『山麓の夜』


南への旅は、三日目を迎えていた。


森は次第に変わっていった。木々の種類が異なり、空気が冷たくなり、地面の傾斜がきつくなる。山が近づいている証拠だ。


「足元に気をつけろ。滑りやすい」


俺は後方に声をかけた。


帰還者の一匹が、苔むした岩に足を取られてよろめいた。すぐにゴリが支えて立て直す。


「大丈夫か」


「あ、ああ……すまない」


「謝るな。だが、次は気をつけろ」


三日間の行軍で、群れの結束は目に見えて強まっていた。


最初は帰還者たちと俺たちの間にあった溝も、共に歩き、共に野営し、共に飯を食ううちに薄れていった。今では、誰が「最初の仲間」で誰が「帰還者」かなど、気にする者はいない。


俺たちは一つの群れだ。


「呂布、前方に川がある」


先行していたピックが戻ってきた。


「川?」


「結構大きい。幅は……二十歩くらいか。流れは速くない」


「渡れるか」


「浅い場所を探せば、多分」


俺は頷いた。


「全員、川まで移動する。そこで小休止だ」


---


川に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。


ピックの言う通り、幅は二十歩ほど。水は澄んでおり、川底の石が見える。流れは穏やかだ。


「水を補給しろ。それから——」


俺は川面を見つめた。


魚影が見える。大きさは手のひらほど。数は多い。


「魚を獲る。今夜の食料にする」


「魚? どうやって」


「メザ、罠は作れるか」


メザが川を観察し、考え込んだ。


「……やってみる。蔓と枝で簀を作って、流れの緩い場所に沈めれば、魚が入り込むかもしれない」


「頼んだ。ピック、ゴリ、手伝え」


「了解」


三匹が川辺で作業を始めた。


俺は周囲を見回し、野営に適した場所を探した。川から少し離れた場所に、大きな岩が並んでいる。その陰なら、風を防げるし、敵からも見えにくい。


「グルド、あの岩の陰に野営地を作れ」


「分かった」


グルドが帰還者たちを率いて動き始めた。


俺は一人、川を渡って対岸を偵察することにした。


---


川を渡ると、空気が変わった。


より冷たく、より乾いている。そして——獣の臭いが濃い。


山が近い。


俺は慎重に歩を進めた。木々の間から、山の姿がはっきりと見えた。これまでは霞んでいた輪郭が、今は鮮明に捉えられる。


険しい山だった。


切り立った崖、剥き出しの岩肌、まばらに生える針葉樹。人間が住むには過酷な環境だろう。だが、魔物にとっては——


棲み処として、悪くない。


「鬼、か」


あの三匹のゴブリンが言っていた言葉を思い出す。


山には鬼がいる。大きくて、強くて、ゴブリンを食う魔物。


どんな存在なのか。オーガか、トロールか、それとも別の何かか。この世界の「鬼」が何を指すのか、俺にはまだ分からない。


だが、いずれ出会うことになるだろう。


その時までに、俺たちは——


「——ッ!」


危機察知が、鋭く警告を発した。


俺は咄嗟に身を低くし、近くの茂みに飛び込んだ。


気配がある。強い。そして、近い。


俺は息を殺し、茂みの隙間から周囲を窺った。


何かが動いている。


木々の間を、大きな影が移動していた。


四足歩行。体長は俺の三倍はある。灰色の毛皮、鋭い爪、長い牙。


狼だ。だが、普通の狼ではない。


あの時の魔狼よりも、さらに大きい。


「——群れの長か」


俺は息を呑んだ。


魔狼の群れには、序列がある。俺が以前倒した魔狼は、おそらく群れの下位か中位の個体だった。だが、目の前にいるのは——


明らかに格が違う。


魔狼が立ち止まった。鼻をひくつかせ、周囲の臭いを嗅いでいる。


俺の臭いを、追っているのか。


心臓が激しく脈打った。今の俺では、あれに勝てない。仲間を連れてきても、勝てるかどうか怪しい。


逃げるしかない。


