『紅焔の覇王1』


夏の盛りが過ぎ、風に微かな涼しさが混じり始めた頃のことだった。


呂布は北の拠点の見張り台に立ち、眼下に広がる山々を見渡していた。朝靄が谷間を這い、遠くの森が白い霧に沈んでいる。配下たちはまだ眠りの中にあり、拠点は静寂に包まれていた。


この時間が、呂布は嫌いではなかった。


前世では考えられぬことだ。かつての呂布奉先は、静寂を好まなかった。戦場の喧騒、敵の悲鳴、馬蹄の轟き。そういったものの中でこそ、己の存在を確かめられた。


だが今は違う。


この静けさの中で、呂布は己と向き合う術を学びつつあった。鬼人への進化を経て、肉体だけでなく精神もまた変容している。より冷静に、より深く、物事を見据えられるようになっていた。


「……三日目か」


呟きは、独り言だった。


三日前から、赤兎の様子がおかしい。


普段は呂布の傍を離れぬあの巨狼が、繰り返し南を向いては低く唸る。眠りも浅く、食事の量も減っている。まるで何かに呼ばれているかのように、焦燥を滲ませている。


獣の勘。


呂布はそれを軽んじる気はなかった。前世においても、赤兎馬の直感に救われたことは一度や二度ではない。戦場において、この相棒の感覚は時に人間の知略を超えた。


見張り台を降り、赤兎のもとへ向かう。


拠点の一角、岩壁に囲まれた窪みに、赤兎は身を横たえていた。しかし眠ってはいない。その金色の瞳は、南の空を見据えたまま動かない。


「……また、か」


呂布が近づくと、赤兎は首をもたげた。その瞳に宿る光は、普段の鋭さとは異なっていた。懇願。そう呼ぶべきものが、そこにはあった。


「南に、何がある」


問いかけに、赤兎は答えられない。言葉を持たぬ獣だ。しかし呂布には、その意図が伝わった。騎獣連携のスキルが発動したわけではない。長い時を共に過ごした者同士の、言葉を超えた理解だった。


南へ行きたい。


いや、行かねばならない。


そこに、何かがある。


────────────────────────


朝議の場に、幹部たちが集まっていた。


グルドが全体の報告を取りまとめ、ゴルドが東方隊の状況を述べ、ゴリが遊撃隊の偵察結果を伝える。日々の糧食、訓練の進捗、周辺の脅威。拠点が大きくなるにつれ、処理すべき情報も増えていた。


「南方の偵察について、報告があります」


グルドが切り出したのは、朝議の終盤だった。


「三日前に派遣した偵察隊が、昨夜戻りました」


「遅いな。通常なら一日で往復できる距離だ」


呂布の指摘に、グルドは頷いた。


「はい。それには理由があります。偵察隊は……途中で引き返さざるを得なかったと」


「引き返した?」


「南の森の奥から、異様な魔力の波動が感じられたと。断続的に、まるで巨大な何かが暴れているような。近づくほどに濃くなり、偵察の者たちは恐怖で足が竦んだようです」


沈黙が落ちた。


この場にいる者たちは、皆それなりの修羅場を潜り抜けてきた。オーガとの死闘、トロールの群れとの戦い、人間の討伐隊との激突。恐怖を知らぬわけではないが、それを乗り越える術も心得ている。


