第3話
個室へ入ると開多は少女を和式便器の右横に下ろし、鍵を閉める。八リットル大瓶を受け取り、一度下に置いた。扉を背に天井を見上げ、目を瞑る。アドレナリンが出ているからか疲れを感じない。トイレの空気は吸い込みたくなかったが、地下墓地の臭気よりはましだ。深呼吸し、呼吸を落ち着かせながら顔の汗を袖で拭った。
視線を下へずらすと、目の前に汗だくの少女が立っている。肩と背中へ流れる艶っぽい黒髪。健康的な細い体。胸のふくらみに汗を吸った白いノースリーブシャツが張りついている。透けている。日焼けしていない透き通った肌。
少女は、友心にすごく良く似ていた。
体の切り傷が目立つ点は違う。衣服も破れている。
個室に開多と少女の熱気がこもる。蒸す。水分を奪う。
少女の口が開きかけるのが見え、ハルタは右手人差し指を少女の唇へそっと伸ばした。何か言おうとしていたようだが、少女の口元が半開きのまま止まる。その指をそのまま自分の唇の前に添えた。公衆トイレの周りを黒馬が包囲している、様を想像した。あるいは最後に後ろを追っていた蓋ノ騎士がいるかもしれない。
しんとしたトイレの中、開多は少女の姿をなめまわすように凝視する。はっと我に返り、気味悪がられたのでは、と視線を逸らす。トイレの壁には擦りつけた手垢や黒い筋のような汚れが目立つ。床と壁のタイルの溝は、黴で黒く汚れていて、誰かの排泄物が付着して乾燥し、固まったものかもしれないと想像が過るほど不衛生だった。衛生局の手はここには及んでいない、と皮肉交じりに思い連中の仕事ぶりを見下すことで、捕まるのでは、という恐怖心を誤魔化した。
公衆トイレの個室は、かすかな吐息さえ響く。開多はクリーム色の作業着の胸ポケットから、折りたたまれた紙切れと万年筆を取り出した。トイレの壁を下敷き代わりに、紙の上部左端から〈喋ると声が聞こえるかもしれない〉と小さく書く。それを少女に見せてから次の質問を書いた。
〈名前は? おれはハルタ〉
開多、と書いても正しく読まれるか分からなかった、からカタカナで書いた。 紙とペンを少女に渡す。少女が質問を読み、紙に記入すると受け取った。
〈ちえ〉
〈どうして追われてるの?〉
ちえは首を振った。スムーズだった開多のペン先が、数秒だけ止まり、
〈追われてはいた?〉
ちえは頷く。
〈どこから来たの?〉
〈バステル〉
開多の目に、少し力が入った。
〈俺もバステルの出身だ〉
紙を見たちえの瞳が少し見開いて、そのまま開多を見た。脳裏に友心の姿がよみがえり、ちえの姿と重なった。拒むように開多は目を逸らし、首を一瞬ぶるっと振った。映像が消えない。沢を背景に微笑む、白いワンピースを着た友心の姿が。
この子は友心ではない。
ちえが紙に何か書き出した。受け取ると、〈私に触るとみんな泡を吹いて死ぬ〉とあった。ハルタの眉間に皺が寄る。意味が理解できなかった。逃走中、常に密着していたはずだ。
嘘だとは思っていない。あれほどの騒ぎの中心にちえがいた。黒馬が複数一カ所に集まる光景など、今まで見たことがない。
ちえの二の腕にそっと触れた。目を合わす。ちえの瞳が潤んでいる。視線が落ちる。話を信用されなかったと思っているのだろうか。
ちえの手を握った。
「俺なら、死なないから」
外が静かだった。
※
公衆トイレの入り口から頭だけだし、開多は公園と路地へ目をやった。上着は脱いでいた。路地を黒馬が数頭走り過ぎていく。まだチエを探しているらしい。
空に目をやった。トイレから出て、辺り一帯と空を確認する。蓋ノ騎士の姿は見当たらない。
チエがトイレの入り口からつたない足取りで出てきた。ハルタが来ていたベージュの作業着を着ている。汗だくだ。目がとろんとして明後日の方向を見ている。
駆け寄ってチエの手を取り、ハルタは公園を出た。
ハルタのアパートは騒々しい中央広場のずっと南西にあった。中央広場北東にある遺跡からは離れているが、中央広場を境に北側から離れているほど賃貸は安いので、仕方なく住んでいる。
L字の建物が住宅街のど真ん中にある。細い路地を挟み向かいには分譲住宅地帯が広がっている。閑散としていて日暮れ時でも足音が響いた。
三〇四号室は二階の角部屋、「L」の天辺にあった。路地側だ。通行人の足音がうるさく外の話し声もよく聞こえるが、窓が一つ多いという他の部屋にはない不要な特典がついていた。
玄関を開け、チエを先に入れて扉と鍵を閉める。
間取りは縦長の一K。靴を脱ぎ捨てるとハルタは小走りに、バスルーム、キッチンと通り過ぎ、扉を開けてリビングへ行った。
ガラスジョッキを持って戻ってくると、「オレンジジュースだ」と言ってジョッキの取っ手をしっかりチエの手に握らせた。リビングへ戻ろうとして振り返り、「入っていいよ」と手招きする。
焦っていた。開多はリビングへ戻るとクローゼットを開け、両肩に背負うタイプのリュックを取り出し中へ八リットル大瓶をそっと入れた。いつでも逃げられる準備をしておかなければいけない。衣服。保存食品と水とオレンジジュースを順に入れる。
