第2話

 姥捨照群・姥捨照町、東ノ山。

 地域の大人たちが自殺山と呼ぶその山中に、少女の啜り泣く声が響いている。


「やめて……」


 消え入りそうな声で訴える娘の背後に回り、立たせたまま前屈みの体勢を取らせ、父親は娘の左肩を掴みながら後頭部を押さえつけた。


「もう少し大きめに」


 夫から指示を受け、妻は樹木の先端から垂れた、縄の先端の輪を少し広げた。両親のやりとりに恐ろしさが込み上げ、少女は大泣きする。上体を起こそうと力を入れた。


「動くな」


 父親が吠えると、少女の動きがびくっとして止まる。声を抑えようとすると過呼吸のようになった。

 首が輪を通ると、縄が喉元を圧迫する。喉の奥から強く息を吸い込んだような音がとぎれとぎれに漏れる。両手で首を押さえた。


「早くしろ」


 母親が小走りで男の後ろへまわり、縄を持った。


「持ったか?」

「うん」

「綱引きの要領だ、いくぞ? せーのっ──」


 滑車と同じだ、という説明を夫から事前に受けていた。てこの原理だ。枝に引っ掛けた縄の片側は、娘の首に繋がっている。もう片方を引っ張れば、娘の首吊り自殺を簡単に再現できる。

 二人は一気に引いた。少女の足裏が地面を離れる。少女の全体重が首へかかり、喉の音がその瞬間から途絶えた。

 餌を食う鯉のように口元が開いて、少女は何か言いたそうな、驚いた表情のまま静止する。息ができない。眼球が裏返る。白目を剥く。視界が侵される。

 少女の首元から縄が発火した。輪が切れた。燃えている。少女は、地面から隆起する樹木の根っこの上に落ちた。

 苛立ちを浮かべながら娘へ駆け寄った父親は、かがんで服の袖を掴み「出せ」と乱暴に揺さぶった。マッチかライターでも持っていると思ったようだ。少女の視点が定まらない。裏返った眼球は戻っているが、目がとろけている。


「こいつ……」


 と目が据わり、娘の首元に手を当てる。


「あなた」

「いい、手でやる」

「でも」

「どうせ蓋魔だ。誰も問題にっ──」


 父親の声が途切れた。先ほどの少女と同じように。

 絞めつけようとしていた両手が娘の首元から離れ、落ちてぶらんと体の横に垂れる。上体が横に倒れた。 



 妻は呆気にとられ、立ち尽くした。ふざけているのか、と思った。

 駆け寄ると、夫は口から泡を吹いていた。泡に赤色が混じっている。歯医者に麻酔をうけたあと吐き出す唾液に混じる赤よりも、量が多い。白目を剥いていた。

 驚いて尻餅をついた。それから引き攣った悲鳴を上げた。


「お母、さん……」


 娘の声がした。

 意識を取り戻した少女は、ゆっくり上体を起こし、恐れおののいている母親の姿を見つけた。


「お母さん?……」

「く、く、来るなぁ、化け物ぉ」


 目が合った瞬間、母親は発狂した。瞳孔の開いた目。足を使い尻をすり、逃げるように後ずさった。

 少女の両目からゆっくりと涙が溢れた。ひくひくとぐずり泣く。

 少女は立ち上がり、山を駆け下りた。涙で顔を濡らしながら。

 化け物、化け物、化け物。

 頭に母親の声と、自分を見て怯える母親の姿が繰り返した。

 足がからまり山の斜面で転倒した。滑って転がり落ちていく。樹木に背中を叩きつけた。根っこが勢いを殺した。体の勢いが止まると、浜に打ち上げられた哺乳類のように、少女はしばらく動かなかった。

 助けっ……。口からついて出た言葉が止まる。顔をゆっくりと上げ、辺りを確かめた。誰もいない。樹々が、山が、私を見下ろしている。湿った落ち葉と小枝の上をゴキブリが這っていた。

