第7話 『腐敗臭』


 酷い頭痛で目が覚めた。痛みの原因について思い出そうとするが、その必要はなかった。

 ハルタは、丸テーブルの一角に右の頬を押し付けて寝そべっていた。顔を上げると口と頬、こめかみについた涎が糸を引く。手の甲で拭いながら、〈高級な人々ユーベルメンシュ〉の一階フロアを見渡した。

 路地側の窓ガラスから差し込んだ陽光が、フロアに日だまりを作っている。

 毛量の多い寝ぐせだらけの髪。口元を若干隠すほどに生えた髭は頬を隠し、顎の輪郭が分からないくらいに伸びていた。


「朝か……」


 昨夜の記憶がない。視界が揺れていた。

 テーブルの上に涎の溜まりができている。喉の奥から何かこみ上げた。ハルタは吐いた。

 テーブルの上に吐き切った。ゲボが服にかからないよう急いで車椅子を後ろに下げた。片足がないことを忘れていた。立ち上がろうとしてバランスを崩し、車椅子から落ちて床に倒れた。


「おいあんた、勘弁してくれ。昨日から何回吐くんだ」


 物音に気付いてやってきた店主がハルタのゲロを掃除した。


「もう朝だ、頼むから帰ってくれ」


「服、あるか?」


「はあ?」


「ゲロ臭い」


「あるわけねぇだろ。ここをどこだと思ってんだ」


 テーブルの上のゲロを掃除するのに、店主が新しく水を汲んできたところだった。


「そのバケツの水、頭からかけてくれ」


「……なに言ってんだ?」


「頭からかけてくれ。酔いを冷ましたい」


 呆れたようにため息をつくと、店主は言う通りにした。ハルタは車椅子ごと水を被り、びしょ濡れになると何も言わず車輪を動かし、席を離れた。

 やれやれ、と店主はその背中を見送る。

 玄関扉の傍にある掲示板に目がいって、車椅子を止める。ハルタは依頼書を見上げた。

 ダックリバー生態研究所からの依頼に、〈ヘルデの生け捕り〉、〈ヘルデルタの捕獲〉という文字が見えた。生け捕りと捕獲の違いが分からなかったが、ヘルデを倒すことができた今なら、諦めていたどんな依頼にも挑戦できそうな気がしていた。片足があったらの話だが。

 数年前に地下墓地へ下りて以来、帰ってきていない息子の捜索。数日前に脱走した大型犬の捜索。安置所から消えた遺体の情報提供求む。パーティーメンバー募集の張り紙。地下墓地屋台の護衛求む──。

 白目を剥きそうなほどの虚ろな目で、それら張り紙を見送り、ハルタはパブを後にした。


 路地へ出るとあちこちに水溜まりが見えた。昨日は雨が降ったらしいが、そんなことすらハルタの記憶にはなかった。

 液体の溜まりを見ると、ドロドロになってしまったイカルガを思い出す。

 目を背け、ハルタはパブを離れた。


 管理人に治安維持衛生局の職員、人間愛護保管協会の職員、特殊清掃業者、葬儀屋など、様々な顔があのモーテルの一室をしばらく出入りした。関係性が深いこともあり、第一発見者であるハルタは立ち会うしかなかった。

 モーテルの前には野次馬も集まった。どこからか熱線魔ねっせんまが首を吊ったという情報が漏れ広まったのだ。

 記事にしたいと雑誌記者もやってきた。しばらく何も言わずに睨みつけていると、「たかが潜りだろ、女一人死んだくらいで」と暴言を吐き捨てて去っていった。ハルタは記者の背中に殺意を向けたが、すぐに片足がないことに気付いた。

