『群れの掟』
目を覚ましたのは、腹を蹴られたからだった。
鈍い痛みが腹部を貫き、呂布は反射的に体を丸めた。目を開けると、見下ろしてくる影があった。
成体のゴブリンだった。
呂布の三倍ほどの体躯。筋肉質の腕。突き出た腹。黄色く濁った目が、呂布を睨みつけていた。手には粗末な棍棒を握っている。
「起きろ、痩せガキ」
成体は、低い声で唸った。
ゴブリンの言葉だった。人間の言語とは全く異なる、喉の奥から絞り出すような音の連なり。だが、呂布には理解できた。この体に宿った瞬間から、ゴブリンの言葉は自然と頭に入っていた。
「水を汲んでこい。川はあっちだ」
成体は、洞窟の入り口を指さした。
呂布は、成体を見上げた。
前世なら、こんな雑兵に命令されることなどなかった。呂布奉先に指図できる者など、天下に一人もいなかった。将軍として、諸侯として、常に命令を下す側だった。
だが、今は違う。
今の呂布は、群れの最下層だ。成体に逆らう力などない。逆らえば、殴り殺される。それがゴブリンの掟だった。
呂布は、黙って立ち上がった。
成体は、呂布の従順さに満足したのか、鼻を鳴らして背を向けた。
「日が暮れる前に戻ってこい。遅れたら、飯は抜きだ」
成体は、そう言い残して焚き火の方へ歩いていった。
呂布は、その背中を見つめた。
腹の底で、怒りが渦巻いていた。
俺は呂布奉先だ。天下無双と謳われた男だ。こんな下郎に顎で使われる筋合いはない。
だが、呂布は怒りを飲み込んだ。
今は、耐える時だ。
昨夜の狩りで、呂布は悟っていた。今の自分には力がない。力がない者が吠えても、誰も耳を貸さない。まずは力をつけなければならない。力をつけ、這い上がり、そして初めて声を上げることができる。
陳宮なら、何と言うだろう。
「呂布殿、今は時期ではありません。力を蓄えましょう」
そう言うに違いない。
呂布は、洞窟の入り口に向かって歩き出した。
---
洞窟の外は、昼の光に満ちていた。
昨夜とは全く違う景色だった。木々の葉が陽光を透かし、森全体が緑色に輝いている。鳥の声が聞こえ、虫が飛び交い、生命の気配に満ちていた。
呂布は、周囲を観察しながら歩いた。
川はすぐに見つかった。洞窟から百歩ほど離れた場所に、細い川が流れていた。澄んだ水が、岩の間を縫うように流れている。
呂布は川辺に屈み込み、水を掬って飲んだ。
冷たかった。喉を潤す水が、体の隅々まで染み渡っていくようだった。
水を飲みながら、呂布は考えていた。
水汲みを命じられた。だが、何で汲めばいい。器がない。手で汲んで持っていくには、洞窟まで遠すぎる。
呂布は、川の周囲を見回した。
大きな葉があった。呂布の胴体ほどもある、椀状に窪んだ葉。これなら、水を運べるかもしれない。
呂布は葉を千切り、水を汲んだ。
重かった。この体には、かなりの重量だった。だが、持てないほどではない。呂布は葉を抱えて立ち上がり、洞窟に向かって歩き出した。
その時だった。
「おい」
声がした。
呂布は足を止め、声のする方を見た。
ゴブリンの幼体が三匹、木の陰からこちらを見ていた。呂布と同じくらいの体格だが、呂布より肉付きがいい。餌を与えられている個体だ。群れの中で、呂布よりは上の序列にいる者たち。
「それをよこせ」
真ん中の一匹が言った。
他の二匹より一回り大きい。幼体の中では、上位の個体だろう。黄色い目が、呂布の手にした葉を見つめていた。
「水が欲しいのか」
呂布は言った。
「なら、自分で汲めばいい。川はそこだ」
真ん中の幼体の目が、細くなった。
「痩せガキが、口答えするな」
三匹が、呂布に向かって歩いてきた。
