夏夜に笑う顔〜平安もののけ奇譚〜

緑山ひびき

夏夜に笑う顔〜平安もののけ奇譚〜

 夏の夕暮れ、宮中の奥は、昼の熱を抱えたままだった。廊を歩くと、板の下からまだ温い空気が上がる。

 女房たちの居るあたりへ近づくほど、声は低くなる。足音が揃う。袖が触れ合う音だけが目立つ。


 御簾みすの向こう、薄衣が幾重にも重なった座で、女房がひとつ、香炉を前へ寄せる。燈台には灯が入った。

 御簾の外が薄く暗くなると、座の輪郭がはっきりした。衣の重なりと、扇の影。


 誰かが笑った。小さな噂話がひとつ、扇の陰で回った。

 その声が途切れた。


 座の端、御簾の影が濃く落ちるところで、白いものが動いた気がした。


 白い衣の裾――いや、裾ではない。床に触れていない。

 ふわりと浮いたまま、部屋の隅に寄っていく。足元がない。輪郭だけが、薄い布みたいに揺れる。


 顔は見えない。

 長い黒髪に隠れている。


 女房が息を呑んだ。息の音が布を擦った。

 隣の女房が、扇で口元を押さえた。声が出る前に息が引っかかった。

 もう一人が座をずらそうとして、裾が絡んだ。ほどけない。衣擦れが異様に大きい。


 いちばん近い女房が、扇を持ち替えた。指が滑り、扇が畳へ落ちた。乾いた音が跳ねる。

 その音で息が戻った者がいて、次の瞬間、甲高い声が裂けた。


「ひ——っ!」


 声の主は立とうとして裾を踏み、膝から崩れた。誰かが支えに手を出すが、袖が絡んで上手くいかない。衣擦れが重なり、座の形がほどけていく。

 その隙間で、部屋の隅に白いものが浮いた。足がない。白い裾だけが、畳に触れぬまま揺れている。


「いやっ、いや——っ!」


 叫びながら扇を振り上げた女房の手が止まった。目が、そこに釘付けになったまま動かない。声だけが途切れ、喉が鳴り、身体がすとんと落ちた。

 倒れる音にかぶさって、誰かが簾の端を掴み、引き下ろした。隠すためではない。足場を探すような手つきだ。影が増え、白い輪郭はまだ在るのに、どこに在るのかだけが曖昧になっていった。


 女房たちは這うように部屋を出て、別の部屋で固まるように夜を明かした。


 ⸻


 翌日の夜。

 何事もなかったことにしたい顔が、宮中には多い。

 ゆうべの部屋は封鎖され、離れた部屋で皆過ごす。


 けれど集まった座は、最初から整っていなかった。扇は揃わない。膝も揃わない。笑い声は一つも立たない。誰も座の隅を背にしたがらず、簾の影が深い所だけが空いたままだった。


「……今宵は」

 誰かが言いかけて、口を閉じた。


 そのとき、ひとりの女房が急に息を詰めた。

 扇の骨を握った指が白くなる。目が、座の端に吸い寄せられる。


「……っ」


 声にならない音が漏れた。次の瞬間、女房は扇を落とした。畳に当たる音が跳ね、座が一斉に揺れた。

 女房はそのまま崩れ、口を開けたまま固まった。声が出ない。舌だけが動き、言葉にならない。


「——やめて、やめて」


 誰かが立とうとして裾を踏み、ひどくみっともなく転びかけた。

 別の女房が悲鳴を噛み殺し、喉の奥で鳴らした。簾ががた、と鳴る。誰かが掴んだからだ。


「水を——早く」


「誰か――っ」「誰か、誰か!」


 言葉がばらばらに飛び、誰も指図の形にならない。

 倒れた女房の袖へ手を伸ばした者が、触れた瞬間に引っ込めた。汗が冷えているのに、指先だけが熱い。


 座は、もう座ではなかった。

 誰も次の言葉を探せず、息だけが乱れていた。


 ⸻


 翌朝から、臥せる者が出た。


 人が減った。

 女房部屋の人数が減ると、声がさらに低くなる。いつもより沈む。


 「部屋に何かある」

 そんな言い方が、御簾の内側でだけ回った。

 どの部屋なのかは、言われない。言えば、その部屋の者の責になるからだ。


 ⸻


 昼下がり、近衛このえ少将は宮中の廊を渡っていた。冠の下のもとどりは崩れず、袖の運びも軽い。整った顔立ちのせいか、すれ違う者はつい足をゆるめるが、本人は気づかないまま、若者らしい足取りで進む。


