第6話 『腐乱』

 顔に風を感じ、ハルタは目を開けた。

 窓が開いているのが見えた。この窓から流れ込んできた風だったか、と思いながら視線が他へ散る。

 天井から何から部屋は白かった。ベッドまで白い。

 病院だろうか。メタノールの臭いがしないでもない。気のせいであるような気もするが……。それより俺は何故、ここに寝かされているのだろうか。

 扉が開いて、湯葉丸の姿が見えた。


「ハルタ!」


 湯葉丸はベッドに駆け寄った。慌ただしく。

 抱きつこうとしたようだったが、直前で頬を赤らめながら手を止めた。


「ここは?」


「病院に決まってるだろ」


「……戻ってきたのか」


「覚えてるのか?」


「何が?」


「直前のこと」


 覚えていないわけではなかった。記憶が霞んでいる。


「ヘルデと戦っていたことまでは思い出せる。それから……」


 グリスが、ゴキブリのように叩き潰された瞬間がフラッシュバックした。


「ログラインは?」


「いるよ。一緒に戻ってきたから」


 重症を負ったハルタを治療するすべは、地下墓地にはなく、一度地上へ戻るしかなかった。

 ヘクターの提案で帰還組が結成された。条件は、ラキィ・マリアスを同行させること。それ以外のメンバーは湯葉丸が選んでいい、というものだった。湯葉丸はログラインを選んだ。


「三人だけでよく無事に帰還できたな」


「あいつ、蓋ノ騎士だった」


「あいつ?」


「ラキィ・マリアスだよ。どっかで見た顔だとは思ってたんだ」


「じゃあ国から派遣されてきたってことか?」


「分からない」


「ログラインも一緒だったんだよなあ? じゃあ……グリスは」


 湯葉丸が黙った。


「三日前に葬式をやった」


 行き場のない悲しみが、胸の内でじわっと広がった。はっきりと、ハルタは思い出した。

 グリスはフォソーラと同じ、公営墓地に埋められたという。遺体の原型はほとんど留めていなかった。


「そうか」


 思い出される記憶のすべてが、嘘だったような気がしてくる。受け入れられない。

 高熱を出した日に浴びる日光のように、窓から入ってくる日差しがハルタには嘘っぽく感じた。


「俺、どのくらい眠ってたんだ」


「五日ってとこだ。最深部から二日で帰還した」


 つまり気絶してから一週間が過ぎていた。


「早いな」


「飛んだらすぐだった。ハルタを運んだのはラキィ・マリアスだ。湯葉はログラインとグリスを運んだ」


 湯葉丸の視線が、ふと床へ落ちる。全身血まみれのログラインの姿がフラッシュバックしたのだ。角材の形に凹んだ地面の中で潰れているグリスだったものを、地面から引き剝がした。手や腕や衣服が、血でべとべとに塗れていた。手伝うよ、と声をかけた湯葉丸。振り返ったログラインの瞳は、鍋で煮詰められた魚の目のように白濁としていた。病んでいた。状況に不釣り合いな、はっきりとしたその笑顔に、湯葉丸はどんな言葉をかければいいのか分からなかった。

