『嵐の前夜』
その夜から、洞窟の空気が変わった。
呂布が成体に逆らったという噂は、瞬く間に群れ全体に広まった。幼体たちは呂布を遠巻きに見つめ、ひそひそと囁き合った。成体たちは呂布を睨みつけ、いつ報復があってもおかしくない殺気を放っていた。
だが、誰も手を出してこなかった。
あの日、呂布が成体を退けた光景を、皆が見ていたからだ。痩せガキだと侮っていた幼体が、成体の一撃を躱し、石を投げて反撃した。その事実が、群れのゴブリンたちに衝撃を与えていた。
呂布は、その空気の変化を感じ取っていた。
恐れられている。
警戒されている。
だが、同時に。
興味を持たれている。
夜の狩りから戻った時、呂布は洞窟の入り口で足を止めた。
誰かが、こちらを見ている。
呂布は、視線の主を探した。
洞窟の壁際に、一匹の幼体が立っていた。グルドではない。見覚えのある顔だった。
あの日、グルドと一緒に呂布を襲った二匹のうちの一匹だ。
呂布は、警戒しながら近づいた。
「何か用か」
幼体は、呂布を見上げた。
震えていた。恐怖で、全身が小刻みに震えている。だが、逃げようとはしなかった。
「あの……リョフ、だよな」
幼体は、掠れた声で言った。
「お前に、話がある」
---
幼体の名は、ピックと言った。
グルドと同じ世代の幼体で、呂布より少し体格がいい。だが、目つきは臆病そうで、声も小さかった。
「あの時は、すまなかった」
ピックは、頭を下げた。
「グルドと一緒に、お前を襲ったこと。俺は、グルドに逆らえなくて……」
「過ぎたことだ」
呂布は言った。
「それで、話とは何だ」
ピックは、周囲を見回した。
誰も聞いていないことを確認してから、小声で言った。
「お前、本当に長を倒す気なのか」
呂布は、ピックを見つめた。
この幼体、どこまで知っている。
「誰から聞いた」
「グルドから。あいつ、お前のことを俺に話してくれたんだ。お前がどれだけ強いか。お前が何を考えているか」
呂布は、内心で舌打ちした。
グルドの奴、口が軽い。
だが、今さら否定しても仕方がない。
「ああ、本当だ。いつか、必ず長を倒す」
ピックの目が、わずかに輝いた。
「なら、俺も仲間に入れてくれ」
呂布は、眉をひそめた。
「なぜだ」
「俺も、長が憎い」
ピックは、拳を握りしめた。
「俺の兄貴は、長に殺された。狩りで失敗したって理由で、首を刎ねられた。俺は、それを見ていることしかできなかった」
ピックの声が、震えていた。
「あの時から、ずっと思ってた。いつか、長に復讐してやるって。でも、俺一人じゃ無理だ。だから、お前の力を借りたい」
呂布は、ピックを見つめた。
この幼体は、本気だ。
目の奥に、消せない怒りの炎が燃えている。兄を殺された憎しみ。それを、ずっと心の中で育ててきたのだろう。
だが、感情だけで動く者は、危険だ。
「復讐のために、命を賭けられるか」
呂布は問うた。
「長を倒すのは、容易なことではない。失敗すれば、死ぬ。それでもやるか」
ピックは、一瞬躊躇した。
だが、すぐに顔を上げた。
「やる。死んでも構わない。兄貴の仇を取れるなら」
呂布は、しばらくピックを見つめていた。
こいつは使えるか。
感情に駆られているが、覚悟はある。指示に従う素直さもありそうだ。何より、仲間が増えれば、指揮スキルの効果が上がる。
「いいだろう」
呂布は言った。
「お前も、俺たちと来い」
ピックの顔が、明るくなった。
「本当か。ありがとう、リョフ。恩に着る」
「礼はいい。その代わり、俺の指示には従え。勝手な行動は許さない」
「分かった。何でも言ってくれ」
ピックは、何度も頷いた。
呂布は、ピックに背を向けた。
「今夜から、一緒に狩りに出る。準備をしておけ」
「ああ、分かった」
ピックの足音が、遠ざかっていく。
呂布は、一人で夜空を見上げた。
仲間が、二匹になった。
