『最弱ゴブリンに転生した呂布奉先は天下を獲りたい ―無双の魂は異世界でも止まらない―』

@saijiiiji

【プロローグ】白門楼 『落日』


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縄が首に食い込んでいた。


呂布奉先は、処刑台の上で空を見上げていた。


冬の空だった。雲一つない、どこまでも澄み渡った青。こんな日に死ぬのかと、場違いな感想が頭をよぎる。戦場で幾度となく死線を潜り抜けてきた男が、今は両手を後ろ手に縛られ、首に縄をかけられ、惨めに処刑を待っている。


白門楼。


下邳城の南門に設けられた楼閣の名だ。つい数日前まで、呂布はこの城の主だった。徐州を支配し、数万の兵を従え、曹操とも袁術とも渡り合った。それが今は、同じ城の門前で、罪人として晒されている。


風が吹いた。


冬の乾いた風が、呂布の長い髪を揺らした。かつては戦場で靡いた黒髪も、今は土埃にまみれ、乱れ放題になっている。顔には殴られた痕があり、唇は切れて血が滲んでいた。


呂布は、なぜ自分がここにいるのかを理解していた。


部下に裏切られたのだ。


下邳城が曹操軍に包囲されて三ヶ月。兵糧は尽きかけ、援軍の望みも絶たれていた。呂布は何度も出撃を主張したが、軍師の陳宮に止められた。敵の包囲を正面から破るのは無謀だ、と。


だが、呂布には籠城を続ける忍耐がなかった。


陳宮の諫言は耳に入らなかった。高順の忠告も聞き流した。侯成が軍馬を失った時は、激昂して鞭打ちの刑に処した。


それが、間違いだった。


侯成は同僚の宋憲、魏続と共謀し、呂布が酒に酔って眠った隙に城門を開いた。曹操軍は抵抗らしい抵抗も受けずに城内に突入し、呂布は寝所で取り押さえられた。


天下無双と謳われた男の最期が、これだ。


処刑台の下には、曹操軍の兵士たちが整列していた。数百人はいる。その視線が、呂布に突き刺さっていた。憎悪。恐怖。嘲笑。同情。様々な感情が入り混じった視線。


呂布は、その視線から目を逸らさなかった。


逸らしてたまるか。俺は呂布奉先だ。たとえ縄で縛られようとも、卑しい者どもに背を向けたりはしない。


呂布は処刑台の下を睨んだ。


そこに、一人の男が立っていた。


曹操孟徳。


乱世の奸雄と呼ばれる男は、腕を組み、無表情で呂布を見上げていた。黒い、深淵のような瞳。何を考えているのか読み取れない。ただ、全てを見透かすような、底知れぬ眼光だけがそこにあった。


呂布は、口を開いた。


「曹操。俺を配下にしろ」


声が出た。嗄れた、低い声だった。


「俺とお前が組めば、天下など容易いぞ」


我ながら、往生際が悪いと思った。だが、止められなかった。死にたくない。まだ死にたくない。何も成し遂げていない。天下を獲るどころか、拠って立つ土地すら失った。このまま死んでたまるか。


曹操は、黙って呂布の言葉を聞いていた。


その時だった。


「曹公」


横から、別の声が割り込んだ。


劉備玄徳。大きな耳が特徴的な、穏やかな顔立ちの男。かつて呂布を客将として迎え入れ、その恩を仇で返された男が、曹操の傍らに立っていた。


「お忘れですか」


劉備は、静かに言った。


「この男は、丁原を殺しました」


呂布の心臓が、跳ねた。


丁原。呂布の最初の主君。我が子のように可愛がってくれた恩人。その首を、呂布は董卓に寝返るために刎ねた。


「この男は、董卓を殺しました」


二人目の主君の名が続く。呂布を義理の息子として迎え入れた男。その胴を、呂布は女のために貫いた。


「主を二度殺した男です」


その言葉が、呂布の胸に突き刺さった。


反論しようとした。だが、何も言葉が出てこなかった。劉備の言葉は、一つとして間違っていなかったからだ。


曹操が、小さく頷いた。


「呂布。お前の武は天下一だ。それは認めよう」


呂布の心が、わずかに揺れた。


「だが、お前の『心』は、信用できぬ」


その言葉が、呂布の胸を貫いた。


「丁原はお前を我が子のように可愛がった。それをお前は裏切った。董卓はお前を義理の息子として迎えた。それもお前は裏切った。お前が俺の配下になったとして、何を信じればいい?」


呂布は、言葉を失った。


反論できなかった。曹操の言葉は、一つとして間違っていなかった。


「お前は確かに強い。だが、強さだけでは天下は獲れぬ。人の上に立つ者には、信がなければならぬ。お前には、その信がない」


曹操は正しかった。


呂布の配下たちは、呂布を恐れていた。呂布の武を恐れ、呂布の怒りを恐れ、逆らえばどうなるかを恐れていた。だからこそ、最後には裏切った。


信じて従う者は、一人もいなかった。


いや。


二人だけ、いた。


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陳宮と高順。


この二人だけは、最後まで呂布を見捨てなかった。


陳宮公台。呂布の軍師。曹操の下を離れ、呂布に天下を獲らせるために全てを賭けた男。何度諫言を退けられても、何度策を無視されても、呂布の傍を離れなかった。


「呂布殿、敵の補給線を断つべきです」


「呂布殿、ここは籠城して時を待つべきです」


「呂布殿、諸将の心を繋ぎ止めねば、内から崩れます」


陳宮は何度も進言した。だが、呂布は聞かなかった。


「うるさい。俺の武があれば、そんな小細工は要らぬ」


陳宮の顔に浮かんだ表情を、呂布は見ようともしなかった。


高順。呂布の麾下で最強の将。陥陣営と呼ばれた精鋭部隊を率い、攻めれば必ず陣を落とす猛将。その武勇は呂布に次ぐと言われながら、決して驕ることなく、黙々と呂布に仕え続けた。