 その背を、ひとりの少年が追いかけて来た。近衛府に出入りする小舎人ことねりだ。少将に仕えて、雑務をこなしている少年で、名を「竹丸」と言う。

 今の竹丸は余裕がないらしい。走り方が下手で、廊板を打つ音が大きい。


「少将様。——奥から、少し」


 少将は立ち止まった。

 竹丸は息を整えようとせず、そのまま言った。


「女房方で、臥せる者が出ております。数が」


 少将は、この竹丸の姉が女房に仕えていることを思い出す。


「姉からの話か。それで、病か」


「はい。ただそれが……病とも言い切れぬと」


 少将は目を細める。

 竹丸は言いにくそうに唇を動かし、結局、短く済ませた。


「見た、と」


「何を」


 竹丸は喉を鳴らした。答えを言い切れない。言葉にするのが怖い顔だった。


「……白いものを。座の隅に、ふわっと……顔はわからず」


 少将はそこで足を止めたまま、続きを待った。

 竹丸は首を振りかけて、振らない。


「臥せているのは、どこの者だ」


「女房方の……下の者も、上の者も」


 少将は顎を撫でた。

 噂の形に落ちない。誰か一人の怯えが伝染した、という数ではない。数が出ている。数が出るときは、場に何かが混じる。


「その“座”は、ひとつか」


 竹丸は曖昧に首を振った。


「違う、と……申しておりました。場所を変えても、同じように……」


 少将は息を置いた。

 今夜は夕涼みの催しがある。女房たちの出入りも増える。こういう騒ぎは、表へは出さず、奥で押し潰そうとする。


「臥せている者を見たか」


「いえ。見ていません」


 少将は、行くべき先を思い浮かべた。


 嵯峨野。

 あの切れ長の目。沈香の匂い。


 少将は竹丸に言った。


「女房方の名を、できるだけ拾っておけ。臥せている者。見たと言った者。何を見たのか」


 竹丸が頷く。


 少将は廊を急いだ。

 夕方の支度が始まる前に、嵯峨殿へ会いに行く。


 ⸻


 嵯峨野にある山荘の門は閉じていた。

 少将が名を告げる前に、内側で戸が擦れた。家人が戸を開け、無言で脇へ退いた。


 山を背にした家は静かで、手入れの行き届いた匂いがする。人の気配は薄い。少将は、通されるまま奥へ進んだ。


 奥の座にいたのは、嵯峨殿だった。

 長い黒髪を後ろで束ねただけで、痩身。姿勢が崩れない。切れ長の鋭い目と通った鼻筋が、涼しい顔立ちをさらに冷たく見せている。


 硯が出たまま、紙も置かれたままだ。沈香と墨の匂いが薄く立っていた。


「嵯峨殿。知恵を貸してくれ」


 座に着くなり少将が言うと、嵯峨殿は筆を止めた。硯の脇に筆を置き、正面から少将へ向き直る。


「何があった」


 少将はふっと息を整え、話し始めた。


「女房方で、伏せる者が出ている」


 嵯峨殿は相槌を打たない。遮りもしない。ただ、聞く。


「怨霊の類が出たらしい。それを見た者たちが、怖がって起きられぬ」


 嵯峨殿は一拍置いた。


「怨霊……どんなものを見た、と」


「白い女だそうだ。宙に浮いていた、と」

「顔までは見えていない。——座を変えても、また出た」


 嵯峨殿はそこで初めて口を開いた。


「同じ場所ではない、と」


「違う」


「ならば、場に憑いているのではないな」


 少将は頷いた。


「きっかけが分からぬ。人の集まるところで起きている。夜だ。——二度とも」


 嵯峨殿は視線を落としたまま、短く言った。


「最近、女官でいなくなった者は」


 少将は即答できなかった。

 だが、その問いが的外れでないことは分かる。


「辞めた者か。亡くなった者か」


「どちらもだ」


 嵯峨殿はそれ以上説明しない。

 少将も、理由を求めなかった。