グルドと、ピック。どちらも弱い幼体だ。だが、数は力だ。一匹より二匹、二匹より三匹。仲間が増えるほど、できることは増える。
前世の俺は、仲間を信じなかった。
全てを一人でやろうとした。配下は駒だと思っていた。だから、誰も俺のために命を懸けなかった。
この世界では、違うやり方をする。
仲間を集め、信で繋がり、共に這い上がる。
それが、呂布奉先の新しい戦い方だ。
---
三日後の夜。
呂布、グルド、ピックの三匹は、森の奥で狩りをしていた。
役割分担は、すでにできていた。
呂布が指揮を取り、グルドが追い込み、ピックが獲物の逃げ道を塞ぐ。三匹の連携は日に日に良くなっており、獲物を仕留める効率は格段に上がっていた。
この夜も、収穫は上々だった。
ネズミ五匹、トカゲ三匹、ウサギ一匹。三匹で分けても、十分な量だ。
「今日は大漁だな」
グルドが、満足そうに言った。
「三匹でやると、全然違うな。一匹の時は、こんなに獲れなかった」
「当然だ。狩りは、数がものを言う」
呂布は言った。
「だが、油断するな。獲物が多いということは、それだけこの森が豊かだということだ。豊かな森には、強い獣もいる」
「強い獣?」
ピックが、不安そうな顔をした。
「例えば、何だ」
「狼。熊。あるいは、もっと強い魔物かもしれない。この森の奥に、何がいるかは分からない」
呂布は、周囲を見回した。
この十日ほど、森の奥へと狩場を広げてきた。近場の獲物は狩り尽くしつつあったからだ。だが、森の奥に進むほど、危険は増す。
「今夜は、ここまでにしよう。戻るぞ」
呂布は、そう言って踵を返した。
その時だった。
風向きが、変わった。
呂布は、足を止めた。
鼻を、風上に向ける。
何かの匂いがする。
獣の匂いだ。だが、ネズミやウサギとは違う。もっと強い、もっと危険な匂い。
「リョフ、どうした」
グルドが、怪訝な顔で呂布を見た。
「静かに」
呂布は、小声で言った。
「何かが、近くにいる」
三匹は、息を殺した。
森が、静まり返った。虫の声も、風の音も、全てが消えたように静かだった。
その静寂の中で、呂布は聞いた。
足音。
重い、四つ足の足音。
草を踏み、枝を折りながら、何かが近づいてくる。
「隠れろ」
呂布は、素早く指示を出した。
三匹は、近くの茂みに身を潜めた。
息を殺し、気配を消す。隠密スキルが、呂布の存在感を薄めていく。
足音が、近づいてくる。
そして、姿を現した。
狼だった。
だが、普通の狼ではなかった。
体長は、呂布の五倍以上。肩の高さだけで、成体のゴブリンより大きい。毛並みは灰色で、月明かりを浴びて銀色に輝いている。目は黄金色で、暗闇の中で爛々と光っていた。
魔狼。
頭の中の知識が、その名を告げた。
通常の狼の上位種。高い知性と戦闘力を持つ魔物。ゴブリンの成体でも、単独で倒すのは困難とされている。
呂布は、茂みの中で息を潜めた。
今の自分たちでは、勝てない。
レベル8の呂布と、レベル4か5のグルドとピック。三匹がかりでも、あの魔狼には歯が立たないだろう。
やり過ごすしかない。
魔狼は、周囲を見回していた。
何かを探しているようだった。鼻を地面に近づけ、匂いを嗅いでいる。
呂布たちの匂いを追っているのか。
呂布は、風向きを確認した。
風は、呂布たちから魔狼に向かって吹いている。匂いは、魔狼の方へ流れている。
まずい。
魔狼が、顔を上げた。
黄金色の目が、呂布たちが隠れている茂みを見た。
見つかった。
呂布は、瞬時に判断した。
「散れ!」
呂布は叫んだ。
三匹は、別々の方向に飛び出した。
魔狼が、吠えた。
その咆哮が、森を震わせた。鳥が飛び立ち、小動物が逃げ惑う。
魔狼は、一瞬どの獲物を追うか迷ったようだった。
そして、呂布を追い始めた。
最も強い気配を放っている者を、本能が選んだのだろう。
呂布は、全力で走った。
