【第一部】弱者の戦略 第一章 目覚め 『冷たい闇の底で』


冷たい。


それが、最初に感じたものだった。


全身を包み込むような、骨の髄まで染み透る冷気。白門楼で浴びた冬風とは違う。もっと湿った、もっと重い、大地の底から這い上がってくるような冷たさだった。


呂布は、闇の中で意識を取り戻した。


目を開けようとする。だが、瞼が重い。鉛を載せられたように重い。体全体が、泥の中に沈んでいるかのようだ。指一本動かすことすら、途方もない労力を要した。


死んだはずだ。


その思いが、濁った意識の中を漂った。


縄が首を締めた。息ができなくなった。視界が暗転した。曹操の兵士たちが見守る中、天下無双と謳われた男は、惨めに首を吊られて死んだ。あの瞬間、確かに命が尽きたはずだ。


なのに、なぜ意識がある。


なぜ、冷たさを感じている。


呂布は、渾身の力を込めて目を開けた。


闇だった。


一寸先も見えぬ、完全な暗黒。呂布は目を凝らした。だが、何も見えない。上も下も、右も左も、全てが黒に塗りつぶされている。


これが死後の世界なのか。地獄か。それとも、仏の説く輪廻の狭間とやらか。


呂布は、体を動かそうとした。


その瞬間、違和感が全身を貫いた。


何かがおかしい。


体が、軽すぎる。三十年以上かけて鍛え上げた筋肉の重量感がない。鎧の重みもない。それどころか、体の大きさそのものが違う。手足が短い。胴が細い。まるで縒り糸のように、体全体が縮んでいた。


呂布は、自分の手を確かめようとした。


暗すぎて見えない。だが、手を動かした感触は伝わってくる。指を握る。開く。また握る。


指の数が、足りない。


五本ではない。三本。三本の短い指が、ぎこちなく動いている。しかも、感触がおかしい。自分の手を触っているはずなのに、人間の皮膚の感触ではない。もっとざらついた、硬い、鱗のような手触り。


呂布の心臓が、激しく脈打った。


何だ、これは。俺の体に、何が起きている。


その時、遠くにかすかな光が見えた。


揺らめく橙色の灯り。松明か、あるいは焚き火か。その光が、濡れた岩肌をぼんやりと照らしていた。


洞窟だ、と呂布は理解した。


自分は、洞窟の中にいる。天然の鍾乳洞か、あるいは何者かが掘った穴蔵か。いずれにせよ、地下の空間であることは間違いない。


呂布は、その光に向かって這い出そうとした。


体が、言うことを聞かなかった。


腕を突っ張っても、体を持ち上げられない。脚を動かそうとしても、まるで他人の脚のように鈍い。全身から力が抜け、骨と皮だけになったかのようだ。


飢えている。


この体は、何日も何も食べていない。


呂布は、歯を食いしばった。


動け。動け、この体。俺は呂布奉先だ。こんなところで朽ちてたまるか。


四つん這いになり、一寸ずつ、光に向かって進んだ。岩の床が、ざらついた肌を擦る。痛みがある。だが、その痛みすら、今は心地よかった。痛みを感じるということは、まだ生きているということだ。


どれほどの時間が経っただろう。


光が、少しずつ近づいてきた。橙色の灯りが、洞窟の輪郭を照らし出している。岩の壁。苔むした天井。そして――


床に転がる、いくつもの影。


呂布は、その影を見た。


小さな塊だった。自分と同じくらいの大きさの、緑色の、人型の生き物。それが、床に折り重なるようにして眠っている。五匹。十匹。いや、もっといる。数え切れぬほどの緑色の塊が、洞窟の一角を埋め尽くしていた。


呂布は、その生き物を見つめた。


見覚えがあった。


いや、見覚えがあるというのは正確ではない。見たことはないはずだ。并州の野にも、中原の戦場にも、このような生き物はいなかった。


だが、知っている。


知識として、頭の中に刻み込まれている。いつの間にか、知らない言葉と、知らない概念が、頭の中に存在していた。この世界の常識。この世界の生き物。この世界の法則。


ゴブリン。


その言葉が、自然と浮かんだ。


小型の亜人種。この世界で最も弱い魔物の一つ。知性は低く、寿命は短い。群れを作って洞窟や森に棲み、人里を襲っては食料や財貨を奪う。人間にとっては害獣であり、冒険者にとっては駆け出しの訓練相手。


