『月下の狩人』


月が、二つあった。


呂布は洞窟の入り口に立ち、夜空を見上げていた。


白い月と、青い月。二つの月が、見知らぬ星々の間に浮かんでいる。前世で見た空とは、まるで違う。星座の形も、月の大きさも、何もかもが異なっていた。


本当に、別の世界に来たのだ。


冷たい夜風が、緑色の肌を撫でた。呂布は身震いした。この体は寒さに弱い。前世の体なら、この程度の寒さは何でもなかった。だが、今は違う。骨と皮だけの貧弱な体は、夜風一つで凍えてしまいそうだった。


それでも、呂布は洞窟に戻らなかった。


戻ったところで、何も変わらない。群れの最下層として、餌も与えられず、隅で震えているだけだ。そんな生き方をするくらいなら、外に出て死んだ方がましだった。


呂布は、洞窟の周囲を観察した。


森だった。


鬱蒼とした木々が、洞窟を取り囲んでいる。月明かりが木々の隙間から差し込み、地面にまだらな影を落としていた。下草が茂り、倒木が転がり、獣道らしき細い道があちこちに走っている。


音が聞こえた。


虫の声。木々のざわめき。そして、遠くから聞こえる獣の遠吠え。森は夜の闇の中で、確かに生きていた。


呂布は、耳を澄ませた。


この体の耳は、大きく横に張り出している。人間の耳より遥かに大きい。そして、その分だけ、聴覚も優れているようだった。


風の音に混じって、小さな物音が聞こえる。


カサカサという、草を踏む音。小さな足音。呂布から見て、右手の茂みの奥。何かが動いている。


呂布は、音のする方に目を向けた。


この体の目は、闇の中でもある程度見える。人間の目よりも暗視に優れている。ゴブリンが夜行性の生き物だからだろう。


茂みの奥に、小さな影が見えた。


ネズミだった。


前世で見たネズミより、一回り大きい。だが、それでも呂布の拳二つ分ほどの大きさしかない。灰色の毛並みの、ただのネズミ。


呂布の腹が、激しく鳴った。


食べたい。


本能が叫んでいた。あのネズミを捕まえたい。あの肉を食べたい。この飢えた体が、獲物を求めて震えていた。


だが、呂布は動かなかった。


考えていた。


前世の呂布なら、何も考えずに飛びかかっていただろう。圧倒的な武力で、力任せに獲物を仕留めていただろう。だが、今の呂布にはその力がない。


この体で、あのネズミを捕まえられるか。


呂布は、自分の体を見下ろした。


痩せ細った腕。棒のような脚。まともに走ることすら難しいほど、衰弱している。あのネズミに飛びかかっても、おそらく逃げられる。ネズミの方が、今の呂布より素早いかもしれない。