敏捷24。この十日で鍛え上げた脚力が、呂布の体を前に運ぶ。
だが、魔狼の方が速かった。
背後から、足音が迫ってくる。振り返らなくても分かる。距離が、どんどん縮まっている。
このままでは、追いつかれる。
呂布は、周囲を見回した。
木々の間を縫うように走る。太い幹、張り出した根、低い枝。障害物を利用して、魔狼の速度を落とそうとする。
だが、魔狼は巧みに障害物を避けながら追ってくる。高い知性を持つ魔物だ。小細工は通じない。
ならば。
呂布は、決断した。
逃げ切れないなら、戦うしかない。
呂布は、大きな木の前で足を止めた。
振り返り、魔狼と対峙した。
魔狼は、呂布の前で立ち止まった。
獲物が逃げるのを止めたことに、わずかに警戒しているようだった。黄金色の目が、呂布を値踏みするように見つめている。
呂布は、足元の石を拾い上げた。
投擲スキル、Lv.2。
これが、今の呂布の最大の武器だ。
魔狼が、牙を剥いた。
低い唸り声を上げながら、じりじりと距離を詰めてくる。
呂布は、石を構えた。
狙いは、目だ。
あの巨体に、石の一撃でダメージを与えるのは難しい。だが、目を潰せれば、逃げる隙ができる。
魔狼が、飛びかかった。
呂布は、石を投げた。
石が、空を切って魔狼に向かう。
だが、魔狼は首を捻って躱した。
石は、魔狼の耳を掠めて飛んでいった。
外した。
呂布の背筋を、冷たいものが走った。
魔狼の巨体が、呂布に迫る。
大きく開いた顎。鋭い牙。そこに飲み込まれれば、一撃で終わる。
呂布は、咄嗟に横に跳んだ。
魔狼の牙が、空を切った。
だが、完全には躱しきれなかった。魔狼の前足が、呂布の体を掠めた。
激痛が走った。
呂布は、地面に転がった。
脇腹が、裂けていた。血が流れている。浅くはない傷だった。
魔狼が、呂布を見下ろした。
黄金色の目が、冷酷に光っている。
これで、終わりか。
呂布の脳裏に、白門楼の記憶がよぎった。
また、ここで死ぬのか。
何も成し遂げられないまま。
何も変えられないまま。
前世と同じように、惨めに死ぬのか。
否。
呂布は、歯を食いしばった。
まだだ。
まだ、終わらない。
呂布は、立ち上がろうとした。
その時だった。
「リョフ!」
声がした。
グルドとピックが、茂みから飛び出してきた。
「お前ら、逃げろと言っただろう!」
呂布は叫んだ。
だが、二匹は止まらなかった。
グルドが、石を投げた。ピックも、石を投げた。
二つの石が、魔狼の横腹に当たった。
大したダメージではない。だが、魔狼の注意が、一瞬だけ呂布から逸れた。
その隙に、呂布は立ち上がった。
「馬鹿野郎……」
呂布は、呻きながら言った。
「お前らまで死ぬ気か」
「お前を置いて逃げられるか」
グルドが言った。
「お前は、俺を助けてくれた。今度は、俺がお前を助ける番だ」
「俺も同じだ」
ピックが言った。
「お前についていくって決めたんだ。ここで逃げたら、何の意味もない」
呂布は、二匹を見つめた。
こいつら、本気だ。
死ぬかもしれないと分かっていて、それでも戻ってきた。
呂布のために。
呂布は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
高順。陳宮。
これが、お前たちが俺に見せたかったものか。
これが、信で繋がるということか。
魔狼が、三匹を見比べていた。
獲物が増えたことに、わずかに困惑しているようだった。だが、すぐに牙を剥いた。三匹まとめて食い殺すつもりだ。
呂布は、グルドとピックに目配せした。
「いいか、二人とも。俺の指示通りに動け」
「分かった」
「任せろ」
二匹が、頷いた。
呂布は、魔狼を見据えた。
三対一。
まだ、勝機はある。
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