呂布は、動かなかった。
「お前、昨日まで死にかけてたくせに、急に生意気だな。誰のおかげで巣穴にいられると思ってる」
真ん中の幼体が、呂布の前に立った。呂布より頭半分ほど高い。見下ろす目には、侮蔑と苛立ちが浮かんでいた。
「群れの掟を教えてやる。弱い奴は、強い奴に従う。お前は俺より弱い。だから、お前の物は俺の物だ」
幼体が、葉を奪おうと手を伸ばした。
呂布は、一歩下がった。
「待て」
呂布は言った。
「一つ聞きたい。俺がお前より強かったら、どうなる」
幼体は、一瞬きょとんとした。それから、喉の奥で笑い始めた。
「お前が? 俺より強い?」
三匹が声を揃えて笑った。甲高い、耳障りな笑い声だった。
「見ろよ、こいつ。骨と皮だけのくせに、何を言ってる」
「頭がおかしくなったんじゃないか。飢えすぎて」
「いいから殴って奪っちまえよ。話が通じねえ」
真ん中の幼体が、拳を振り上げた。
呂布は、その動きを見ていた。
遅い。
致命的に、遅い。
前世の呂布なら、瞬きの間に三人まとめて叩き伏せていた。だが、今の呂布にはその力がない。筋力がない。体重がない。まともに殴り合えば、確実に負ける。
だが、武とは筋力だけではない。
武とは、相手の動きを読み、最小の力で最大の効果を生む技術だ。
呂布は、振り下ろされる拳を見極めた。
狙いは顔面。軌道は真っ直ぐ。力任せの、素人の一撃。
呂布は、半歩横にずれた。
拳が、呂布の頬を掠めて空を切った。
幼体は、勢い余って前につんのめった。
その瞬間、呂布は動いた。
幼体の脚に、自分の脚を引っかけた。幼体の体が、前に倒れ込む。呂布は倒れる体を押し、勢いをつけた。
幼体は、顔面から地面に突っ込んだ。
鈍い音がした。
呂布は、すぐに距離を取った。
残りの二匹が、呆然と呂布を見ていた。何が起きたのか、理解できていないようだった。
地面に倒れた幼体が、呻きながら起き上がろうとした。顔面を強打したのか、鼻から血が流れている。
「このっ……」
幼体が立ち上がり、再び呂布に向かってきた。
今度は両手を広げ、組み付こうとしている。力任せに押し倒し、上から殴るつもりだろう。
呂布は、冷静に観察した。
この体格差で組み付かれたら、確かに不利だ。だが、組み付く前に止めればいい。
呂布は、地面に落ちていた石を拾った。
昨夜、ネズミを仕留めた時と同じ大きさの石。
幼体が、呂布に飛びかかった。
呂布は、石を投げた。
狙いは、幼体の顔面。
石が、幼体の眉間に命中した。
鈍い音。幼体の動きが止まった。目が焦点を失い、膝が崩れ、その場に崩れ落ちた。
気絶していた。
残りの二匹が、悲鳴を上げた。
「う、嘘だろ……」
「こいつ、グルドを……」
二匹は、恐怖の目で呂布を見ていた。
呂布は、二匹に向き直った。
「次はお前たちだ」
呂布は言った。
声は相変わらず甲高く、耳障りだった。だが、その目だけは違った。三国の戦場で幾万の敵を睨んできた、武人の目だった。
二匹は、後ずさった。
「ま、待て……俺たちは何もしてない……」
「そうだ、グルドが勝手に……」
「知らん」
呂布は、一歩踏み出した。
「お前たちは、俺を嘲笑った。俺の物を奪おうとした。その報いは受けてもらう」
呂布が、もう一歩踏み出した。
二匹は、振り返って逃げ出した。
全力で、洞窟の方へ走っていく。途中で何度も転びながら、必死に逃げていく。
呂布は、追わなかった。
逃げる敵を追う意味はない。それより、倒れている幼体の方が問題だった。
呂布は、グルドと呼ばれた幼体を見下ろした。