 これじゃ人も殺せない……。

 沈鬱になるしかなかった。

 遺体が見つかった翌日には、田舎からイカルガの両親が出てきていた。以降は湯葉丸にすべて任せた。イカルガの両親には会わなかった。

 遺書には、フォソーラを殺してしまったことに対する罪悪感が記されていた。ハルタは未だに受け入れられていない。

 あの床に広がっていたスライムみたいなものが、イカルガであるはずがない。


 慣れたもので、半月もすればモーテルの短い階段を上るくらい、片足あれば十分になっていた。

 部屋の扉の前に片足で立つと、ハルタはジャケットの内ポケットから鍵を取り出す。

 傍の階段から足音がして、鍵を握る手が止まった。誰か上がってくる。ハルタはじっと待った。

 知らない男だった。目が合うなり男は少しびっくりして、虚ろだった目がぴくっと見開いた。ハルタが会釈すると向こうも会釈した。

 ハルタは扉側に少し寄って道を譲った。


「ここ、首吊ったでしょ、こないだ。前の奴が」


 男がにやにやしながら話しかけてきた。

 イカルガの死を馬鹿にしたわけではないだろう。だが人の死が面白いらしい。

 お前よくそんな部屋住めるな──そう言われたような気がした。


「だから?」


 ハルタは据わった目で睨みつけた。二年の潜り生活で身に着けた、人を黙らせるための目つきである。

 男の顔からすっと表情が消える。男はそそくさと隣の部屋へ男は消えていった。

 くだらない。

 目だけとろけたような顔が、鍵を開けて自室へと入っていった。かつてイカルガが住んでいたモーテルの角部屋である。


 車椅子での生活が始まったこと、イカルガを失った精神的ショック──彼女の惨たらしい姿を見てしまったことが重なり、ハルタはしばらくアパートに籠った。


 潜りの姿を見ると、人任せだった過去の自分やイカルガを思い出す。それが嫌で、段々外出が億劫になっていった。

 遺体発見から二週間が過ぎた頃、ハルタはアパートを引き払った。そして自身の傷を抉るように、清掃の完了と共にこのモーテルへ引っ越してきた。

 住み始めてから一カ月が経とうとしている。部屋はワンフロアと狭いが、風呂とトイレ付きでハルタには十分だった。

 飯の調達以外では外へ出る必要がないから髭を剃らなくなった。髪も伸びっぱなし。肌は青白くなっていく。

蒼炎の薔薇ブルー・ローズ〉はイカルガがいたので羽振りが良かった。彼女に金がなかったはずはない。

 こんな汚い木賃宿に、イカルガが住み続けていた理由が知りたかった。近頃ハルタはそればかり考えている。

 遺体の発見が遅れてしまった理由も知りたかった。

 ハルタがイカルガの遺体を発見したのは、死亡推定日から一二日後のことだった。あれほど汚物が広がり、臭いが充満していたのだから、部屋の外に臭気が漏れ出ていていいはずだ。住人は気づいていただろうに。

 そう思うのだが、ハルタは発見当時の記憶が曖昧だった。

 あの日、扉の前に立った際、臭いがあったかどうかを思い出せない。精神的ショックで記憶障害が起きているのかかもしれない。病院へは行っていない。

 もしくは地下墓地に潜り過ぎたせいだろうか。嗅覚が鈍感になっているのかもしれない。湿気は地下墓地の方が多い。

 気付いていたなら何故通報してくれなかったのか。

 だがそんな単純なことが、このモーテルでは難しかったことに、ハルタは住み始めてすぐに気が付いた。

 住人全員が臭いに気づいていながら、面倒くさいので無視していたのだ。

 あくまで可能性の話だ。ハルタは住人を疑うようになっていた。

 このモーテルの住人は他人に無関心だ。隣人が多少騒いでも、臭いのするゴミを放置しても注意などしない。ときどき路地を挟んだ向かいの住宅からクレームを言いに来る住人がいるが、管理人が対応するだけで大事になったことはない。モーテルの住人は関わろうとしない。住人同士の会話は基本的にない。

