『紅焔の覇王2』



深淵の暴君は、動かなかった。


その巨躯を龍の骸骨の傍らに据え、赤い瞳で呂布と赤兎を見下ろしている。威圧。ただ存在するだけで、周囲の空気が重く沈む。呼吸すら困難になるほどの圧力が、呂布の全身を押し潰そうとしていた。


だが、呂布は退かなかった。


「……お前が、赤兎を呼んでいたのか」


問いかけに、暴君は答えなかった。ただ、その視線は呂布ではなく、赤兎に注がれていた。


赤兎もまた、暴君を見据えていた。


その全身が震えている。恐怖ではない。もっと根源的な何か。血が騒いでいるのだ。この存在を前にして、赤兎の中の何かが反応している。


「■■■■■■」


暴君が再び、あの言葉を発した。


今度は、意味の断片が呂布の脳裏に浮かんだ。読字のスキルが、部分的に機能したのかもしれない。


「来い」


そう言っている。


「帰って来い」


赤兎の体が、一歩前に出た。


「赤兎」


呂布が呼ぶ。しかし、赤兎は止まらなかった。まるで糸に引かれるように、暴君に向かって歩を進める。


「赤兎!」


今度は、強く呼んだ。同時に、騎獣連携のスキルを意識的に発動させる。二つの意識が繋がり、赤兎の内面が流れ込んできた。


混乱。


葛藤。


そして、記憶。


断片的な映像が、呂布の脳裏を駆け抜けた。


────────────────────────


炎の海。


それが、最初の記憶だった。


赤兎は炎の中で生まれた。母の胎内ではなく、燃え盛る溶岩の底で、一つの命として目覚めた。炎を喰らい、炎を纏い、炎と共に生きる存在。それが、赤兎の本質だった。


幼い頃の記憶は曖昧だ。


ただ、走っていた。


どこまでも、どこまでも走っていた。風よりも速く、炎よりも熱く、誰にも追いつけぬ速さで大地を駆けた。それが喜びだった。それが存在の意味だった。


やがて、仲間と出会った。


同じ炎を纏う狼たち。群れを成し、森を駆け、獲物を狩った。しかし赤兎は、群れに馴染めなかった。他の狼たちとは、何かが違っていた。


彼らは満足していた。


森があり、獲物があり、仲間がいる。それで十分だと。


だが赤兎は、満足できなかった。


もっと遠くへ行きたい。もっと速く走りたい。もっと強くなりたい。この衝動が、赤兎を群れから遠ざけた。


孤独な日々が続いた。


一匹で森を彷徨い、一匹で獲物を狩り、一匹で眠った。強くなった。誰よりも速く、誰よりも強く。しかし、満たされなかった。


そして、あの日が来た。


────────────────────────


轟音が、森を揺るがした。


赤兎は本能的に、その方向へ走った。危険を承知で。何かが、自分を呼んでいると感じたから。


森を抜けた先に、それはいた。


巨大な黒い影。四つの腕、六つの角、燃える瞳。今、目の前にいるのと同じ存在。


いや、違う。


同じではない。


あれは、もっと若かった。もっと小さかった。それでも、赤兎など塵芥に等しいほどの力を持っていた。


その暴君が、別の存在と戦っていた。


龍だ。


黄金の鱗を持つ、巨大な龍。その龍が、若き暴君と死闘を繰り広げていた。


大地が裂け、空が燃え、森が吹き飛んだ。二つの怪物の戦いは、周囲の全てを破壊した。赤兎は逃げることもできず、ただ見ていた。


やがて、決着がついた。


龍が倒れた。


その腹が裂かれ、黄金の血が大地を染めた。若き暴君が勝利の咆哮を上げ、龍の肉を喰らい始めた。


その時だった。


龍の体から、何かが溢れ出した。


黄金の光。龍の生命力そのものが、大地に染み込んでいく。その光の一部が、隠れていた赤兎に触れた。


灼熱。


体が焼けるような痛み。しかしそれは、破壊の熱ではなかった。変容の熱だった。


赤兎の中で、何かが目覚めた。


龍の血。


黄金龍の生命力の一部が、赤兎の中に宿った。その瞬間から、赤兎は変わり始めた。より速く、より強く、より気高く。


そして、あの暴君は赤兎に気づいた。


「■■■■」


同じ言葉を、あの時も言った。


「来い」


「我が眷属となれ」


────────────────────────


赤兎は逃げた。


全力で、死に物狂いで逃げた。あの存在の眷属になることが何を意味するか、本能で理解していた。自我を失い、意志を奪われ、ただの道具となる。


嫌だった。


自由を失うことが、何よりも嫌だった。