「調べる」


 そう言って、少将は立ち上がった。


 嵯峨殿は止めない。

 立ち上がり、少将の袖口へ手を伸ばし、結び目を一度直した。


 少将は息を整え、山荘を出た。


 ⸻


 宮中へ戻ると、人の気配が厚かった。

 今夜の涼みの催しが近いせいだろう。廊の端々に、仕度の足音がある。布が擦れる音。箱が置かれる音。水を運ぶ音。


 少将は近衛府に戻らず、小舎人の竹丸を連れ、そのまま宮中の奥へ行った。

 女房たちの区画の手前で足を止める。ここから先は、男の声がそのまま届かない。


「おまえの姉は、ここに勤めているな」


 竹丸が頷く。


「呼べ。急ぎだ」


 竹丸は走り出した。走り方は相変わらず落ち着かない。音が出る。けれど今は、それが頼もしかった。


 少将は廊の柱影で待った。

 仕度の人足が通り過ぎ、裾が揺れる。箱がぶつかり、誰かが小声で詫びる。そういう現実の音の中で、先ほど見聞きしたものだけが浮く。


 やがて、竹丸が戻って来た。後ろに女房がひとり付いている。

 派手な装いではなく下仕え寄りのようだが、袖口の整い方がきれいだ。人の目がある場所で、言うべきことと言わぬことを知っている歩き方をしていた。


 竹丸が言った。


「姉の椿つばきでございます。——左京の命婦さまに仕えております」


 女房は深くは頭を下げない。礼は取り、顔は上げる。少将を見て、場を読む目になった。


「少将様。何か」


 少将は周りを一度だけ見た。

 人の往来が切れた瞬間に、声を落とす。


「女房方で、臥せる者が出ている。怨霊の類が出たらしい。見た者が怖がって、伏せている」


 女房の目が動いた。知っている者の動きだ。


「……お尋ねの向きは」


「近頃、奥から居なくなった者がおるのではないか」


 女房は息を小さく吐いた。すぐ答える気配がなかった。

 それから、短く言う。


「春に——ひとり、亡くなっております」


 少将はその言葉を待っていたわけではない。けれど、待っていたのだと分かった。


「名は」


「……伊勢の君と呼ばれていた者です」


 少将には覚えがない。覚えがないのが普通だ。

 少将は言葉だけを重ねる。


「病か」


「違います」


 女房が切った。切り方に、場の重さがある。


「自ら」


 少将は一拍置いた。


「いつだ」


「春の終わり頃。——薫物合たきものあわせのあとでした」


 季節が繋がる。

 春の催しのあとに、夏の夕涼み。


 まさに今夜、帝の御前でまた薫物合が行われる。

 一気に気持ちがざらつく。


「何があった」


 女房は少将を見たまま、言葉を選んだ。

 選んだ末に、削って言う。


「秘伝の練香ねりこうを持っていたと聞きます。——盗まれた、と」


「盗まれた」


「はい。けれど、証がございませぬ。先に使われたと申したところ、虚言そらごととなじられ……」


 少将の袖の中で指が固くなる。

 虚言、という言葉は、言われた場所ごと人を削る。


「誰が先に使った」


 女房は返事を躊躇する。


「名を出せば、また、同じことが起きます」


 少将は声を落とした。


「今夜は御前だ。先に口が回れば、守れぬ」


 女房のまぶたが一度だけ伏せられた。

 そして、必要なところだけ言う。


右少弁うしょうべんの君と呼ばれる女房で、香の上手と評判の者がいます。」


少将は眉を寄せた。

「その者が盗んだのか」


椿は息を小さく吐いた。

「……確かなことは、誰も申しません。けれど」


「けれど?」


「春の薫物合の前夜、右少弁の君が伊勢の君の部屋の近くを歩いていたのを見た、という者がおります。翌日、伊勢の君の秘伝と同じ香りが、右少弁の君の香炉から立ち上った、と」


