覚が、僕の肉体から自由を奪っていた。
終わりだ、と思った。
こんな化け物を連れていれば、すぐに警察が来る。僕はテロリストか何かとして、一生を暗い檻の中で過ごすことになるんだ。
だが、警備員は僕の目の前まで来ると、怪訝そうに眉をひそめた。
「君、ここで何をしてる。階段が壊れたのは君のせいか? ……なんだ、その段ボールは。不審者か?」
警備員の視線は、僕の顔と足元の段ボール、そしてひしゃげた階段の間を往復している。
……見えていない。
彼のすぐ目の前で、巨大な透明な腕が、今にも彼の頭を握りつぶそうとしているのに。警備員は、僕の後ろにいる「それ」に全く気づいていなかった。
「……すみません、バランスを崩して、ぶつかってしまって」
「ぶつかっただけでこんなに曲がるか? まあとにかく、中に入れ。警察を呼ぶからな」
警備員が僕の腕を掴もうと手を伸ばした、その時だった。
「その人に触れないほうがいいわ。あなたの『正気』が溶けてしまうから」
鈴を転がすような、けれど氷のように冷たい声が路地裏に響いた。
路地の入り口に、一人の女が立っていた。
汚れ一つない白いコート。夜の闇を吸い込んだような、艶やかな黒髪。
彼女はこの薄汚れた路地裏には全く不釣り合いなほど、澄んだ空気を纏っていた。
「誰だ、あんたは」
警備員が毒気を抜かれたように声を漏らす。
女は答えず、真っ直ぐに僕を見た。正確には、僕の背後でゆらりと揺れる「透明な穴」を見つめていた。
「見えているの……?」
僕の掠れた問いに、彼女は微かに口角を上げた。
「ええ。とても綺麗。……いえ、とても酷い泥ね。それだけの絶望を精製するのに、何回、魂を削られたの?」
彼女が僕に向かって一歩踏み出した瞬間、怪獣が威嚇するように身を乗り出した。
だが、女は恐れる様子もなく、ただ静かに僕を見守っている。
「邪魔よ、下がって」
女が警備員にそう告げると同時に、彼女の周囲に薄青い光の粒子が舞った。
警備員は糸が切れた人形のようにその場にへたり込み、深い眠りに落ちていく。
「……君は、誰だ」
「私の名前はカナコ。あなたの『怪獣』を管理するために派遣された――と言えば、信じるかしら?」
彼女は僕のすぐそばまで来ると、透明な怪獣の肌にそっと手を触れた。
怪獣が、震えた。
怒りでも、恐怖でもない。まるで、自分を理解してくれる存在に出会った子供のような、安堵の震え。
「サトシ。あなたのそれは、ただの化物じゃない。この世界の理不尽が産み落とした、一つの『解答』なのよ」
カナコと名乗った女の瞳には、同情も蔑みもなかった。
ただ、深い湖のような静謐な受容だけがあった。
僕はその時、初めて気づいた。
彼女の白いコートの裾が、僕の怪獣と同じように、少しだけ「透明」に透けていることに。
(第3話へ続く)
あとがき
第2話をお読みいただきありがとうございます。
謎の女性、カナコ。彼女もまた、普通の人ではないようです。
絶望を抱えた二人の出会いが、物語を大きく動かし始めます。
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