逃げて、逃げて、逃げ続けた。山を越え、川を渡り、森を駆け抜けた。暴君の追跡は執拗だったが、赤兎の足は誰よりも速かった。


やがて、追跡は途絶えた。


暴君の領域を抜け、北の山に辿り着いた時、赤兎は初めて安堵した。ここなら、あの存在は追ってこない。


そして、新たな群れを見つけた。


弱い狼たちの群れ。赤兎は容易にその長となった。しかし、満たされなかった。支配することに、喜びはなかった。


孤独は、変わらなかった。


────────────────────────


そして、あの夜が来た。


洞窟に、小さなゴブリンが現れた。


取るに足らぬ存在。一噛みで殺せる矮小な生き物。しかし、その目は違っていた。恐怖がなかった。媚びもなかった。


ただ、真っ直ぐにこちらを見ていた。


何かを見定めるように。何かを探すように。


そして、その目を見た瞬間、赤兎は理解した。


この者は、自分と同じだ。


孤独で、満たされず、何かを求め続けている。


戦った。


全力で戦った。負けた。あの小さな体に、自分を超える何かがあった。技か、意志か、それとも運命か。


敗北は、屈辱ではなかった。


むしろ、解放だった。


ようやく見つけた。


共に走れる者を。共に戦える者を。共に高みを目指せる者を。


赤兎は、初めて何者かに仕えることを選んだ。


────────────────────────


記憶が途切れ、呂布は現実に戻った。


赤兎は、まだ暴君に向かって歩いている。その足取りは緩やかだが、確実に距離を詰めていた。


「赤兎」


呂布は、静かに呼んだ。


赤兎の耳が、ぴくりと動いた。


「お前の過去は理解した。あいつがお前を追っていた理由も、お前があの夜、あの洞窟にいた理由も」


暴君が、呂布を見た。その瞳に、僅かな苛立ちが浮かんでいた。取るに足らぬ虫が、己の獲物に話しかけている。その程度の認識だろう。


「だが、一つだけ聞く」


呂布は赤兎の横に並んだ。暴君の威圧が、さらに強まる。膝が震え、内臓が縮み上がる。それでも、呂布は立っていた。


「お前は、あいつの眷属になりたいのか」


赤兎が足を止めた。


「自我を失い、意志を奪われ、道具となる。それを望むのか」


暴君が唸った。その声には、明らかな怒りが滲んでいた。


「■■■■■■■■」


「黙れ、小僧。これは我と眷属の問題だ」


言葉が、直接脳に響いた。暴君の声が、翻訳されて伝わってくる。


「お前は関係ない。その矮小な命、今すぐ消してやってもよいのだぞ」


「関係ある」


呂布は言い返した。


暴君の瞳が、僅かに見開かれた。この虫が、自分に逆らった。その事実に、驚愕しているようだった。


「こいつは俺の相棒だ。俺が認めた唯一の存在だ。お前が何者であろうと、こいつを渡すつもりはない」


「……愚かな」


暴君が、ゆっくりと立ち上がった。


その全貌が、初めて露わになった。


立ち上がった暴君の体躯は、呂布の想像を超えていた。龍の骸骨よりも大きい。四本の腕はそれぞれが大樹ほどもあり、その先には鉤爪が輝いている。黒い甲殻は幾重にも重なり、どんな刃も通さぬだろう堅牢さを誇っている。


そして、口から紫の炎が溢れ出した。


「ならば、死ね」


────────────────────────


暴君の腕が振り下ろされた。


呂布は横に跳んだ。赤兎も同時に反対方向へ飛ぶ。寸前まで二人がいた場所に、巨大な爪が叩きつけられた。


地面が爆発した。


土砂が舞い上がり、衝撃波が呂布の体を叩く。転がりながら体勢を立て直し、剣を抜く。


「赤兎!」


呼びかけに、赤兎が応えた。その体から炎が噴き上がり、暴君に向かって突進する。


「無駄だ」


暴君の二本目の腕が、横薙ぎに振るわれた。赤兎は跳躍でそれを避けるが、三本目の腕が追撃する。


「ッ!」


赤兎の脇腹を、爪が掠めた。赤い血が飛び散り、赤兎が悲鳴を上げる。


「赤兎!」


呂布は駆けた。天下無双を発動し、全身に力を漲らせる。暴君の足元に到達し、剣を振り上げる。


刃が、甲殻に触れた。


火花が散った。


しかし、傷一つつかない。呂布の全力の一撃は、暴君の甲殻に阻まれて終わった。


「虫が」


四本目の腕が、呂布を払った。


「がッ……!」


吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。全身に衝撃が走り、視界が明滅する。口から血が溢れ、立ち上がることができない。