 顔は涙と唾液と泥で汚れていたが、少女は泣き止んでいた。ノースリーブの襟で顔を拭って、立ち上がると再び山を下りた。

 西に向かって路地を歩いた。右手には、小学校の敷地を囲うクリーム色の壁が道なりに続いている。

 すれ違う住人が少女をじろじろ見ていた。気持ち悪い気がして、肩をすくめながら、おそるおそる少女が振り返ると、あちらも振り返っていた。

 畑仕事中の老人は鍬を振り下ろしたばかりの手を止め、じっと少女を見た。

 小学校の正門に立つ背広姿の教員が、民家二階のベランダで洗濯物を干している主婦が、駄菓子屋の開けっ放しの扉奥に鎮座する猫背の老婆が、じいーっと少女を見ている。

 足を止める者の姿もあった。母親のようにあからさまに口を間抜けに開け、唇を震わせる者の姿も。

 みんなが私を見ている。虫の黒目のような瞳が監視している。

 正門を通り過ぎるとT字路にさしかかり、そこで遠くに足音を感じた。近づいてくる。少女は足を止め、音のする方を見た。南の路地から黒い馬が駆けて来る。


「そこ、止まりなさい」


 治安維持衛生局の局員だとすぐに分かった。少女は二歩下がる。馬の上から上下黒の制服を着た大人の男が見下ろしている。


「ちえちゃんだね? お父さんとお母さんは?」


 なぜ名前を知っているのだろうか。すぐに勘づいた。グルだ。

 ちえの足が少しずつ馬から離れようとする。一歩、二歩……。


「夫妻はどこだ」


 抑揚のない口調。のっぺりとした顔には色がない。

 局員は馬から下りた。それから逃げようとするちえの腕を、黒の手袋越しにぐっと掴んだ。父親に掴まれた腕、首元の感触が脳裏にフラッシュバックする。


「嫌っ──」振り払った。


 局員は無表情で、慌てることなくちえの手首を捕まえた。勢いづいてちえの手の指先が、局員の服の袖の中へすっと入りこんでいた。

 局員が呻き声を上げた。痰を吐き出すような声を出し、口から泡を吹いて倒れた。泡には血が混じっている。

 化け物──。

 母親の声が脳裏で再生する。繰り返す。ちえは怖くなり、引き攣った顔のまま走り出した。私じゃない。私は何もやってない。

 大人たちが見ている。口をぽかんと開けて。

 家には帰れない。

 歩き慣れた路地を西へ向かって走った。

 どこへ行けばいいのか分からなかった。とにかく姥捨照ここを出たい。すれ違う大人たちが、どれも同じタールのような暗い目で睨んでいる。覗き見るように、じろじろと。

 

 

 島を分断するかのように流れる大河の東側一帯は、大河の名にちなみ〈ダックリバー〉と呼ばれる。

 ダックリバーは、大河の東側に沿って北の大瀑布から南の大瀑布にかけてへ広がる巨大な港町だ。

 姥捨照は、ダックリバーの南東に位置する小さな田舎町だ。規模は村に近い。畑や田んぼはそこらにあるが、住宅の密集具合は、息が詰まるほどだった。

 一時間以上歩き続け、山を越えてダックリバーへ入った。大通りは観光地のように人が混んでいた。雑踏に紛れ込みむと姿をくらませた。

 すれ違う人たちがじろじろちえを見ている。だがすぐに、姥捨照の住民の目とは違うことに気付いた。落ち着かないが、嫌な感じもしない。どうして見てくるのだろうか。

 今になって、自分の服がぼろぼろであることに気付いた。白のノースリーブシャツと淡い青の短パンは、ところどころ破けていた。白い肌──肩や腕、手、膝や足は擦り傷だらけだ。山の斜面を転がり落ちたときに切ったのだろう。


「いたぞ」


 野太い声がした。はっとして振り返ると、雑踏の先の人混みが途切れたところに、黒馬と局員の姿があった。それも今度は三頭も。

 通行人へ「どけ、道をあけろ」と威圧しながら迫っている。通りに通行人のびっくりしたような声と怒鳴り声、局員の恫喝が響いている。

 鼓動が激しくなる。人混みを縫って進み、馬が入って来られない裏路地へ逃げ込んだ。だが日の少ない薄暗さに心細くなり、すぐに表通りへ出てしまう。馬の蹄がタイルの上で爆竹のように鳴っている。


「た、助けて……」


 誰に言ったでもなく、ちえは人の間をくぐり抜けた。


「どうしたの、お母さんとはぐれたの?」


 人の良さそう老夫婦だった。老婆の方が身をかがみ、ちえと目を合わせる。

 助けて、と言いたいが声が出なかった。

 老婆の体が傾いた。表情を固定したまま、まるで花瓶か何か無機質な物のように、上体から崩れ落ちた。

 仰向けに倒れ痙攣する老婆の口元に、赤い泡が見えた。はっとして、ちえは自分の手首を見る。硬直した老婆の手が、ちえの手首を掴んでいた。


「その子に触れるな」


 黒馬が鳴く。蹄がタップする。ちえは泣きそうになりながら走った。

 道を開けろ。

 その少女に触れるな。

 死ぬぞ。

 馬の上から局員たちが声を張り上げている。

 通りを抜け、広場へ出ると足が止まった。ちえの目の前に、幅の広い通りが左右正面に伸びていた。

 肩で息をした。

 最初に目についたのは、日差しを反射するガラスの表面だった。梅干しでも漬けるのかというくらいに大きなそのガラス瓶は、泥と煤で汚れたような、顔の真っ黒なベージュ色のオーバーホールを着た男が腕に抱えていた。