その彼らが、近づくことすらできなかった。


「波動の発生源は特定できたか」


「おおよそは。南の森を抜けた先、岩山に囲まれた盆地があるとのこと。波動はそこから発せられていると」


呂布は顎に手を当てた。


南の森の先。地図で見れば、この山域の南端にあたる。その先は広大な樹海が広がり、やがてゴブリン王国グロンドの領域に至る。樹海の魔王の支配地だ。


「魔王の配下か」


「不明です。ただ、偵察の者が言うには……あれは支配された力ではないと。もっと原初的な、純粋な破壊衝動のようなものを感じたと」


純粋な破壊衝動。


その言葉に、呂布は眉を顰めた。


「他に、情報は」


「一つだけ。森の入口付近で、巨大な足跡を発見したと。三本の爪痕。幅は……成人の背丈ほどもあったと」


成人の背丈。


つまり、その存在の体躯は、少なくとも呂布の五倍から十倍はあるということだ。


グルドが言葉を続けた。


「呂布様。正直に申し上げます。私は、この件には近づくべきではないと考えます」


「理由は」


「我々の勢力は、ようやく安定を見せ始めたところです。五百を超える配下、複数の拠点、武器の生産体制。これらを危険に晒す理由が見当たりません」


合理的な判断だった。


グルドの言う通り、今の呂布軍は成長の途上にある。無謀な戦いで主力を失えば、これまで積み上げてきたものが瓦解しかねない。


だが。


「赤兎」


呂布は呼んだ。


朝議の場の外で待機していた巨狼が、のそりと姿を現した。その体躯は洞窟の入口を塞ぐほどに大きい。炎の毛皮が揺らめき、周囲の空気を熱している。


幹部たちの視線が、赤兎に集まった。


「三日前から、こいつの様子がおかしい。南を見ては唸り、落ち着きを失っている」


「……それは」


「獣の勘だ。俺はこいつの感覚を信じる。南に、何かがある。それを確かめる必要がある」


グルドは口を開きかけ、しかし閉じた。呂布の目を見て、説得は無意味だと悟ったのだろう。


代わりに、ゴリが口を開いた。


「俺も行く」


「いや。これは偵察だ。大人数で動けば目立つ」


「しかし、一人では」


「一人ではない」


呂布は赤兎の首筋を叩いた。


「こいつがいる」


────────────────────────



正午を過ぎた頃、呂布は赤兎と共に拠点を発った。


装備は最小限に留めた。剣一本、投擲用の石、携帯食料。重装備は機動力を殺す。偵察が目的である以上、逃走の選択肢を常に確保しておく必要があった。


赤兎の足取りは、普段よりも速い。


呂布が手綱を引かずとも、巨狼は迷いなく南へ向かう。その背中には、抑えきれぬ昂揚が感じられた。


「……お前は、何を感じている」


問いかけに、赤兎は答えない。ただ、その足は止まらなかった。


森に入ると、空気が変わった。


北の山域とは異なる植生。広葉樹が密生し、地面には厚い腐葉土が積もっている。木漏れ日が斑に差し込み、どこか薄暗い雰囲気が漂う。


生命の気配は豊かだった。鳥が囀り、小動物が茂みを駆ける。虫の羽音が耳に纏わりつく。


しかし、進むにつれて、それらは徐々に薄れていった。


半刻も進んだ頃には、森は沈黙に包まれていた。


鳥の声が消えた。虫の音が絶えた。風すら止まり、木の葉一枚動かない。まるで森全体が息を潜めているかのようだった。


赤兎の足が、初めて鈍った。


「どうした」


問いかけると、赤兎は低く唸った。警戒の唸りだ。前方に、何かを感じ取っている。


呂布の危機察知も、微かな警告を発していた。まだ遠い。しかし、確実に何かがいる。


「……進むぞ」


赤兎は一瞬躊躇したが、やがて再び足を踏み出した。


────────────────────────



さらに進むと、森の様相が一変した。


木々が枯れていた。


葉は褐色に変じ、幹は灰色に乾いている。地面の腐葉土は黒く変色し、踏むと粉のように崩れた。生命の気配は、完全に消え失せていた。


「瘴気……いや、違う」


呂布は眉を顰めた。


沼地で感じた瘴気とは、質が異なる。あれは淀んだ水が生み出す毒素だった。だがこれは、より根源的な何かだ。


腐食。


そう呼ぶべきものだった。


