『長の影』
異変は、突然やってきた。
鍛錬を始めてから半月が過ぎた頃のことだった。
その日、呂布たちが夜の鍛錬を終えて洞窟に戻ると、いつもと様子が違っていた。
洞窟の中が、静まり返っている。
普段なら、成体たちの鼾や寝言が聞こえるはずだった。幼体たちの寝息も、微かに聞こえるはずだった。だが、今夜は何も聞こえない。
嫌な予感がする。
呂布は、仲間たちに手振りで指示を出した。
静かに。警戒しろ。
五匹は、音を立てないように洞窟の中に入った。
月明かりが、洞窟の入り口から差し込んでいる。その光の中に、影が見えた。
成体のゴブリンたちが、整列していた。
十匹以上の成体が、洞窟の中央に並んでいる。その目が、一斉に呂布たちを見た。
「来たか」
低い声が、洞窟に響いた。
声の主は、成体たちの後ろにいた。
長だった。
群れで最も大きな体。手には鉄の剣。黄色く濁った目が、呂布を捉えていた。
「お前が、リョフとかいう幼体か」
長は、呂布を見下ろしながら言った。
「噂は聞いている。魔狼を退けた。成体に逆らった。夜ごと洞窟を抜け出して、何かをしている」
呂布は、長を見上げた。
来るべき時が、来た。
覚悟はできていた。いつか、長と対峙する時が来ることは分かっていた。だが、それは今ではないはずだった。まだ、準備が整っていない。
「黙っているな」
長は、一歩前に出た。
「俺の群れで、勝手なことをしている奴がいる。それを、俺が見逃すと思ったか」
呂布は、答えなかった。
下手なことを言えば、状況が悪化する。今は、長の出方を窺うしかない。
「お前には、二つの選択肢がある」
長は、剣を持ち上げた。
「一つ、俺に従う。今までの無礼を詫び、二度と勝手なことをしないと誓う。そうすれば、命だけは助けてやる」
長は、剣の先を呂布に向けた。
「二つ、俺に逆らう。そうすれば、お前もお前の仲間も、ここで皆殺しだ」
成体たちが、じりじりと呂布たちを囲み始めた。
逃げ道が、塞がれていく。
「どうする、リョフ」
長は、嘲笑うように言った。
「賢い選択をしろ。お前が頭を下げれば、仲間の命も助かる。下らない意地を張って、全員死ぬか。選べ」
---
呂布の背後で、仲間たちが身構えていた。
グルドが、低い声で囁いた。
「リョフ、どうする」
ピックも、緊張した声で言った。
「勝てるのか、これ」
呂布は、状況を把握していた。
成体が十匹以上。長を含めれば、十二匹。対する呂布たちは五匹。数の差は二倍以上。しかも、成体は呂布たちより遥かに体格が大きい。
正面からぶつかれば、勝ち目はない。
だが。
呂布は、長を見つめた。
頭を下げるか。
長に従い、今までの無礼を詫び、二度と逆らわないと誓うか。
そうすれば、命は助かる。仲間の命も助かる。
だが、その後はどうなる。
長の奴隷として、一生を過ごすことになる。自由を失い、尊厳を失い、惨めに生きることになる。
そんな生き方を、呂布奉先ができるか。
否。
断じて、否だ。
呂布は、前世で同じ選択を迫られたことを思い出した。
白門楼で、曹操に命乞いをした。配下にしてくれと頼んだ。生き延びるために、誇りを捨てようとした。
結果は、どうなった。
曹操は、呂布を信用しなかった。命乞いは聞き入れられず、呂布は縄で首を吊られて死んだ。
誇りを捨てても、命は助からなかった。
ならば、誇りを守って死んだ方がましだ。
呂布は、決断した。
「断る」
呂布は言った。
長の目が、細くなった。
「何だと」
「お前に従う気はない。お前に頭を下げる気もない」
呂布は、長を真っ直ぐに見据えた。
「お前は、この群れを恐怖で支配している。逆らう者は殺し、失敗した者は殺し、気に入らない者は殺す。そんな支配は、長くは続かない」
「黙れ、小僧」
長の声に、怒気が混じった。
「お前のような痩せガキに、何が分かる」
「分かる。俺にはな」
呂布は、一歩前に出た。
「俺は、かつてお前と同じことをした男を知っている。恐怖で人を支配し、力で全てを押さえつけた男だ。その男は、最後にどうなったと思う」
長は、答えなかった。
「裏切られた。最も信頼していた部下に、背中を刺された。恐怖で支配した者は、恐怖がなくなった瞬間に裏切られる。お前も、いずれそうなる」
呂布の言葉が、洞窟に響いた。
成体たちの間に、動揺が走った。呂布の言葉が、彼らの心に刺さったのかもしれない。
だが、長は動じなかった。
「面白いことを言う」
長は、剣を構えた。
「だが、言葉だけでは何も変わらない。力がなければ、正論も戯言だ」
長が、呂布に向かって歩み始めた。
「お前に、力があるか。俺を倒す力が、あるか」
呂布は、長を見上げた。
今の自分に、長を倒す力があるか。
正直、分からなかった。
長の体格は、呂布の四倍はある。手には鉄の剣を握っている。戦闘経験も、おそらく豊富だ。正面からぶつかれば、勝ち目は薄い。
だが。
呂布には、仲間がいる。
「グルド」
呂布は、振り返らずに言った。
「お前たちは、下がれ」
「何を言ってる。一緒に戦う」
「駄目だ。お前たちでは、長には勝てない。俺が、時間を稼ぐ。その間に、逃げろ」