地下墓地への不法侵入だけでも重罪だ。加えて蓋ノ騎士からの逃走。死刑は免れないだろう。もしくは流刑地いきだ。
リバーゲート監獄の中がどうなっているのかは、汚れ生活を満喫する潜りたちでさえ噂でしか知らない。地下墓地には鬱屈とした空気が蔓延しているから、その手の刺激的な話は尽きないが、どれも、誰がどこの誰に聞いてきたのか分からない小話ばかりだ。信憑性にかける。
その小話によると、投獄された囚人は獄房の中で裁判を待つのだとか。ハルタは裁判のことはほとんど知識がないから、専門用語らしきものが出て来るといつも話についていけなくなった。他の潜りたちもわかったような顔をしているが、どうせほとんど理解していない。馬鹿垂れどもが、と心の中で見下すのだが、自分と同種の人間をいくら蔑んだところで虚しいだけだった。
法廷というのは真実を追求する場所ではなく、被告人の利益を追求する場所だ──そう言った潜りがいた。その潜りはヘルデの角材に殴られ、野球ボールのように飛んで行って地下墓地の広域空間の岩壁に激突し、水風船のように弾けたが、そうなる以前に話してくれた。
その潜りは知人の顧問弁護士からその言葉を聞いたらしい。
そしてこうも言っていた。
国や裁判長など、国家権力者たちが自分の利益しか考えていないような場所で、どうやって俺たちの命が守られると思う? 俺たちの命は軽い。よくて死刑、それ以外は流刑地へ飛ばされ、自分の肉が腐る臭いを嗅ぎながら死んでいく。
男は最後に、どっちがいい?──と笑いながら言った。
冗談じゃない、流刑地なんか。
三頭もの黒馬に追われる少女まで誘拐してしまった。不可抗力だが、誰も理解しないだろう。ダックリバーから出なければいけない。
何を詰め込めばいいか考えていると、玄関へ置き去りにしてきたちえがリビングへ入ってくる。上着のジッパーを上げ忘れていて前が閉まっていない。おへそ、みぞおち、谷間が見えた。目が合う。
「はるた」
ちえが呼んだ。
「はるでいい。その方が呼びやすいだろ」
友心がそう呼んだからだった。
はる、とちえが名を呼ぶと、鼓動がまして息が詰まった。込み上げる涙をぐっと我慢する。
「わたし、耳絶ちがないの」
少し言葉をためてから、
「俺も、ない」
「そうだと思った」
ちえの口調や物腰のやわらかさが気になった。親しみやすい。まるで初対面ではないように思えた。それとも自分がおかしいのか。地下墓地では、開多は潜りの会話にはあまり加わらないようにしていた。人と話すのは好きではない。その弊害なのか、距離感がわからない。蓋魔と知れば人は離れていく。潜りでも同じだ。
「なんでわかったの?」
「楯蓋を持ってないから」
「護符にして持ってるかもしれないよ」
「でも、逃げるとき使わなかったし。だから、使えないのかなって」
要するに、飛んで逃げる方が速いのに使わないのは不自然だ、ということだろう。
飛ぶのは簡単じゃないと聞く。配分率という人の優劣を計る基準があり、それによって違いが生まれるということまでは開多も知っていた。
「だから触れても平気なのかなぁ?」
ちえが訊いた。
「どうだろう。触れると死ぬって、誰が死んだの?」
「お父さん」
「見たの?」
「目の前で死んだ。口から泡を吹いてた。地が混じってた。それで、お母さんが私を化け物だって……」
言葉が途切れた。ちえの体の擦り傷が目に入る。両親の表情が脳裏に過った。足下から、首吊り中の自分を眺める二人の顔だ。思考の暗闇の奥で、点と点が繋がっていくように感じた。
「もしかして親に」
「お風呂に入りたい」
顔を上げると潤んだ瞳が震えていた。泣きだす前のように。そう見えたが、ちえが泣き出すことはなかった。最初から潤んだ目をしていたかもしれない、とトイレの個室で初めて顔を直視したときのことを思い出そうとする。頭の中に、潤んだ瞳の友心が立っていた。
「ゆみ、って誰?」
開多は間抜けに口をぽかんと開け、固まった。
「私を見てそう言ったでしょ?」
「それは……」
いつ言ったろうか。無意識のことで、開多は覚えていなかった。
「昔の幼馴染みだよ。ちえにすごく似てるんだ」
一八歳で姥捨照を出て以来、友心の話は誰にもしたことがなかった。「私に? 顔が似てるってこと?」
「全部」
すぐに言い切った。
ちえは似ている。口調から物腰から、顔とその表情に、背丈に体型からすべて。自分の方が傷ついているのに、常に相手を気遣うような雰囲気と、その仕草も含めて。
「写真はある?」
「ない。友心は一三のときに死んだ。彼女の実家へ行けば小学校のアルバムくらいはあるかもしれないけど、俺はいけない」
わざと相手に質問させるような言葉が、すらすらと口から流れ出てきた。
「仲悪いの?」
「友心の両親と?」
「うん」
開多は言葉に詰まったあと、ゆっくり頷いてから、
「俺の親が、
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