第9話 『未設定』
南ノ町の西側から大橋を使い、大河を渡ってハルタが〈
トタン屋根しか見当たらない廃れたスラム街に朝陽が差している。
街には川から引いてきた水路が張り巡らされていた。ハルタは水路に沿って、獣臭さに満ちた舗装されていない路地を歩いた。
車椅子はフォソーラにおじゃんにされたので、浜に置いてきた。
人間はほとんど出入りしない場所だ。
しばらく徘徊していると、街外れに廃パブを見つけた。窓ガラスが割れ、屋根が穴だらけだ。
窓から中が見えた。カウンター席に人影が見える。
いつ頃まで営業していたものだろうかと想像しながら、片方だけ開いている両開きの扉から中へ入った。
横長の広々としたフロア。かつては丸テーブルをこの街の住人たちが囲んでいたのだろうか。
テーブルや椅子が見当たらない。スラム街の連中が持っていってしまったのだろうか。
これほどの大きさだ、当時は繁盛していたに違いない、とハルタは店内を軽く見渡した。カウンター席に、男の背中を見つけた。
「店はやってない」
振り向きもせず、男は言った。
声を聞いて、ハルタはすぐにハーレーだと気付いた。ライウィスキーの瓶をらっぱ飲みしている。声が疲れている。何故だか背中が小さく見えた。
一歩足を進めたら、ぎいい、と床が音を出した。
「聞こえなかったか。さっさと出て行け」
カウンターに置いてあった茜色の楯を気だるそうに取り、振り返ったハーレーは目を丸くした。
「ハルタ……」
ハルタは髭面だった。もう三カ月近く剃っていない。
よく俺だと分かったもんだ。流石はリーダー。
口には出さなかった。無言のまま、ハルタは真顔で見つめた。
一方でハーレーも髭面だった。薄汚れた金色の毛がびっしりと、顎や口元、頬を覆っている。髪もハルタと同じで伸びっぱなし。ぼさぼさだった。
「何故ここへ……お前、右足はどうした。なんで立ってる」
湯葉丸曰く、ハーレーは一度、ハルタの入院中に病院を訪れている。ハルタは眠っていたので会っていない。
それが再開を喜ぶ者の顔でないことはすぐに分かった。ハーレーは状況を理解したように、
「……会ったのか、フォソーラに」
と神妙な面持ちで言った。
鼻筋の美しさの目立つその顔は、正面から見ても分かるほどだった。完璧に整っている。顎のラインの美しさが、今は髭で隠れている。
「どうして何も言わない?」
不気味だった。だが身構えることも許されないような空気に、ハーレーはハルタの言葉を待つことしかできない。
店内は薄暗い。ガラスのない窓から朝陽が差し込んではいる。
埃とカビしかないようなこの場所で、この男は一体何をしていたのだろうか。ハルタはそれが少し気になっていた。ハーレーらしくない。
酒が飲めるわけでもない。酒瓶は、ハーレーの背後にある一本のみ。カウンター奥に見える棚は空。床に散らばるガラス瓶の破片。
今はそんなことはどうでもいい、とハルタは思考を中断する。
「イカルガを殺したな?」
室内を見渡しながらハルタはそう言って、遅れた頃に視線をハーレーへ合わせた。
ハーレーの口角が、片側だけぴくっと痙攣した。直にもう片方も上がって、口元が笑う。頬、目つきと順に崩れ、神妙だった表情が満面の笑みに変わっていく。
ハーレーが笑い声を上げた。ハルタから一切目を逸らさずに、大口を開いて笑った。
天井を見上げながら笑った。
笑いつかれたように徐々に声が落ちていく。視線を戻し、
「だから?」
と挑発するように言った。
「殺しにきたのか、俺を。この俺を。お前如きが」
ハルタの表情は乱れない。
何をしようがイカルガは戻ってこない。だがせめて、彼女への弔いとしてハーレーを殺そう。
ただハーレーの様子がおかしい。まるで強がっているように見えた。
ハルタには約二年間の思い出があった。ハーレーには何度も助けられてきた。それが目を曇らせているのかもしれない。
ハルタの頭上に風圧が押し寄せた。
「思い上がりも甚だしい。何が、イカルガを殺したな、だ」
口調を真似るように言った傍から、醜悪だったハーレーの表情が歪な状態のまま止まる。
ハーレーは目を疑った。ハルタの体が微動だにしていない。直立のままだ。風圧が全く効いていない。