気絶しているだけだ。やがて目を覚ますだろう。目を覚ませば、成体に報告するかもしれない。そうなれば、呂布は群れの掟を破った罪で制裁を受ける。
殺すか。
その考えが、一瞬頭をよぎった。
ここで殺せば、証人はいなくなる。逃げた二匹の言葉だけでは、証拠にならない。
だが、呂布は首を横に振った。
殺す必要はない。
呂布は、グルドを担ぎ上げた。重かった。この体には、かなりの重量だ。だが、持てないほどではない。
川辺まで運び、水をかけて起こした。
グルドは、目を覚ました。
最初は何が起きたか分からないようだったが、呂布の顔を見て、全てを思い出したらしい。恐怖の色が、目に浮かんだ。
「ま、待て……殺さないでくれ……」
グルドは、後ずさりながら言った。
呂布は、グルドを見下ろした。
「殺さない」
呂布は言った。
「だが、覚えておけ。俺はお前より強い。次に俺に手を出したら、その時は容赦しない」
グルドは、何度も頷いた。
「わ、分かった……もう手は出さない……」
「それから、もう一つ」
呂布は言った。
「今日のことは、誰にも言うな。言えば、どうなるか分かっているな」
グルドは、震えながら頷いた。
呂布は、グルドに背を向けた。
川辺に落ちた葉を拾い、新しい水を汲む。そして、何事もなかったように洞窟へと歩き出した。
---
洞窟に戻ると、成体が待っていた。
「遅い」
成体は、不機嫌そうに言った。
呂布は、黙って葉を差し出した。
成体は、水を受け取ると、呂布を一瞥した。
「傷がついているな」
成体は言った。
呂布の頬には、最初の一撃が掠めた時の傷があった。小さな切り傷だが、血が滲んでいる。
「転んだ」
呂布は答えた。
成体は、それ以上追及しなかった。興味がないのだ。幼体が怪我をしようが死のうが、成体にとってはどうでもいいことだった。
「明日も水を汲んでこい。それから、薪も集めろ」
成体は、そう言い残して去っていった。
呂布は、洞窟の隅に戻った。
体を横たえ、目を閉じた。
今日、初めて他のゴブリンと戦った。
たかが幼体相手の小競り合いだ。前世なら、語る価値もない些事だった。
だが、呂布は手応えを感じていた。
この体でも、戦える。
筋力はない。体格も劣る。だが、前世で培った技術は生きている。相手の動きを読み、隙を突き、最小の力で最大の効果を生む。それができれば、体格差は覆せる。
そして、もう一つ。
呂布は、グルドを殺さなかった。
前世の呂布なら、殺していただろう。敵は根絶やしにする。それが、乱世を生きる者の掟だと信じていた。
だが、今の呂布は殺さなかった。
殺す必要がなかったからだ。グルドは屈服した。脅威ではなくなった。ならば、殺す理由がない。
高順の言葉が、脳裏をよぎった。
「将軍。人は、武だけでは従いませぬ」
そうだな、高順。
俺は、ようやく理解し始めている。
恐怖で支配すれば、いずれ裏切られる。力で押さえつければ、いつか反発される。それが、前世の俺の失敗だった。
この世界では、同じ過ちを繰り返さない。
呂布は、目を開けた。
洞窟の天井を見上げながら、考えていた。
まずは、この群れの中で地位を上げる。力を蓄え、仲間を増やし、やがて群れを率いる立場になる。
そのためには、ただ強いだけではだめだ。
知恵がいる。忍耐がいる。そして、人の心を繋ぎ止める何かがいる。
陳宮が持っていたもの。高順が持っていたもの。俺が持っていなかったもの。
それを、この世界で手に入れる。
呂布は、静かに目を閉じた。
長い道のりになるだろう。
だが、呂布奉先は、歩み始めていた。
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