 今さっき隣人が話しかけてきた時だって、何より驚いたのはハルタの方だった。

 住み始めたばかりの頃、話を聞こうと何度か隣の部屋をノックしたのだが、反応すらなかった。中にいたはずだ。常に気配はあった。

 あんな陰気な面をした奴だったとは……。

 そのような者がすぐ隣にいたかと思うと、ハルタは背筋がぞっとした。繁華街のごみ箱で見かけるネズミみたいな奴だった。

 一方で、今のハルタも同じくらい陰気な面をしていた。本人に自覚はない。心が病むと人相も変わる。

 イカルガはなんて場所に住んでたんだ。

 モーテルの住人が持つそういった性質自体に不満はなかった。ハルタも人好きのしない性格だから、無駄にお喋りでは対応に困る。無口なのはかえって良かった。


 部屋の路地側に窓があり、ハルタはその前に机と椅子を置いていた。

 席につくと傍の鞄から一冊の分厚い本を取り出した。表紙から背表紙まで真っ黒な本だ。買った当初は、すべてのページが白紙だった。

 開くと中は既にその全体の半分以上が文字で埋まっていた。

 ペンを取り、本の続きから書き込み始める。近頃、ハルタは〈魔術書ブループリント〉の製作に夢中になっていた。


「──首吊りだって」


 しばらく机に向かっていると、外から声が聞こえた。

 舌打ちし、ハルタは机へ前のめりになって、カーテンの隙間から外を覗いた。夕焼けが眩しい。

 路地を挟んだ向かいの家に、オークとトロルの親子が住んでいる。オークの夫に、トロルの妻。子供が二人──兄と妹の四人家族だ。

 夫はまだ帰ってきていないようだ。

 トロルの見た目は魔物に似ている。肌は青みがかった灰色で、潰れた豚のような顔をしている。成人の平均身長が一八〇センチを超える。高い者で三メートル。子供の場合でも一六〇はあった。

 オークの肌は白い。それ以外はトロルと同じ見た目をしている。種族同士では明確な違いがあるらしいが、ハルタには全員同じに見えた。


「この角部屋だって」


 トロルがこちらを見上げて言った。気づかれてはいない。オークがモーテルを見上げて確認している。


「目の前じゃない」


「そうなのよ」


「嫌ねぇ」


「気味が悪いわ。もう誰か住んでるみたいなの」


「そういう人たちが借りやすい場所だものね」


 向かいの奥さん──トロルが、近所の主婦のオークと世間話をしている。その後ろの敷地内で、子供たちがきゃっきゃ言いながら遊んでいた。

 ハルタはカーテンから離れた。見ていても仕方がない。

 そのうちに会話が止んだ。がちゃっ、ばたん──。家の扉の閉まる音がした。母親トロルが家の中へ戻ったようだ。路地をオークの足の擦る音が遠ざかっていく。子供はまだ騒いでいる。

 ハルタはまた舌打ちした。

 扉を閉める音さえ鬱陶しかった。防音環境は無論、経年劣化で建付けが悪く、外の声がモーテルに振動して響いた。閑静な住宅街ということもあってか、余計に響くように思えた。