 記憶から戻ってきた湯葉丸は、「なんでもない」と呟く。


「そういえば、ハーレーとビョークが見舞いに来てたぞ」


「え、嘘だろ」


「ハーレーは状況だけ聞いて、すぐに出てったけど。お前ら、なんか喧嘩してんのか?」


「……イカルガは?」


「来てない」


「家には行ったか?」


「行ったわけないだろ。それどころじゃなかったんだ。それに、イカルガがどこに住んでるのか知らないし」


「あ、そっか」


 イカルガの住むモーテルの場所を自分しか知らなかったことに、ハルタは今になって気づいた。


「俺、ちょっとイカルガのとこ行ってくるよ」


 かかっていた毛布を取ろうとしたハルタの手を、湯葉丸が素早く止めた。


「まだ、言ってないことがあるんだ」


 至近距離に、湯葉丸の目があった。


「顔が近い」


 湯葉丸はすぐに離れた。


「落ち着いて聞いてほしいんだ」


「うん。もちろん」


 湯葉丸の様子がおかしかった。何を躊躇っているんだ。


「その、ヘルデがちゃんと死んでなかったんだ」


「ああ、そういうこと? 俺が、あいつを殺せなかったって言いたのか? ヘクターさんとの賭けに負けたって」


「違う。ヘルデはちゃんと、ハルタが与えた致命傷で死んだ。ハルタは、サブマスとの賭けに勝ったんだ。だから湯葉は生きてる」


 胸の内側から、じんわりと水が染みわたるかのように喜びが広がった。自然と表情が晴れ、笑みが浮かぶ。


「……勝ったのか、俺。ヘルデに」


「だけどそのとき、つまり、その……」


「ん? なんだよ、はっきり言えよ」


「すぐには死ななかったんだ」


 ハルタは思い出し始めていた。


「……そうだ。確か、何か衝撃があって」


 勝ったのなら、何故病院にいるのか。気を失っただけなら病院へかかる必要はないだろう、とハルタは思った。

 そして気を失う直前、頭に感じた衝撃について思い出した。それが何かに殴られた際の衝撃なのか、それ以外のものなのかで分からくなった。

 殴られたのなら角材だろう、とハルタは推測する。


「ヘルデが角材で殴ったんだ。多分、そのときハルタは地面に落ちてる剣を取りに行こうとしてたんだと思う」


「死んでなかったのか、あいつ……」


 サーベルを拾いにいくために、ヘルデに背を向けたことをハルタは思い出した。


「サブマスが、悪あがきだって言ってた。よくあるらしい」


 湯葉丸が毛布を剥いだ。ハルタの右脚は、膝上から下がなかった。


「引っ張られたんだ、足を……」


 湯葉丸の声が震えている。


 ※


 室内に長い沈黙が流れていた。窓から夕日が見える。

 ハルタのリュックにあった治癒の魔法陣をすべて使い切り、止血したことを湯葉丸は話した。止血は成功したが、引き千切られた足はその後に叩き潰されており、元に戻すことはできなかった。


「ありがとう。何からなにまで……おかげで命拾いした」


 ハルタは素直に礼を言った。

 湯葉丸は、助けられなかった罪悪感から口を開けなくなった。窓の外に目をやるハルタの横顔を見て、それから俯いた。一言でも何か喋り出せば、その瞬間に泣き出してしまいそうだった。