埃が舞った。風圧に耐えきれず床がめりめりと音を立てている。一部が割れた。
ハーレーは苛立ちを浮かべながら、「〈
折り鶴のような姿をした風が飛んでいく。
ハルタはコバエでも払うかのように右手でそれを振り払った。鶴が消し飛ぶ。
ハーレーは愕然とした。徐々に苛立ちを浮かべると、がむしゃらに楯蓋を振りはじめた。数回連続で折り鶴の風を飛ばすが、ハルタは手で払いすべて消し飛ばした。
触れればヘルデの皮膚すら切り裂くほどの風だ。ハーレーには目の前で起きていることが理解できなかった。
「どうなってる……」
一カ月前まで荷物持ちをしていた男の振る舞いとは思えなかった。この短期間で、ハルタの身に何が起きたのか。
「どいつもこいつも」
とハーレーは楯蓋の曲面を突き出した。意固地になっていた。
頭上から微かな風を感じたハルタは、風圧が落ちて来る前に早歩きでハーレーへ距離を詰めた。
早歩きというものは、歩幅に対して動きがやや速く見えるから、不自然に映るものだ。人に向けるとそれなりの威圧感と切迫感を与える。
悠長に、カウンター席に座り込んでいる場合ではなかった。ハーレーにしてみれば、一切目線を逸らさない無表情が、急に目の前に現れたような感覚だった。
ハルタは躊躇なく、ハーレーを殴った。
豪快に飛んだハーレーは、宙を舞って店内の左の壁に叩きつけられた。ずり落ちる。
ハーレーが座っていた席に腰掛け、ハルタは酒瓶を一口飲んだ。ズボンの右の裾から何かぼとっと落ちた。足だった。右膝から下が取れて、落ちた。ズボンから血が垂れている。
「殺せよ……」
壁を背に座り込み、項垂れるハーレーは力ない声で言った。
いらっとして、ハルタは酒瓶を投げた。ハーレーの真上へ。
また右足が生える。椅子からおりたハルタは、右足から血を滴らせながらハーレーへ近づいていった。
胸倉を掴み、軽くぐっと持ち上げる。
「人殺しがぁあ──!」
喉が切れそうな勢いで怒鳴りつけた。
俯いていたハーレーが顔を上げた。彼は今にも泣き出しそうな顔をしていた。強張った表情に、揺れ動く瞳。何故だか罪悪感に苛まれた男の顔が、目の前にあった。
ハルタは戸惑う。
何故そんな顔をしている? そんな顔ができる?
意味が分からない。
ハーレーは逃げるように視線を逸らすと、もう一度ハルタへ目を合わせてはまた落とし、と何度かそれを繰り返した。何度目かで歯を食いしばり、急にぐっと見開いた目を向けた。
「しょうがないじゃないか!」
泣き叫ぶように言った。
「イカルガは俺ではなく、お前を選んだ!」
ハルタは目を丸くした。彼のそんな声を聞いたのは始めてだった。いつもクールで、取り乱した姿など見たことがない。
「何を、言ってんだ……」
視点が合っていない。ハルタの動揺に震えた視線は、何もない、くすんだ白い店内の壁を見つめていた。
白けたのだ。
腕から力が抜けた。襟を離した。
ハーレーが壁にへたり込んだ。
「イカルガが好きだった」
私はイカルガが大嫌いだった。あいつは何でも持っていた。私にないものを何でも──。フォソーラがそう言っていたことを思い出した。
私にないもの──ハルタは彼女が言ったその言葉の意味が分からなかった。
だがそれは、イカルガがハーレーを持っている、という意味だったのではないか。フォソーラが欲しかったのは、ハーレーの心だ。イカルガはそれを持っていた。何故ならハーレーは……。
「彼女を愛してた。だが選ばれたのはお前だ……これ以上俺にどうしろと言うんだ! 俺はパーティーの……〈
みっともない。なんて、みっともないんだ。これがファンクラブまである男のセリフか。女に困るような人生でもなかったろうに。
これまで女に
一番持っている奴が無い物ねだりをしている。
どの角度から見ても絵になる目鼻立ちのいい顔が、涙でぐちょぐちょに崩れている。それすらも絵になるような気がして、ハルタは思わず、気持ちの悪い虫を見るような目で見下ろした。
「それで、なんで殺せんだよ」
「死なせるつもりなんてなかった! フォソーラが死んだとお前らに思い込ませて、それで終わりだった。終わるはずだったんだ。熱線が天井に当たるなんて……」
興奮していたハーレーの口調が落ちてくる。「思わなかったんだ……」と項垂れるような声が、店内に微かに響いた。