魔術書ブループリント〉を仕上げたいが気が散って集中できない。

 しばらくすると、ぎいぎい、と木の軋むような音が聞こえてきた。がたがた、と車輪の転がる音が近づいて来る。

 あいつが帰ってきた。

 ハルタはまたカーテンの隙間から外を覗いた。オスのオークが台車を曳いて帰ってきた。向かいの家の夫だ。

 子供たちの声が一層喧しくなる。

 とてつもない排泄物の臭いに、ハルタは咽た。吐きそうになった。窓を閉めているのに臭ってくる。

 台車には深緑色の雨避けが掛けてあり、中は見えないが、ヘルデかヘルデルタの死骸でも積んでいるのかというくらいの腐敗臭だった。

 路地の遠くから車輪の痕が続いている。荷台から漏れ出た汚物の汁だろう。ハルタはそれが血痕に見えた。橙色をしている。

 前の路地がべたつくのは奴のせいだ。

 オークは喉に痰が溜まるらしく、咳き込みながら家の駐車場に台車を停めた。カーカー、ペッ──と痰を吐いた。数回にわたって何度も。

 自分の中の大切な感情が腐っていくような気がした。目の前の路地がオークの淡壺になっている。ヘルデの死骸の隣で暮らしているような気分だ。

 弛んだ醜い顔、細い目つき、はみでた二つの牙、半開きの口元。太った体形。そのすべてが今では忌々しかった。

 蓄積された深い怒りが行き場を失い、ハルタは机についてペンを取るなり文字を本に書き込んだ。

 扉の閉まる音がした。ドンッ──振動が伝わってきた。オークが家へ入ったらしい。

 こいつのせいだ。こいつらのせいで、イカルガは……。


「痛っ」


 力んだ右手がペンを折った。破片が皮膚を裂き、肉に食い込んだ。中指の付け根辺りから赤い血が流れ、本のページに落ちた。


「くそ……」


 あの台車からする臭いがイカルガの腐敗臭をかき消したのだ。だから通報が遅れてしまったのだとハルタは考えていた。そうとしか考えられなかった。

 いずれにしろ助かりはしなかっただろうが、ここに住み始めて以降ハルタの鬱憤は向かいの家へ向いていた。


「──ハルタ、いる?」


 扉をノックする音がした。湯葉丸の声がして、ハルタの鬱屈とした思考が中断する。

 扉を開けると湯葉丸が立っていた。ぎこちない表情が「久しぶり」と言った。


「髭、伸びたな。髪もだけど」


「入るか?」


「え……うん。じゃあ、お邪魔します」


 お互い、しばらくぶりに会ったからか、接し方を忘れていた。

 湯葉丸を机の椅子に座らせ、ハルタはベッドに腰掛けた。机の上に開かれた本を湯葉丸が軽く覗き込んだ。


「魔法陣でも作ろうとしてるのか?」


「護符にして売ったらいい稼ぎになりそうだと思ってな。そのうち人間愛護協会に持っていくつもりだ」


 イカルガの使っていたモーテルの一室へ引っ越したと聞いたとき、とうとうハルタの気が狂ってしまったのだと湯葉丸は思った。そうではなかったと少し安心したのか、湯葉丸は薄く微笑んだ。

 だがハルタの心の状態を表しているかのように、部屋の中は陰鬱としていた。

 他の部屋と比べて窓が一つ多いという意味では、この角部屋は当たりである。だが路地側にある窓も、玄関の反対側にある窓も、すべて紺色の遮光カーテンで閉め切られている。これでは日差しが入ってこない。日だまりすら見当たらなかった。


「髪、切らないのか?」


「そのうち切る」


「イカルガの両親、田舎に帰っちまったぞ。会わなくて良かったのか?」


「……イカルガは?」


「遺骨は親が持ってった。ハルタのこと、気にしてたぞ」


 ハルタの顔つきは別人のようであった。枯れた表情をしている。隈が濃いわけではないが目元が暗い。目がはっきりと開いていない。湯葉丸の方を見ない。ずっと虚ろな目で床を見つめている。

 まだ部屋の中にイカルガの死体が残っている──。

 湯葉丸は何か気配を感じたような気がして、ふとそんなことを思った。


「なあ、ちょっと散歩しないか」


 室内の淀んだ空気に耐えきれず、湯葉丸は言った。

 断る理由もなかった。ハルタは提案を受け入れた。


 湯葉丸に車椅子を押してもらい、モーテルを離れた。住宅街を抜け、寂れた商店街を抜けるとダックリバーの目の前に出た。南北を繋ぐ長い大河だ。北は山脈、南は海まで続いている。