「ヘクターさんは、何て?」


「合格だって」


「……そうか」


「行く当てがないなら、〈幼猫の嘶きキティ・ミュウ〉に入れてやってもいいって。その代わり、イカルガのことは諦めろって」


「イカルガと田舎に帰るわ」


 湯葉丸が顔を上げた。聞き間違いかと思った。


「悲願でもなかった、倒せるなんて思ってなかったから……。はなから諦めてたし」


「……す、すごい戦い方だったよ。初めて見た、あんな魔法陣の使い方。あれ、魔法陣だよな?」


「ああ」


 ヘルデとの一戦──。

 地面へ打ち付けられた釘の頭部には、それぞれ魔法陣が掘られていた。それぞれが点であり、ロープをかけると線となって繋がり、円となる。


「円柱内の酸素が薄くなるんだ」


「酸素?……ってことはあの時、あのヘルデ、窒息したのか?」


「ああ」


「そういうことか。靴裏に貼ったのは加速の護符か」


「足が吹き飛ばなくて良かったよ。もう片方も失うところだった」


 ハルタは気を紛らわせようとして、冗談っぽく言った。

 湯葉丸は、それ以上何を聞けばいいのか分からなくなった。気を紛らわせようとするほど、喉の奥が苦しくなって、声が震えそうになる。

 ハルタがこの街を去る。田舎へ帰ってしまう。

 何か引きとめる方法はないかと考えていたところ、泣きじゃくるハルタの姿が視界に入った。

 心臓を鷲掴みされたような衝撃が走り、湯葉丸の目がそのまま点になる。


「最初から、やってれば良かった……」


「ハルタ?」


「魔力がない俺に、唯一残された道は魔法陣だった……」


 学のないハルタが市販の物を使い、実験を繰り返し、やっとのことであれを完成させたのは約二年前のことだった。


「初めて使った日、イカルガが怪我をした。今回と同じだ、ヘルデが死んでなかったんだ……彼女は入院するほどの怪我を負った。死んでたかもしれなかった」


 以来、ハルタはあれを使わなくなった。

 その一件であれば湯葉丸も知っていた。イカルガが入院した際は見舞いにも行った。だがヘルデが原因だということ以外、詳しい経緯を聞いたのは始めてだった。


「使えば良かった。もっと早く……だって倒せたんだ。変われたんだ、俺は……なのに、これで終わりなんて……」


 湯葉丸は終わりを悟った。もう取返しがつかない。この足ではもう、ハルタは潜りとして生きていくことができない。

 感情を抑えきれず、涙をこらえ切れず湯葉丸はハルタへ抱き着いた。


「ごめん、ハルタ……」



 ※



 医者曰く、まだ数日入院が必要ということだった。

 傷口は完全に塞がっている。ときどき幻肢痛が襲うが、それ以外では痛みもない。

 問題なのは精神の方だ。ハルタは医者とろくに会話をしようとせず、すべて湯葉丸が対応した。


 湯葉丸が帰ったあと、ハルタは一人病室に取り残された。

 寂しくはなかった。一人の方が静かだから、今のハルタにとってはその方がかえって良かった。

 睡眠を取った方がいいとのことだったが、日が暮れたあとも一向に寝付けず、気づけば夜中になっていた。手付かずの食事がテーブルの上に置いてある。

 地下墓地でのことを思い出していた。頭の中で、何度もグリスが叩き潰された際の映像が繰り返される。

 どうすれば良かったんだろうか……。

 答えが出ず、何度も映像が繰り返す。


 そのうち布団から出て、ハルタは傍の松葉杖を手に取ると病室から出た。慣れない足取りで真っ暗な廊下を進んだ。

 階段に差し掛かると松葉杖を捨て、三階から一階へ這って下りた。

 右足が使えないだけでこんなにも体に力が入らないものなのか。情けなさに笑えてくる。ひっひっひっ、引き攣った声で小さく笑った。

 エントランスの外観に見覚えがあった。昔イカルガが入院した病院であることに気付いた。

 受付の中から灯りが漏れている。誰かいる。

 姿を見られないよう地べたを這って移動した。

 頭の中で、おそらくあの辺りだろうと目星をつけ、車椅子を探す。出入口付近で見つけると、乗り込んでそのまま病院から出た。玄関扉は内側の鍵をひねれば開いた。

 外へ出るとすぐ目の前は大通りだった。

 玄関前のスロープを下り、迷いのない足取りでハルタは病院を後にする。慣れない手つきで車輪を転がした。

 途中、振り返って見えた病院の姿は刑務所のようだった。地下を含めれば七階まである建物が繁華街のど真ん中に、交差点の角の土地を広々と占領している。


 朝日が昇りかけていた。モーテルに着いたハルタの全身は汗だくで、両手は皮が剥けて血だらけになっていた。手汗がしみる。

 一時間以上かかってしまった。以前なら三〇分かからなかっただろう。

 部屋の明かりが消えている。当然か。イカルガはまだ寝っているだろう。朝早くに申しわけないが、急を要する。

 車椅子を乗り捨て、ハルタはL字の天辺にある階段を這って上った。

 扉前まで来ると両膝をついた状態でノックする。何度か試すが返事はない。

 不意に目がいった。扉の右にある小窓だ。中から閉じられたカーテン──奥の方に、黒い影が見えたような気がした。

 ハルタはどうにか立ち上がって、背後の欄干らんかんに両肘をつき体重を預けた。両腕を使って欄干を押し出し、無理やり勢いをつけて倒れ込むように扉へ体当たりした。一度で無理だと分かり、躊躇いはあったが次に小窓へ向かって飛び込んだ。

 窓ガラスが割れる。

 中へ倒れ込むように突っ込んだ。瞬間、強烈な腐敗臭が鼻孔を刺激した。ヘルデの死骸から漂う臭いと似ている。

 ハルタは口と鼻を手で押さえた。目が染みて痛い。臭いで気が飛びそうになりながら、体に巻き付いたカーテンを脱いだ。

 上体を起こそうと床に右手をついたら、滑って右肘を打った。痛みで体に力が入る。歯を食いしばる。ぐっと堪えた。

 右腕全体にぬめりのある水気を感じ、腕を持ち上げると床に触れていた手の甲が糸を引いた。

 床に黒い水溜まりが広がっている。ハルタは目を瞬いた。首の無い人の死体が転がっていた。腹や足、腕などの部位が膨らんでいるのが見える。蛆が湧いて蠅がたかっている。

 水溜まりは、この死体から漏れ出た液体──血と体液と排泄物だった。

 ハルタは引き攣った顔をして、尻を擦りながらのけ反った。何度も悲鳴が出そうになったが、声が喉の奥で詰まった。汚水と腐乱死体に目を奪われた。

 ふと上の方が気になった。

 見上げると天井から紐が垂れていた。先端に、たるんだ楕円の輪があった。

 輪に黒い糸が絡まっている。髪の毛だった。垂れた髪の毛の先に、肉塊がぶら下がっていた。

 それは不貞寝するブルドッグのようであり、潰れたゴムマスクのようでもあった。人の頭であることがハルタには分かった。元が想像できないほどに頭全体が膨らみ、部分的に弛んでいる。潰れている。

 唐突だった。床に転がる死体の着ている服が、イカルガの着ていたものにすごくよく似ていると思った。途端に目の奥で、熱がぐんっと駆け回る。

 ハルタは勢いよく顔を上げ、荒い呼吸を繰り返しながら、楕円の輪にぶら下がる潰れた肉塊を見上げた。


「イカルガ……?」


 ぼちょん──。

 肉が落ちた。液状化した彼女の溜まりに。

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