高順は寡黙な男だった。


陳宮のように言葉を尽くして諫言することはなかった。だが、その目は常に呂布を見ていた。呂布が道を誤るたびに、静かな目で見つめていた。


ある夜、高順は珍しく口を開いた。


「将軍。人は、武だけでは従いませぬ」


呂布は鼻で笑った。


「ならば何で従わせる。金か。地位か」


「信、でございます」


高順は静かに言った。


「将軍を信じ、将軍のために死ねると思わせること。それが、真に人を従わせる力かと」


呂布は、その言葉を聞き流した。


信だと。そんな曖昧なもので、人が動くものか。人を動かすのは力だ。恐怖だ。俺より強い者はいない。だから、皆が俺に従う。それで十分ではないか。


高順は、それ以上何も言わなかった。


ただ、静かな目で呂布を見つめていた。


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陳宮と高順は、呂布より先に処刑された。


曹操は二人を惜しんだ。特に陳宮には、自ら説得を試みた。


「公台。お前ほどの知恵者を殺すのは惜しい。俺の下に来ぬか。お前の才を、存分に振るわせてやろう」


陳宮は、首を横に振った。


「曹公の御厚意、感謝いたします。されど、私は呂布殿を主と定めた身。主と共に死ぬのが、臣下の道でございましょう」


曹操は眉をひそめた。


「呂布のために死ぬと言うのか。お前の策を何度も退け、お前の言葉を聞こうともしなかった、あの呂布のために」


陳宮は、わずかに微笑んだ。


寂しげな、諦めを含んだ微笑みだった。


「主を選んだのは、私自身でございます。その選択の責は、私が負うべきもの。呂布殿の不明は、すなわち私の不明。私は私の愚かさと共に、死にまする」


曹操は、それ以上何も言わなかった。


高順にも、曹操は降伏を勧めた。


「高順。お前の武勇は天下に知られている。陥陣営の名は、俺の陣営でも轟いておる。俺に仕えぬか」


高順は、一言も発しなかった。


ただ、静かに首を横に振った。


曹操は、その沈黙を受け入れた。


「惜しい男たちだ」


曹操は呟いた。


処刑の直前、陳宮は呂布を見た。


その目に浮かんでいたのは、恨みではなかった。怒りでもなかった。


諦めだった。


この男には、何を言っても無駄だった。どれほど策を献じても、どれほど言葉を尽くしても、届かなかった。それでも最後まで傍にいたのは、一度主と定めた者を見捨てられなかったからだ。


だが、報われることはなかった。


陳宮の目は、そう語っていた。


高順もまた、呂布を見た。


寡黙な将の目には、何の感情も浮かんでいなかった。


ただ、静かだった。


全てを受け入れた者の、静けさだった。


二人は、呂布に何も言わなかった。


恨み言も、未練も、最後の言葉も、何もなかった。


ただ、静かに首を差し出し、刑を受けた。


呂布は、その最期を見ていた。


何も、感じなかった。


陳宮が死のうが、高順が死のうが、呂布の心は動かなかった。自分が生き延びることだけを考えていた。曹操を説得し、命を繋ぐことだけを考えていた。


今になって、ようやく分かる。


あの二人は、呂布のために死んだのではない。


呂布という愚かな主君を選んだ、己の不明を恥じて死んだのだ。


---


曹操が、処刑人に向かって頷いた。


「執行せよ」


呂布は最後の抵抗を試みた。縄を引きちぎろうとした。だが、何日も食事を与えられていない体には、力が残っていなかった。


処刑人が、踏み台を蹴った。


呂布の体が、宙に浮いた。


首に縄が食い込み、息ができなくなった。視界が暗くなり始めた。


最後に見えたのは、処刑場の隅に繋がれた赤兎馬の姿だった。


紅い毛並みの名馬が、じっとこちらを見つめていた。


陳宮も、高順も、もういない。


呂布のために諫言を続けた軍師も、呂布のために剣を振るい続けた猛将も、先に逝ってしまった。残されたのは、言葉を話せぬ馬だけだった。


あの馬は、一度も俺を裏切らなかった。


俺が誰を殺そうと、俺が何をしようと、赤兎馬だけは俺の傍にいてくれた。陳宮の策を退けた時も、高順の言葉を無視した時も、赤兎馬は何も言わず、ただ俺を乗せて走った。


人ではなく、馬だけが、俺に最後まで仕えてくれた。


いや、違う。


陳宮も、高順も、最後まで仕えてくれたではないか。


俺が聞かなかっただけだ。俺が見なかっただけだ。二人は最後まで傍にいてくれた。俺のために策を練り、俺のために剣を振るい、俺のために死んでくれた。


なのに俺は、その献身に気づきもしなかった。


視界が、暗転していく。


俺に足りなかったものは、何だ。


武ではない。武は誰にも負けなかった。


兵でもない。兵は幾万といた。


足りなかったのは、もっと別の何かだ。


人の心を見る目。傍にいる者の声を聞く耳。そして、己の過ちを認める心。


それを、俺は持っていなかった。


持とうとも、しなかった。


陳宮。高順。


お前たちは、俺に何を伝えたかったのだ。


俺は、何を聞くべきだったのだ。


答えは、もう返ってこない。


意識が、闇に沈んでいく。


最後に浮かんだのは、一つの問いだった。


もし、やり直せるなら。


俺は、何を変えられるだろうか。


---


呂布奉先は、死んだ。


建安三年、冬。


享年、四十一。


天下無双と謳われた男は、白門楼の縄の下で、その生涯を終えた。


だが。


これは、終わりではなかった。

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