『乱戦』


魔狼が、吠えた。


その咆哮が、洞窟を震わせた。天井から砂埃が落ち、地面が微かに揺れた。成体たちが、恐怖に顔を引きつらせた。


片目を失った魔狼。だが、その威圧感は少しも衰えていなかった。むしろ、憎悪と殺意が加わり、以前より遥かに凶暴な気配を放っていた。


「ば、化け物……」


成体の一匹が、悲鳴を上げた。


「なぜ、こんなところに……」


魔狼は、洞窟の中を見回した。


残った一つの黄金の目が、ゆっくりと動く。成体たちを見て、幼体たちを見て、そして。


呂布を、見た。


その目に、明確な敵意が宿った。


覚えている。


呂布は、悟った。


この魔狼は、自分の目を潰した相手を覚えている。匂いで追ってきたのだ。復讐のために。


魔狼が、呂布に向かって突進した。


「避けろ、リョフ!」


グルドの声が聞こえた。


呂布は、渾身の力で横に転がった。


魔狼の牙が、呂布がいた場所を噛み砕いた。地面が抉れ、岩が砕けた。


長が、剣を構えて叫んだ。


「何をしている! あの化け物を殺せ!」


成体たちは、一瞬躊躇した。だが、長の命令には逆らえない。十匹以上の成体が、魔狼に向かって武器を振り上げた。


だが、魔狼は成体たちを相手にしなかった。


その目は、ひたすら呂布を追っていた。呂布だけを、殺そうとしていた。


魔狼が、再び呂布に向かって飛びかかった。


呂布は、柱のように立つ鍾乳石の後ろに身を隠した。魔狼の体が、鍾乳石に激突した。石が砕け、破片が飛び散った。


「リョフ!」


ピックが、石を投げた。


石が、魔狼の背中に当たった。だが、魔狼は振り向きもしなかった。呂布以外の獲物には、興味がないようだった。


成体たちが、魔狼に群がり始めた。


棍棒が、魔狼の脇腹を打った。槍が、魔狼の肩を突いた。だが、魔狼は怯まなかった。暴れながら、成体たちを振り払っていく。


一匹の成体が、魔狼の爪に切り裂かれた。血飛沫が上がり、成体は絶命した。


別の成体が、魔狼の牙に噛みつかれた。悲鳴を上げる間もなく、首を食いちぎられた。


阿鼻叫喚。


洞窟の中が、地獄と化していた。


---


呂布は、混乱の中で状況を把握しようとしていた。


体が、まだうまく動かない。長に蹴られた腹が、激しく痛んでいる。だが、ここで倒れているわけにはいかない。


「グルド!」


呂布は叫んだ。


「ここだ!」


グルドの声が、近くから聞こえた。


グルドが、呂布の傍に駆け寄ってきた。その後ろに、ピックとメザもいた。


「ゴリは」


「分からない。さっき壁に叩きつけられて……」


「探せ。連れて来い」


「分かった」


ピックが、ゴリを探しに走った。


呂布は、立ち上がろうとした。グルドが、肩を貸してくれた。


「動けるか」


「何とかな」


呂布は、洞窟の中を見回した。


魔狼と成体たちが、乱戦を繰り広げている。成体たちは数で押そうとしているが、魔狼の戦闘力が圧倒的すぎた。次々と成体が倒れていく。


そして、長は。


長は、戦いに加わっていなかった。


洞窟の奥で、じっと状況を見ている。部下たちが殺されているのを、傍観していた。


「あの野郎……」


グルドが、憎々しげに言った。


「仲間が殺されてるのに、見てるだけか」


呂布は、長を見つめた。


長は、魔狼を恐れていた。自分より強い相手と戦うことを、避けていた。部下を盾にして、自分だけ生き延びようとしていた。


恐怖で支配する者の、本性だ。


いざという時、部下のために戦わない。部下を見捨てて、自分だけ逃げる。


前世の俺も、そうだったかもしれない。


呂布は、そう思った。


部下を駒としか思っていなかった。部下のために命を懸けることなど、考えもしなかった。


だから、最後に裏切られた。


長も、いずれそうなる。だが、それは今ではない。


今は、生き延びることが先だ。


「グルド、逃げるぞ」


呂布は言った。


「魔狼と成体たちが戦っている間に、洞窟を出る」


「でも、ゴリが……」


「ピックが探している。合流したら、すぐに出る」


呂布は、メザを見た。


「メザ、出口までの最短ルートを見ろ」


「分かった」


メザが、素早く周囲を見回した。


「右側の壁沿いに行けば、戦いを避けられる。そこから入り口まで、二十歩くらいだ」


「よし、行くぞ」


---


呂布たちは、壁沿いに移動を始めた。


乱戦の音が、すぐ近くで響いている。魔狼の咆哮。成体たちの悲鳴。武器がぶつかる音。血の匂いが、洞窟全体に満ちていた。


「リョフ、こっちだ」


ピックの声がした。


暗がりの中から、ピックがゴリを担いで現れた。ゴリは意識を失っているようだったが、呼吸はしていた。


「ゴリは」


「気絶してるだけだ。傷は浅い」


「よし。全員揃ったな。走るぞ」


呂布たちは、入り口に向かって走り出した。


その時だった。


「待て」


声がした。


長の声だった。


呂布は、足を止めた。振り返ると、長が洞窟の奥から歩いてきていた。


「逃げるのか、リョフ」


長は、嘲笑うように言った。


「さっきまでの威勢はどうした。俺を倒すと言っていたではないか」


呂布は、長を睨んだ。


「今は、お前と戦っている場合ではない」


「そうか。なら、一つ教えてやる」


長は、剣を呂布に向けた。