生命そのものを蝕み、死へと変える力。それが、この一帯を覆っている。


赤兎が足を止めた。


前方の地面に、巨大な爪痕が刻まれていた。三本の溝。幅は呂布の背丈を超え、深さは膝まである。土がえぐれ、岩盤が露出している。


「これが、偵察隊の言っていた……」


呂布は馬を降り、爪痕に近づいた。溝の縁に触れると、指先が微かに痺れた。残留した魔力だ。これを刻んだ存在の力の残滓が、まだ消えていない。


爪痕は一つではなかった。


周囲を見渡すと、同様の痕跡が無数に残されている。木々を薙ぎ倒し、地面を抉り、岩を砕いた痕跡。まるで巨大な何かが、暴れ狂ったかのようだ。


「……戦闘の跡か」


いや、違う。


戦闘であれば、相手の痕跡も残るはずだ。しかし、ここにあるのは一方的な破壊の痕跡のみ。相手は存在しない。


これは、単なる破壊衝動の発露だ。


何者かが、ただ暴れ狂っただけ。


その何者かの強大さを示す証拠が、この一帯には満ちていた。


赤兎が再び唸った。


今度の唸りは、警戒ではなかった。


呼応。


そう表現すべきものだった。この先にいる何かに対して、赤兎は呼応している。


「……お前と、関係があるのか」


赤兎は答えない。ただ、南を見据えたまま、小さく身を震わせていた。


呂布は剣の柄に手を置いた。


嫌な予感がする。


だが、引き返す気はなかった。ここまで来て引き返せば、永遠に答えは得られない。赤兎が何に呼ばれているのか。この先に何があるのか。


それを確かめねばならない。


「行くぞ」


赤兎の背に跨がり、呂布は再び南へ向かった。


────────────────────────


森を抜けると、視界が開けた。


岩山に囲まれた盆地。偵察隊が報告した場所だ。直径は五百歩ほど。中央には涸れた池があり、その周囲には奇妙な岩の柱が林立している。


いや、違う。


あれは岩ではない。


呂布は目を凝らし、そして息を呑んだ。


骨だ。


巨大な骨が、大地から突き出している。肋骨、背骨、頭蓋骨。幾つもの巨大な骸骨が、この盆地には散らばっていた。


「龍の……骨」


そう、龍だ。


一体や二体ではない。少なくとも五体、いや、それ以上の龍の骸骨が、この場所には積み重なっている。ある者は原形を留め、ある者は粉々に砕かれ、またある者は半ば土に埋もれている。


龍の墓場。


あるいは、龍の処刑場。


これだけの龍を殺せる存在が、この世にいるのか。


赤兎が、突然嘶いた。


「どうした」


呂布が問う前に、答えは目の前に現れた。


盆地の奥、最も大きな龍の骸骨の陰から、それは姿を現した。


────────────────────────


最初に見えたのは、目だった。


闇の中で燃える、赤い瞳。獣の目ではない。そこには知性があった。しかし、それは人間的な知性ではない。もっと原始的で、もっと凶暴な何か。


純粋な破壊の意志。


それが、二つの赤い瞳に凝縮されていた。


次に見えたのは、輪郭だった。


巨大。


その一言が、呂布の脳裏を支配した。


体長は、龍の骸骨と比較しても遜色ない。呂布の身長の十五倍から二十倍。四つの腕が地面を掻き、二本の脚で直立している。頭部には三対の角が生え、全身は黒い甲殻に覆われている。


そして、その口から紫色の炎が漏れ出ていた。


呂布の戦術眼が、自動的に起動した。


『上位魔物「深淵の暴君」、推定レベル70以上。大陸屈指の災厄級魔物。単独討伐は不可能。即時撤退を推奨』


災厄級。


その言葉の重みを、呂布は理解した。


ゼドから聞いた話を思い出す。この大陸には、七人の魔王が君臨している。その魔王たちですら手を出さぬ存在がいる。天災のように現れ、全てを破壊し、去っていく。人々はそれを「災厄」と呼ぶ。


目の前にいるのは、その災厄の一つ。


深淵の暴君。


「■■■■」


それは、咆哮した。


いや、違う。言葉だ。呂布には理解できぬ言語で、それは何かを言った。


赤兎が応えるように嘶いた。


その瞬間、呂布は理解した。


赤兎を呼んでいたのは、この存在だ。

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