「ふざけるな」
グルドが、怒りを込めて言った。
「お前を置いて、逃げられるか」
「俺も同じだ」
ピックが言った。
「ここで逃げたら、何のために鍛錬してきたんだ」
「俺たちは、一緒に戦うって決めたんだ」
ゴリが言った。
「リョフ、俺たちを舐めるな」
メザは何も言わなかったが、その目は決意に満ちていた。
呂布は、仲間たちを見た。
四匹とも、逃げる気はなかった。呂布と共に戦う覚悟を、固めていた。
「馬鹿な奴らだ」
呂布は、呟いた。
だが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「いいだろう。なら、俺と共に戦え」
呂布は、長に向き直った。
「聞いたか、長。俺たちは、逃げない。お前と、ここで決着をつける」
長は、呂布たちを見回した。
「五匹で、俺に勝てると思っているのか」
「思っている」
呂布は、迷いなく答えた。
「俺たちは、お前とは違う。恐怖で繋がっているんじゃない。信で繋がっている。だから、誰も逃げない。誰も裏切らない」
長の目が、わずかに揺れた。
だが、すぐに嘲笑が戻った。
「くだらん。綺麗事で、戦いに勝てるものか」
長が、剣を振り上げた。
「死ね、小僧ども」
長が、呂布に向かって突進した。
---
呂布は、長の動きを見ていた。
速い。
成体とは思えない速度だった。あの巨体が、風のように迫ってくる。剣が、月光を反射して輝いている。
だが、読める。
呂布の目は、長の動きを捉えていた。戦術眼スキルが、敵の軌道を予測している。
「散れ!」
呂布は叫んだ。
五匹が、別々の方向に跳んだ。
長の剣が、呂布たちがいた場所を薙いだ。空を切る音が、洞窟に響いた。
「メザ、指示を出せ! グルド、ピック、左右から牽制! ゴリ、俺と一緒に正面だ!」
呂布の指示が、矢継ぎ早に飛ぶ。
四匹が、指示通りに動いた。
グルドとピックが、左右から石を投げた。長は、剣で石を弾いた。だが、その一瞬、動きが止まった。
その隙に、呂布とゴリが正面から迫った。
呂布は、長の足元に向かって低く飛び込んだ。ゴリは、棒を振りかぶって長の胴を狙った。
長は、ゴリの棒を剣で受け止めた。
金属と木がぶつかる音がした。ゴリの棒が、半ばから折れた。
だが、その間に呂布は長の足元に潜り込んでいた。
呂布は、長の膝裏を蹴った。
長が、よろめいた。
「メザ!」
「右から二匹来る!」
メザの声が、警告を発した。
成体たちが、呂布たちに向かって動き始めていた。長だけでなく、他の成体たちも戦いに加わろうとしている。
まずい。
長一匹なら、何とかなるかもしれない。だが、成体十二匹を相手にしては、勝ち目がない。
「グルド、ピック、成体を抑えろ! 俺とゴリで、長を仕留める!」
「分かった!」
グルドとピックが、迫ってくる成体たちに向かって石を投げた。成体たちは、石を避けて足を止めた。
その間に、呂布は長に再び迫った。
長は、体勢を立て直していた。剣を構え、呂布を睨んでいる。
「小賢しい真似を」
長が、剣を振り下ろした。
呂布は、横に跳んで避けた。剣が地面を抉り、土が飛び散った。
ゴリが、折れた棒を投げ捨て、素手で長に飛びかかった。
長は、空いた手でゴリを殴った。
ゴリが、吹き飛んだ。壁に叩きつけられ、動かなくなった。
「ゴリ!」
ピックが叫んだ。
だが、呂布は足を止めなかった。
ゴリを心配している暇はない。今は、長を倒すことに集中しなければならない。
呂布は、長の懐に飛び込んだ。
剣の間合いの内側。ここなら、剣は当たらない。
呂布は、長の腹に拳を叩き込んだ。
長が、呻いた。だが、倒れない。呂布の拳では、この巨体に致命傷を与えられない。
長の膝が、呂布の腹を捉えた。
呂布は、吹き飛ばされた。地面を転がり、壁にぶつかって止まった。
「がっ……」
内臓を揺さぶられた。息ができない。目の前が、明滅している。
長が、呂布に向かって歩いてきた。
「終わりだ、小僧」
長が、剣を振り上げた。
呂布は、長を見上げた。
動けない。体が、言うことを聞かない。
これで、終わりか。
また、何も成し遂げられないまま死ぬのか。
---
その時だった。
洞窟の入り口から、咆哮が響いた。
獣の、咆哮だった。
長が、振り返った。
成体たちも、振り返った。
入り口に、巨大な影が立っていた。
月光を背にした、四つ足の影。灰色の毛並み。爛々と光る、黄金の目。
いや、違う。
目は、一つしかなかった。
もう一つは、潰れていた。
あの魔狼だった。
呂布たちが退けた、あの魔狼が、洞窟の入り口に立っていた。
---
**【第一章 目覚め 『長の影』 了】**
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約3,500字です。長との対決が始まり、呂布たちが窮地に追い込まれたところで、かつて退けた魔狼が現れるという展開を描きました。緊迫した状況でのクリフハンガーとなっています。
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