「あの魔狼は、お前の匂いを追ってきた。お前がここにいる限り、魔狼はこの洞窟を離れない。お前が、この災厄を招いたのだ」


呂布は、言葉を失った。


長の言う通りだった。


魔狼は、呂布に復讐するために来た。呂布がいなければ、魔狼はこの洞窟に現れなかった。成体たちが殺されることも、なかった。


「お前のせいで、俺の部下が何匹も死んだ」


長は、じりじりと近づいてきた。


「その責任、取ってもらうぞ」


「リョフ、行くぞ!」


グルドが、呂布の腕を引いた。


「あいつの言葉に惑わされるな。今は逃げるんだ」


呂布は、一瞬躊躇した。


だが、グルドの言う通りだった。今は、逃げるしかない。長と魔狼を同時に相手にする力は、呂布たちにはない。


呂布は、走り出した。


長が、追いかけてこようとした。


だが、その瞬間。


魔狼が、長に気づいた。


魔狼は、呂布を追うのを止めた。代わりに、長に向かって突進した。


「なっ……」


長が、剣を構えた。


魔狼の巨体が、長に迫る。長は、剣を振り下ろした。剣が、魔狼の肩を切り裂いた。血が飛び散った。


だが、魔狼は止まらなかった。


魔狼の体当たりが、長を吹き飛ばした。長は、壁に叩きつけられた。剣が、手から離れて床に転がった。


「ぐっ……」


長が、呻きながら起き上がろうとした。


だが、魔狼の方が速かった。


魔狼の牙が、長の腕に噛みついた。


長の絶叫が、洞窟に響いた。


---


呂布は、その光景を見ていた。


足が、止まっていた。


長が、魔狼に噛みつかれている。腕から血が噴き出している。あのまま放っておけば、長は死ぬ。


助けるべきか。


呂布は、自問した。


長は、敵だ。呂布たちを殺そうとした男だ。助ける理由など、どこにもない。


むしろ、長が死んでくれれば、都合がいい。群れの支配者がいなくなれば、呂布たちの立場は楽になる。


見捨てろ。


冷静な判断が、そう告げていた。


だが。


呂布は、長の顔を見た。


恐怖に歪んだ顔。死を目前にして、怯えている顔。


その顔に、呂布は見覚えがあった。


白門楼で、縄を首にかけられた時の自分の顔だ。


死にたくない。まだ死にたくない。助けてくれ。誰か、助けてくれ。


あの時の自分と、同じ顔だった。


「くそっ……」


呂布は、走り出した。


「リョフ!? 何してる!」


グルドの声が、背後から聞こえた。


呂布は、魔狼に向かって走った。


床に転がっている石を拾う。走りながら、腕を振りかぶる。


そして、投げた。


石が、魔狼の頭に命中した。


魔狼が、呂布を見た。残った一つの目が、憎悪に燃えていた。


長の腕を放し、魔狼は呂布に向き直った。


「こっちだ、化け物!」


呂布は叫んだ。


「お前が殺したいのは、俺だろう! 来い!」


魔狼が、咆哮を上げた。


そして、呂布に向かって突進した。


呂布は、振り返って走った。


全力で、洞窟の入り口に向かって走った。


背後から、魔狼の足音が迫ってくる。地面が揺れるほどの、重い足音。振り返らなくても分かる。距離が、どんどん縮まっている。


入り口が、見えた。


月明かりが、差し込んでいる。あそこを抜ければ、外に出られる。


呂布は、最後の力を振り絞って跳んだ。


体が、宙を舞った。


入り口を抜け、外に飛び出した。


着地と同時に、振り返った。


魔狼が、入り口から飛び出してきた。


呂布は、横に跳んだ。


魔狼の牙が、空を噛んだ。


呂布は、転がりながら立ち上がった。


魔狼が、再び呂布に向き直った。


一対一。


洞窟の外、月明かりの下で、呂布と魔狼が対峙した。


---


「リョフ!」


仲間たちの声が、背後から聞こえた。


グルド、ピック、メザ。三匹が、洞窟から飛び出してきた。ゴリを担いだピックが、少し遅れている。


「来るな!」


呂布は叫んだ。


「お前たちは、ゴリを連れて逃げろ!」


「何を言ってる! 一緒に戦う!」


「駄目だ! こいつは、俺を狙っている! お前たちがいると、巻き添えになる!」


魔狼が、唸り声を上げた。


その目は、呂布だけを見ていた。仲間たちには、興味がないようだった。


「グルド、頼む」


呂布は言った。


「俺は、こいつを引きつける。お前たちは、その間に逃げろ」


「リョフ……」


「死ぬ気はない。必ず、生きて戻る。だから、信じて待っていろ」


グルドは、呂布を見つめた。


その目に、葛藤が浮かんでいた。呂布を置いて逃げたくない。だが、呂布の言葉を信じたい。


「分かった」


グルドは、苦渋の表情で頷いた。


「必ず戻って来い、リョフ。約束だ」


「ああ。約束する」


グルドが、ピックとメザを連れて走り出した。ゴリを担いで、森の中へと消えていく。


呂布は、魔狼と向き合った。


一対一。


勝ち目は、薄い。前回は三匹がかりで、やっと両目を潰した。今は一匹だ。しかも、呂布は傷を負っている。


だが、やるしかない。


呂布は、足元の石を拾った。


「来い、化け物」


呂布は言った。


「決着をつけてやる」


魔狼が、吠えた。


そして、呂布に向かって突進した。


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