だが、動けば気づかれる。


俺は身じろぎ一つせず、茂みの中で息を潜めた。


隠密のスキルを最大限に活用する。気配を消し、存在を薄め、ただの草むらの一部になりきる。


魔狼が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。


十歩。


八歩。


五歩。


俺の隠れている茂みの、すぐ横を通り過ぎようとしている。


心臓が破裂しそうだった。


だが、顔には出さない。息も止めている。指一本、動かさない。


魔狼が立ち止まった。


俺の方を向いた。


——気づかれたか。


全身の筋肉が、戦闘態勢を取ろうとした。だが、俺はそれを押さえ込んだ。まだだ。まだ確定していない。


魔狼は数秒間、俺の方を見つめていた。


そして——


踵を返し、山の方へ去っていった。


---


魔狼の気配が完全に消えるまで、俺は動かなかった。


十分。いや、もっと長かったかもしれない。


ようやく体の力を抜いた時、全身が汗で濡れていた。


「……危なかった」


声に出して呟いた。


あれは、俺がこの世界で見た中で最も強い存在だった。人間の兵士五人より、遥かに脅威だ。


山には、ああいう化け物がいる。


「鬼」というのも、あるいはああいった存在を指しているのかもしれない。


俺は立ち上がり、川の方へ戻ることにした。これ以上の偵察は危険だ。今日のところは、情報を持ち帰ることを優先する。


---


野営地に戻ると、仲間たちが心配そうに出迎えた。


「遅かったな。何かあったのか」


グルドが尋ねた。


「ああ。山の方に、でかい魔狼がいた」


「魔狼? また?」


「前のやつより大きい。三倍くらいある」


仲間たちの顔が青ざめた。


「そんなのと戦えるのか……?」


ピックが震える声で言った。


「今は無理だ。だが、いずれは倒す」


俺は岩に腰を下ろした。


「それより、魚は獲れたか」


「あ、ああ。五匹獲れた」


メザが簀を持ち上げて見せた。確かに、手のひらほどの魚が数匹入っている。


「よくやった。焼いて食おう」


---


夜になった。


焚き火を囲み、焼いた魚を分け合った。一人あたりの量は少ないが、温かい食事は士気を上げる。


「うまい……」


帰還者の一匹が、しみじみと言った。


「肉とは違う味だな」


「川の近くに住めば、魚も獲れる。狩りの幅が広がる」


メザが分析するように言った。


「山に着いたら、まずは水場を確保する。川か、湧き水か。それがなければ、長くは住めない」


「分かっている」


俺は魚の骨を火に投げ入れた。


「だが、山には強い魔物がいる。さっき見た魔狼もそうだし、『鬼』とやらもいる。拠点を作る前に、周囲の状況を把握しなければならない」


「どうやって」


「偵察だ。少数で動き、敵の縄張りを確認する。戦わずに情報を集める」


グルドが頷いた。


「俺も行く」


「いや、お前は残れ。群れを守る者が必要だ」


「なら誰が行くんだ。一人で行くつもりか」


「……ピックを連れていく。足が速く、隠密も得意だ。二匹なら、逃げやすい」


ピックが驚いた顔をした。


「俺?」


「嫌か」


「いや……嫌じゃないけど。大丈夫かな、俺」


「大丈夫だ。お前は成長している。自信を持て」


ピックは少し照れたように目を逸らしたが、その口元には笑みが浮かんでいた。


---


焚き火が小さくなり、仲間たちが眠りについた。


俺は見張りを買って出て、岩の上に座っていた。


二つの月が、夜空に浮かんでいる。


この世界に来て、どれほどの時が経っただろう。一ヶ月か。それ以上か。時間の感覚が曖昧になっている。


だが、確実に前に進んでいる。


最弱のゴブリン幼体から、成体へ。一匹から、十一匹の群れへ。洞窟の中で飢えていた頃から、山を目指して旅をする今へ。


一歩ずつ。確実に。


「呂布」