ならば、どうする。


呂布は、周囲を見回した。


足元に、小石が転がっていた。拳ほどの大きさの、角張った石。呂布はそれを拾い上げた。ずしりとした重み。この体には少し重いが、持てないほどではない。


石を投げるか。


呂布は考えた。だが、すぐに否定した。


この体で石を投げても、威力が出ない。腕の筋力が足りない。仮に当たったとしても、ネズミを仕留めるほどの威力にはならないだろう。


では、罠か。


呂布は、茂みの周囲を観察した。


ネズミが動いている場所。その周囲の地形。木の根。倒木。そして、獣道。


獣道があった。


細い、踏み固められた道。ネズミが通った跡だろう。同じ道を何度も通っているのか、草が倒れ、土が露出していた。


呂布は、その獣道を辿った。


ネズミの巣があった。


木の根元に掘られた、小さな穴。そこがネズミの住処のようだった。ネズミは今、茂みの中で餌を探している。やがて、この巣に戻ってくるはずだ。


呂布は、巣の前に屈み込んだ。


石を構える。


そして、待った。


---


どれほどの時間が経っただろう。


月が少しずつ動き、影の形が変わっていく。夜風は相変わらず冷たく、呂布の体温を奪い続けていた。


だが、呂布は動かなかった。


じっと、巣穴の前で待ち続けた。


前世の呂布には、この忍耐はなかった。


呂布は常に先陣を切った。待つことを嫌った。敵を見れば突撃し、障害があれば力で押し通した。策を弄することを、小賢しいと蔑んでいた。


陳宮が何度も言った。


「呂布殿、待ってください。今は時期ではありません」


「呂布殿、ここは退くべきです。敵の補給が尽きるのを待ちましょう」


「呂布殿、罠を張りましょう。正面から攻めれば、被害が大きくなります」


呂布は聞かなかった。


待つことができなかった。退くことを恥と思った。罠を張るなど、武人のすることではないと考えた。


その結果が、あの最期だ。


待てなかったから、部下の不満を見逃した。退けなかったから、籠城を続けられなかった。策を用いなかったから、曹操の包囲を破れなかった。


全ては、呂布自身の愚かさが招いた結末だった。


呂布は、暗闇の中で唇を噛んだ。


陳宮。高順。


お前たちの言葉を、俺は何一つ聞かなかった。


お前たちが俺に教えようとしていたことを、俺は理解しようともしなかった。


待つこと。考えること。己の力を過信しないこと。


それが、お前たちが俺に伝えたかったことだったのか。


答えは返ってこない。


だが、呂布は悟り始めていた。


前世で足りなかったものが、何だったのか。


武ではない。武は誰にも負けなかった。


足りなかったのは、この忍耐だ。この思慮だ。力だけで全てを解決しようとする傲慢さを捨て、状況を見極め、最善の手を打つ冷静さ。


陳宮は、それを持っていた。高順は、それを実践していた。


俺だけが、持っていなかった。


俺だけが、理解していなかった。


茂みの中で、カサカサと音がした。


ネズミが動き始めた。巣に戻ろうとしている。


呂布は息を殺した。


体を低くし、石を握りしめ、巣穴の横で待ち構えた。


足音が近づいてくる。


小さな影が、獣道を辿ってくるのが見えた。灰色の毛並み。丸い耳。細い尻尾。ネズミは警戒することなく、真っ直ぐに巣穴に向かって走ってきた。


呂布は、動かなかった。


まだだ。


まだ、遠い。


今飛び出しても、逃げられる。確実に仕留められる距離まで、引きつけなければならない。


ネズミが、巣穴に近づいてくる。


三歩。


二歩。


一歩。


今だ。


呂布は、石を振り下ろした。


渾身の力を込めた一撃。狙いは、ネズミの頭。


鈍い音がした。


石がネズミの頭蓋を砕き、小さな体が地面に叩きつけられた。一瞬、手足が痙攣し、そして動かなくなった。


仕留めた。


呂布は、荒い息を吐いた。


手が震えていた。全身から力が抜け、その場に座り込みそうになった。


たかがネズミ一匹。


前世なら、見向きもしなかった獲物だ。虎や熊を素手で仕留めたこともある呂布にとって、ネズミなど獲物のうちにも入らなかった。


だが、今は違う。


今の呂布にとって、このネズミ一匹を仕留めることは、かつて万軍を相手に戦うのと同じくらいの難事だった。


呂布は、ネズミの死骸を拾い上げた。


温かかった。


まだ体温が残っている。小さな命が、つい先ほどまでここにあった。


呂布は、躊躇わなかった。


ネズミの腹に爪を立て、引き裂いた。内臓が零れ出る。生臭い匂いが鼻を突いた。


前世の呂布なら、こんなものを食べることはなかっただろう。将軍として、美食に囲まれて暮らしていた。生肉など、獣のする食事だと蔑んでいた。


だが、今の呂布に選り好みをする余裕はない。


呂布は、ネズミの肉に噛みついた。


生臭かった。血の味がした。肉は硬く、噛み切るのに苦労した。


だが、美味かった。


飢えた体に、栄養が染み渡っていくのが分かった。胃袋が喜んでいた。体の芯から、力が湧いてくるようだった。


呂布は、夢中でネズミを貪った。


骨まで噛み砕き、内臓まで飲み込んだ。毛皮以外の全てを、腹に収めた。


食べ終わると、呂布は空を見上げた。


二つの月が、変わらず空に浮かんでいた。


一匹のネズミを仕留めた。


たったそれだけのことだ。前世の呂布なら、語る価値もない些事だった。


だが、今の呂布にとっては違った。


生き延びた。


自分の力で、餌を獲り、生き延びた。


群れに頼らず、誰の助けも借りず、自分の力だけで生き延びた。


それが、どれほど大きな一歩か。


呂布は、自分の手を見つめた。


緑色の、醜い手。血と脂で汚れている。だが、この手で獲物を仕留めた。この手で、生きる糧を得た。


やれる。


この体でも、やれる。


呂布の胸に、小さな火が灯った。


消えかけていた闘志が、再び燃え始めていた。


---


呂布は、夜明けまで狩りを続けた。


ネズミをもう一匹。虫を数匹。木の実をいくつか。大した獲物ではなかったが、飢えた体を満たすには十分だった。


空が白み始める頃、呂布は洞窟に戻った。


成体のゴブリンたちは、まだ眠っていた。幼体たちも、塊になって眠っている。誰も、呂布が出て行ったことに気づいていなかった。誰も、呂布が戻ってきたことに気づいていなかった。


群れの最下層。誰からも顧みられない存在。


だが、呂布は笑った。


声にならない、小さな笑い。


今はそれでいい。


今は、誰にも気づかれなくていい。


俺は、俺の力で這い上がる。


この体で、この世界で、もう一度天下を目指す。


呂布は、洞窟の隅に身を横たえた。


目を閉じる前に、もう一度自分の手を見た。


小さな、緑色の手。


だが、この手には可能性がある。


前世で果たせなかった「何か」を、この手で掴むことができるかもしれない。


呂布は、目を閉じた。


眠りに落ちる直前、陳宮の言葉が脳裏をよぎった。


「呂布殿、人は武だけでは従いませぬ」


ああ、そうだな。


お前の言う通りだった。


俺は、ようやくそれを理解し始めている。

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