一匹では狼にも劣る、最弱の魔物。


呂布は、ゆっくりと自分の手を見下ろした。


光が届く場所まで来ていた。薄暗いが、輪郭は見える。


緑色だった。


小さく、醜い、三本指の手。爪は黒く汚れ、皮膚はざらついている。人間の手ではない。


ゴブリンの手だった。


呂布は、動きを止めた。


自分の手を見つめたまま、石のように固まった。思考が、停止していた。


ゴブリン。


俺は、ゴブリンになったのか。


天下無双の呂布奉先が、最弱の魔物に生まれ変わったのか。


呂布は、両手で自分の顔を触った。


人間の顔ではなかった。鼻が尖っている。耳が大きく、横に張り出している。目は人間より大きく、闇の中でもぼんやりと見える。口には小さな牙が並んでいた。


全てが、変わっていた。


呂布奉先の体は、どこにもなかった。鍛え上げた筋肉も、戦場で刻まれた傷痕も、天下無双を支えた肉体も、全てが消え失せていた。代わりに残されたのは、緑色の、醜い、貧弱な体。


呂布は、乾いた笑いを漏らそうとした。


声にならなかった。ゴブリンの喉からは、人間のような声は出ない。ただ、引きつったような、掠れたような、奇妙な音が漏れただけだった。


天が、俺を嘲笑っているのか。


丁原を殺し、董卓を殺し、主を二度裏切った報いがこれか。陳宮の策を聞かず、高順の言葉を無視し、忠臣を死なせた報いがこれか。


天下無双の武人が、虫けら以下の魔物に堕とされる。


これほどの屈辱があるだろうか。


これほどの罰があるだろうか。


呂布は、しばらくその場に座り込んでいた。


思考が纏まらなかった。現実を受け入れられなかった。これは夢だ。悪い夢だ。目が覚めれば、全て元通りになる。そう思いたかった。


だが、夢ではなかった。


冷たい岩の感触。饐えた空気の臭い。空腹で締め付けられる胃袋の痛み。全てが生々しく、全てが現実だった。


どれほどの時間が経っただろう。


呂布は、顔を上げた。


目の前には、眠っているゴブリンの幼体たち。その向こうには、焚き火を囲む成体のゴブリンたち。洞窟の奥からは、肉の焼ける臭いが漂ってきた。


腹が、鳴った。


この体は、極限まで飢えている。あと何日も食べなければ、餓死するだろう。それほどまでに、衰弱していた。


呂布は、選択を迫られていた。


このまま、ここで朽ちるか。


それとも――


呂布は、拳を握った。


小さな、緑色の、醜い拳。力を込めても、握り拳がまともに作れない。筋力がないのだ。この痩せ細った体には、何の力も宿っていない。


だが。


呂布は、その拳を見つめた。


この体でも、俺の心は変わっていない。


呂布奉先という存在は、まだここにある。


白門楼で死に、この世界に生まれ落ちた。体は変わった。力は失われた。だが、俺という存在は、まだ消えていない。


ならば、まだ終わっていない。


呂布は、ゆっくりと立ち上がった。


脚が震えた。飢えた体は、立っているだけで精一杯だった。だが、呂布は倒れなかった。歯を食いしばり、震える脚に力を込め、二本の足で大地を踏みしめた。


洞窟の入り口が見えた。


遠くに、月明かりが差し込んでいる。外は夜だ。夜の森には獣がいる。魔物がいる。ゴブリンの幼体が単身で出歩けば、何かの餌になるだろう。


だが、ここにいても飢えて死ぬだけだ。


呂布は、決断した。


外に出る。


自分の力で、餌を獲る。


たとえこの体が最弱でも、何もしないよりはましだ。


呂布は、月明かりに向かって歩き始めた。


その背中を、眠っているゴブリンたちは誰も見ていなかった。群れの最下層。誰からも顧みられない、最も弱い個体。その小さな影が、洞窟の入り口へと消えていく。


これが、呂布奉先の新たな人生の、最初の一歩だった。


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