声がして振り向くと、グルドが起き上がっていた。


「眠れないのか」


「ああ……少し」


グルドが隣に座った。


「なあ、聞いてもいいか」


「なんだ」


「前世のこと。お前、どんな奴だったんだ」


俺は少し考えた。


前世のこと。呂布奉先という男のこと。


「……強かった」


「強かった?」


「この世界で言えば、たぶん——あの大きな魔狼くらいには、強かったと思う」


グルドが目を見開いた。


「そんなに……?」


「ああ。武においては、誰にも負けなかった。天下無双と呼ばれていた」


「じゃあ、なんで死んだんだ」


その問いに、俺は言葉を詰まらせた。


「……裏切ったからだ」


「裏切った?」


「何度も、何度も。主を裏切り、仲間を裏切り、最後は誰にも信じてもらえなくなった。そして、処刑された」


沈黙が流れた。


「俺は、強かった。だが、それだけだった。人の心を繋ぐことができなかった。だから負けた」


グルドは黙って聞いていた。


「今は違う。少なくとも、違いたいと思っている。お前たちを裏切るつもりはない。それだけは、誓える」


「……分かってる」


グルドが静かに言った。


「お前が裏切り者だったなんて、もう関係ない。俺たちにとって、お前は——お前だ。今のお前が、俺たちの長だ」


その言葉が、胸に沁みた。


「ありがとう」


「礼なんていらない。……さて、そろそろ寝るか。明日も歩くんだろう」


「ああ。山麓まで、あと半日といったところだ」


グルドが立ち上がり、寝床に戻っていった。


俺は再び月を見上げた。


明日、山に着く。


そこからが、本当の始まりだ。


---


翌朝、俺たちは川を渡り、山へ向かった。


森はさらに疎らになり、地面は岩と砂利に変わっていった。傾斜がきつくなり、足を踏み外せば滑り落ちそうな場所もある。


「気をつけろ。一列になって、俺の後について来い」


俺は先頭を歩き、安全な足場を選びながら進んだ。


昼を過ぎた頃——


「着いた」


俺は足を止めた。


目の前に、山がそびえていた。


切り立った崖、剥き出しの岩肌、点在する洞穴。荒涼とした風景だが、同時に——隠れる場所は多い。


「ここが、山か……」


ゴリが見上げて呟いた。


「ああ。ここからが、俺たちの新しい領地だ」


俺は山を見据えた。


どこかに、拠点となる洞窟がある。水場がある。そして——


俺たちを強くしてくれる敵がいる。


「行くぞ」


俺は一歩を踏み出した。


仲間たちが、その後に続いた。


---


【ステータス更新】


**【名前】呂布**

**【種族】ゴブリン(成体)**

**【レベル】20**


**【HP】138/138**

**【MP】44/44**


**【筋力】48**

**【敏捷】55**

**【知力】38**

**【魔力】27**

**【耐久】45**

**【幸運】20**


**【スキル】**

暗視(固有)、威圧(覚醒)、天下無双(封印)、指揮(Lv.5)、投擲(Lv.4)、隠密(Lv.4)【UP】、危機察知(Lv.5)【UP】、窮地の逆転(Lv.2)、戦術眼(Lv.4)、教導(Lv.3)、統率(Lv.2)、読字(自動習得)、剣術(Lv.2)、野営(Lv.1)【NEW】


**【称号】**

転生者、主殺し、反逆者、魔狼討伐者、群れの長、人殺し


---


**【新規スキル】野営 Lv.1**


**種別:**生存スキル


**効果:**野外での休息効率が向上。睡眠時のHP・MP回復量が増加。悪天候や危険な環境での野営時、群れ全体の体力消耗を軽減する。


**成長条件:**様々な環境で野営を重ねること。


**備考:**長距離移動や過酷な環境での生存に不可欠なスキル。


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