 気が付くと男と目が合っていた。一八〇センチメートルはあるだろう身長に細身な体形。筋肉質ではない。目鼻立ちはいいが美形というわけでもない。平凡だった。


「ゆみ……」


 男が何か言った。ゆみ、と少女にはそう聞こえた。話しかけられたと思い、「え?」と返す。

 男はびっくりしたように目を開いていた。こちらを見つめている。大きなガラス瓶を大事そうに、右腕と腋、胸で挟んでかかえている。それ以外は何も持っていない。瓶の中に見えるどす黒い液体はなんだろうか。


「道を開けろ、その子から離れろ」


 局員の乱暴な怒鳴り声が広場まで響いてきた。蹄の音がきこえる。

 騒々しさに立ち止まる群衆が、それらの行く手を結果的に阻むことで時間稼ぎができていた。広場が騒がしくなっていく。

 局員たちが楯蓋を取り出し、通行人たちを薙ぎ払いだした。広場に突風が吹き荒れる。

 不意に奪われた。チエの手をガラス瓶の男が引っ張った。何かを察したように「こっちだ」とそう言って。

 男が走り出すとちえも必然と走り出す。西に向かって少し走ると男の足はすぐに止まった。


「これ持って。落とさないように」


 男からガラス大瓶を受け取った。重い。持てるだろうか。受け取る際、ぷくんと中の液体の揺れる粘っこい音がした。どろっとしている。

 突然両脇に男の手がすっと入りこんできた。ちえはびっくりして固まった。足裏が地面を離れ体が持ち上がる。少しくすぐったいが我慢した。

 男はちえを右肩に担ぐと通りを走り出した。

 男の右肩に自分の胸が密着しているのが分かったが、子供だから気にされていないのだろうと思った。預かったガラス瓶を落とさないように両手と右頬、こめかみに密着させるようにして抱きしめた。

 男の足は素早かった。蛇のように人の間をすり抜けていく。目の前に現れた男に驚いて通行人同士がぶつかり合う。片方の抱えていた茶色の紙袋が宙を舞った、と同時に中からオレンジ色や緑色の果物が飛び出し散乱する。

 心臓が激しく鼓動するあまりちえは息が詰まりそうだった。追われているからではなく、男が泡を吹かないからだ。

 手を握られた。ガラス瓶を受け取るときにも触れた。抱き上げられるときにもどこか触れたはずだし、今も右わき腹の辺りが男の腕に触れている。

 どうしてこの人だけ泡を吹かないのだろう。

 ちえの目線の先では、まだ局員たちが群衆に捕まっている。その光景が遠ざかっていく。ふと上空に何か見えた。目を細め、後ろ向きに担がれながら後方を指差した。


「何か飛んでる」

「蓋ノ騎士だ」


 ガラス瓶の男は、振り返らずに答えた。


「耳絶ちで飛んでるんだ。連中は楯蓋のプロだから」


 騎士が降下しながら近づいてくる。手には楯蓋。航空機が滑空するように地面すれすれを飛行している。

 ちえの視界が左にスライドした。右折してガラス瓶の男が裏道へ入った。日の差さない薄暗く細い道だ。


「こんなとこ逃げ込みやがって」


 騎士が急ブレーキをかけ裏道へ入ってくる。


「どっか隠れよう」


 息を切らしながら男は提案した。

 裏道を迷いのない足取りで走り続けた。行く手に光の縦筋が見えている。光へ突っ走った。

 表通りへ出ると、そこは公園の目の前だった。街の中心地だというのに草木が生い茂っている。散歩コースが路地に面した入口から公園内へと続いてる。コース沿いには白いベンチが等間隔に少数設置されている。

 男の足は散歩コースへ向かった。しばらく走ると公衆トイレを見つける。駆け込もうとして入口の前で立ち止まった。


「こっち」


 どちらへ入るか迷っているのだと気付いたチエが女子トイレを指差した。

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