「こんなことになるなんて」
よく見るとハーレーの頬がこけていることに、ハルタは気づいた。
だからこんな誰もいない、何もない廃パブに籠っていたのか。人に会いたくないから。
ここ数カ月の自分の状態をハーレーに重ねた。
「巷でお前の高感度が高いのは、お前が何かアピールすることに優れているからだ」
だがすぐに受け入れたくもなかった。ハルタは淡々と語り出す。
「お前は自分を表現するのが上手い。アピールの下手な奴は反省などすべきじゃない……お前を見ていてつくづくそう思う。いくら反省したところで、それが伝わらなければ意味がない。周囲は変わらず、自分への評価は一向に地に落ちたままだ。だがお前は違う。お前は反省をアピールすることができる。周りはそんなお前を受け入れる。お前を誠実な奴だと考える。受け止める」
「違うんだ、ハル。俺は……」
ハーレーが赤く腫れた目で見上げた。
「その震えた声もアピールポイントの一つだ……何が違う? 何も違わない。お前はアピールが上手い。そう言ってるだけじゃないか」
「お前だって同じだろ? イカルガが好きだったろ? だったら」
「過去形で話すな。簡単に謝ることなんてできないはずだ。言葉が見つからず、何を言えばいいのか分からなくなるはずだ。でもお前はすぐに言葉を見つける。自分の罪悪感すら意図も簡単に言い表してみせる。流石だよ、リーダー。だからリーダーなんだろうな。そういうリーダーの特技に、俺たちはこれまで依存してきた。そういう面もある。感謝してるし、腹が立ってもいる。あんたのことも、自分のことも」
「自殺するなんて思わなかったんだ」
「だろうな」
「へ?……」
ハーレーは意表を突かれたような顔をした。
「あんたは悪人じゃない。それはよく分かってる。あんたの罪悪感だって、俺は信じてやれる」
ハルタとイカルガが〈
二人でなら構わない──という条件つきでハーレーは二人を迎えた。
欲しいのは当時頭角を現し始めていたイカルガであったはずだ。だがハーレーはハルタを気遣い、イカルガに対してもその条件を出した。
加入後、ハーレーはハルタに剣の稽古をつけた。なんの技能も習得していないハルタには、得意とするものがなかった。
魔力も扱えない。
フォソーラのようにクラフトマンとしての素養があるわけでもない。ビョークのように魔術に精通しているわけでもない。
蓋ノ人に生まれながら、風を操ることもできない。
ヘルデの相手は無理だろう。だがせめてヘルデルタくらいは相手にできないと話にならない。そう考えたハーレーは、ハルタに半曲剣──サーベルを与えた。
ハルタの身軽さが活きるスタイルだ。勢いづいて相手との距離に詰まった際は、左手の鎧通しで対処すればいい。すべてハーレーのアイデアだった。癒しの矢も含めて。
「本当に申し訳ないと思った時、人は言葉を失うもんだろ」
ハルタの脳裏にはイカルガの姿が浮かんでいた。
「俺はそう思う。仮に声を出して謝っても、周囲はそれを認めないだろう……信じないし、受け入れないだろう──そんなことを思ってしまって、また言葉が出なくなる。そのまま時間が経ち、そのうちに自分が謝ろうともしない、ただの本当のクズに成り下がってしまったような気がして……」
「何が言いたい?」
「中にはイカルガのように黙って自殺する人間だっている。それを平気な顔して笑えるあんたじゃない。別にあんたがそんな人間だなんて俺は思ってないよ。ただ、あんたがもっと昔みたいに、リーダーの形なんかに縛られない、かっこいい男であってくれたなら……」
何か混み上げてくるものがあった。
「俺が……」
声が震えを帯びていく。
「俺があんたの重荷や、不満や、イカルガへの想いに気付いていたなら、イカルガは今頃……」
泣きながら言った。みっともないくらいに。
その先の言葉が出てこなかった。ぐずり泣く声。
ハルタは、肩を揺らして泣きじゃくった。
みっともない。
止めようとしても止まらなかった。
つられてハーレーも泣き出した。二人して泣きじゃくった。
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