窮地の逆転が発動した。


スキルの効果で、かろうじて意識を保つ。ダメージの一部が軽減され、体が動くようになる。


「くそ……」


立ち上がり、暴君を見る。


その巨躯は、悠然とこちらを見下ろしていた。先ほどの攻防は、暴君にとって戯れに等しかったのだろう。本気を出していない。それは明らかだった。


「……無理だ」


勝てない。


呂布の全力を以てしても、傷一つつけられない。赤兎と連携しても、結果は変わらないだろう。レベル差が、あまりにも大きすぎる。


戦術眼が告げる。撤退せよ。この戦いに勝ち目はない。


だが。


「■■■■」


暴君が、再び赤兎に手を伸ばした。


「来い、眷属よ。お前の居場所は、我の傍らだ」


赤兎が、暴君を見上げていた。


その瞳に、諦めが浮かんでいた。


勝てない。逃げられない。ならば、従うしかない。そう、思い始めている。


呂布は、歯を食いしばった。


違う。


俺たちは、そんな者ではない。


────────────────────────


前世の記憶が蘇る。


虎牢関の戦い。


劉備、関羽、張飛。三人の英雄を相手に、呂布は一人で戦った。勝てる戦いではなかった。だが、呂布は退かなかった。


退けば、覇道は終わる。


その意地だけで、呂布は三人を相手に戦い続けた。結果は引き分け。しかし、あの戦いが呂布奉先の名を天下に轟かせた。


呂布は立ち上がった。


体中が悲鳴を上げている。骨が軋み、筋肉が断裂している。それでも、剣を構えた。


「赤兎」


呼びかける。


「お前は、本当にそれでいいのか」


赤兎が、こちらを見た。


「あいつの眷属になれば、楽だろう。もう逃げなくていい。もう戦わなくていい。全てを委ねて、道具として生きればいい」


暴君が、苛立たしげに唸った。


「だが、それはお前の望みか」


赤兎の瞳が、揺れた。


「お前は自由を求めていたはずだ。誰よりも速く走り、誰にも縛られず、己の意志で生きることを。俺はそれを見た。お前の記憶の中で」


呂布は、一歩前に出た。


「俺も同じだ。前世で、俺は何者にも屈しなかった。丁原を殺し、董卓を殺し、曹操に追われ、袁術に裏切られ。それでも、俺は己の道を歩んだ。誰の下にも付かず、誰の命令も聞かず」


もう一歩。


「結果、俺は死んだ。下邳城で捕らえられ、縛り首にされた。惨めな最期だった。だが、後悔はない。俺は最後まで、呂布奉先として死んだ」


暴君が、呂布を見た。その瞳に、僅かな興味が浮かんでいた。


「お前は、死ぬことを恐れぬのか」


「恐れる。当然だ。だが、恐れることと、屈することは違う」


呂布は剣を構えた。


「俺はお前に勝てない。それは分かっている。だが、退かない。お前が赤兎を連れ去ろうとする限り、俺はここに立ち続ける」


「……愚かな」


暴君が、腕を振り上げた。


「ならば、死ね。そして眷属よ、この愚か者が死ぬ様を見届けろ。お前に選択の余地などないことを、思い知れ」


腕が振り下ろされる。


呂布は動かなかった。


避けても無駄だ。この速度、この威力を、何度も避け続けることはできない。ならば、受けるしかない。そして、一撃でも返す。


たとえ、それが無意味でも。


それが、呂布奉先の生き方だ。


────────────────────────


その時だった。


炎が、呂布の前に立ちはだかった。


赤兎だった。


全身から炎を噴き上げ、暴君の前に立っている。その体は震えていた。恐怖で。それでも、退かなかった。


「赤兎……」


「■■■!?」


暴君が、腕を止めた。その顔に、驚愕が浮かんでいた。


赤兎が、吠えた。


言葉にならない咆哮。しかし、その意味は明らかだった。


「この者を傷つけるな」


「俺の主に、手を出すな」


暴君の顔が、怒りに歪んだ。


「貴様……この我に逆らうか。眷属の分際で」


赤兎は応えなかった。ただ、呂布の前に立ち続けた。


その背中を見て、呂布は理解した。


赤兎は、選んだのだ。


暴君の眷属になる道ではなく、呂布と共に立つ道を。たとえそれが死を意味しても。


「……馬鹿な奴だ」


呂布は、笑った。


「だが、それでこそ俺の相棒だ」


赤兎の傍らに立つ。剣を構え、暴君を見据える。


二人で、巨大な影に立ち向かう。


勝ち目はない。


それでも、退かない。


それが、呂布と赤兎の生き方だった。

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