 大河沿いの路地の途中にベンチを見つけた。角席に湯葉丸が腰掛け、その隣にハルタは車椅子をつけた。

 会社帰りのサラリーマンや、潜りやパーティーの集団、犬の散歩で訪れた人、様々な人が目の前を通り過ぎていく。

 潜りたちのみずみずしい笑顔が夕焼けに重なって見える。部活帰りの学生のようだとハルタは思った。


「その道のリスクのことなんて、何も気づいてないんだろうな」


 ハルタの視線の先を辿り、湯葉丸はすぐに言葉の意味を理解した。


「頭に過りもしてないんだ。でもいつか分かる」


 ハルタには潜りたちが痛々しく見えていた。失った時間の重さを痛感させられる。

 あの日々はもう戻ってこない。

 イカルガがいた、当たり前にあったはずの日々を想い返した。


「潜りはいいねぇ、楽して稼げて──」


 背広を着た男が吐き捨てるようにそう言って、ハルタたちの目の前を通り過ぎていった。ベンチを一瞥したあと、離れ際に大袈裟なため息が聞こえた。

 二人は何も言い返さなかった。


「潜りが楽か……」


 ハルタの口元に笑みがこぼれた。


「一つ懲らしめてくる」


 湯葉丸がベンチを立ったところで、


「ほっとけ」


 ハルタがやる気なく言った。

 湯葉丸が席に戻る。


「苦労が立派だと思うのも、楽に憧れるのも自由だ。俺たちには関係ない」


 以前のハルタならすぐに言い返していた。取っ組み合いになり、湯葉丸が止めに入る時もあったくらいだ。潜りは見下されやすい。

 ハルタは変わってしまい、世捨て人のようである。今のハルタの風貌を直視すると、湯葉丸は心臓を強く握られたような思いがした。

 膝に手を置いて俯きながら、湯葉丸は怒りに震えた。


「潜りは全然楽じゃない」


「羨ましいんだろ」


「え?」


「俺たちが幸せそうに見えたんじゃねぇの?」


「ベンチでだべってるだけなのに?」


「幸せじゃないと人はすぐ他人に嫉妬する。あのおっさん、多分毎日ああやって若い潜りを見つけては暴言吐いてるぞ」


「アホだな」


「腐った人間性はいつか他人へ向くもんだ。ああいう連中は口だけだ。自分では何もしない」


 口だけだ、自分では何もしない──。そう言った傍から、まるでそれが自分のことを言い表しているような気がして、ハルタはまた黙りこくった。


「なあ、考えなおさないか?」


 湯葉丸が唐突に言った。


「何が」


「その、色々と……何か方法があるはずだ。足を治す方法とか」


「俺がイカルガの背中を追って、今度は湯葉丸が俺の背中を追うのか。いや、悪い。そうじゃないよな。それはない。湯葉丸と俺とじゃ力の差があり過ぎる。命懸けでヘルデを狩ってるようじゃダメだ」


「そんなこと……」


「イカルガを失って気づいたことは多い」


「湯葉はハルタと一緒に!」


 と感極まって湯葉丸が言いかけたが、


「ありがとう」


 ハルタは軽い口調で被せた。


「片足失った状態で潜りは無理だ。これじゃヘルデルタも殺せない。俺はもう、この街で生きていくことはできない……」


 ハルタが精神不安定であることは言うまでもないが、湯葉丸の様子もおかしかった。何かをしきりに我慢しているようであった。が、余裕のないハルタには気づき得ない。


「あのさ……今さ、うちのクランやばいんだ」


 湯葉丸が慎重な様子で言った。


「あれから色々あってさ。その、ヘクター・ヴァッケンのことなんだけど」


「やめてくれ」


 ハルタはまた言葉を被せた。語気は強くはなかった。


「聞きたくない」


 力なく言った。

 潜りの話は聞きたくなかった。聞いても潜りには戻れない。ヘクター・ヴァッケンの名など、一番聞きたくなかった。

 だが「聞きたくない」と言い切れたのは、相手が湯葉丸だったからだ。ハルタは心のどこかで湯葉丸に甘えていた。

 湯葉丸は、申し訳なさそうに「ごめん」と返した。


「そうだ。これ、預かってたんだった」


 話を逸らすように、鞄から茶封筒を一つ取り出した。


「遺品の中にあったらしいんだ。イカルガの両親が、ハルタに渡してくれって」


 茶封筒には手紙が入っていた。三つ折りの手紙を広げ、ハルタは目を通す。

 口元に笑みが浮かび、「そうだった」と言葉を零した。

 隣で疑問を浮かべている湯葉丸に気付いて、


「七歳の頃、タイムカプセルを埋めたんだ。家の庭に生えてる、ココの木の根元に」


「家の庭に、ココの木が?」


「うん」


「どういう家だよ」


「一八歳になったら、一緒に開けようって言ってたんだけど……」


 続きに目を通し、しばらくしてハルタは顔を伏せた。


「だから、あんなところに……」


 陰気な声で、泣き出した。

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