少将の指が袖の中で固くなる。


「伊勢の君は、それを訴えたのか」


「はい。けれど、証拠がございませぬ。『先に思いついただけだ』と言われ、虚言とされました」


椿の声が沈む。


「……そして、伊勢の君は、それから間もなく」


 少将は頷かなかった。頷けない。

 だが、繋がった。


「右少弁の君は、今夜の催しにも出るか」


「出ます」


 女房は今度こそ即答した。


「わかった。よく話してくれた」


 少将の言葉に、女房は小さく頭を下げた。

 竹丸は椿を見送り、少将を見る。何か言いたげだが、言わない。


 少将は廊を急いだ。

 ――嵯峨野へ。

 夕涼みの会の始まる刻が近づく。


 ⸻


 嵯峨野へ馬を駆ける。都から離れるほど、人の声が薄くなる。


 座に入ると、嵯峨殿は同じ場所にいた。

 硯も紙も動いていない。墨だけが乾きかけている。人の時間の進み方が違う。


 少将は座る前に言った。


「女官が死んでいた。春の薫物合のあと、自ら。秘伝の練香を盗まれ、先に使われ、虚言とされた」


 嵯峨殿は、少将を見た。

 肩の奥ではない。顔を、はっきりと。


「香だ」


 短い。

 言い切りだった。


「香炉か」


「香炉も、香もだ」


 嵯峨殿はそれ以上、言葉を飾らない。


「香は嗅がせる。嗅がせて、囲う。——薫物合は、その場だ」


 少将の指が袖の中で固くなる。


「今夜が、御前での薫物合だ」


 嵯峨殿は頷かない。

 頷かずに、淡い声で言った。


「怨霊を、御前へ出させるな」


「私の父も、帝も、その場に居る」


 嵯峨殿の鋭い目が少将を深く見やる。

 少将は頷いて、そのまま身を翻して外へ出た。

 山荘の門を抜ける頃には、もう空の色が落ちている。


 ⸻


 都へ戻る。

 宮中へ近づくほど、人の声が増える。

 灯りが増える。衣の色が増える。

 夕涼みの会の支度は、すでに始まっている。


 少将は、門を抜けるなり小舎人を呼んだ。


「薫物合の席はどこだ」


「清涼殿の——」


 少将は足を止めなかった。


 廊を急ぐ。

 近衛府の詰所へは寄らない。父へ取り次ぐ段取りも踏まない。

 段取りを踏めば、間に合わない。


 清涼殿へ向かう廊は、人が多い。

 少将はその中を割るように進んだ。声を荒げず、ただ止まらない。止める者が居ないのは、冠と父の名の力だ。


 催しの場には、御簾や几帳が様々並んでいる。

 集う女房たちの顔をあからさまにしないためだ。


「今は誰がお披露目を」


「ちょうど右少弁の君が……」


 御前の御簾の前に近づくと、空気が変わる。

 人が言葉を控える空気。

 その中で、香の匂いが漂う。

 

 御簾の向こうに人影がある。帝だ。

 父、東三条の右大臣も座に居る。

 その前に、台盤が置かれていた。


 腰の高さほどの台盤の上には大きめの伏籠ふせごがある。

 籐できつく編まれた半円の伏籠の下には、問題の香炉があるはずだ。

 膝立ちで近寄った女房によって、いま伏籠が外されようとしている。


 少将は言葉を選ばずに叫んだ。


「御前、失礼!——その香炉、使うな!」


 場が止まる。

 扇が止まる。衣擦れが止まる。

 女たちが驚き、顔を隠す。

 だが、香は止まらない。伏籠の隙間から、匂いが滲む。


 几帳の手前にいた父が振り向いた。

 東三条の右大臣の視線が少将を捉える。驚きではない。叱責でもない。まず、状況を掴もうとする目だ。


「少将。何事だ」


 少将は一歩進んだ。

 御前の前へ出る距離だ。普通なら止められる。だが場の者が止められない速さで、少将は伏籠へ近づいた。


「それは、出してはならぬ」


 少将は言った。

 言い切ってから、しゃがみこみ、伏籠へ手を出した。


 伏籠の中に香炉はあった。

 陶だ。名品の艶がある。

 

 火種が入れられたばかりだった。

 香が、いま立ち上がろうとしている。


 側にいた女房が傾けて持ち上げている伏籠の内側が、わずかに白く曇った。

 ——そこに、何かが寄る気配がある。


 少将は躊躇いなく香炉を伏籠から出さず、中の金属の盆へ叩きつけた。


 乾いた音がした。

 割れた。陶が裂け、火種が散り、香が一瞬だけ強く立った。


 その瞬間、少将は見た。


 傾けた伏籠の中に、顔があった。


 顔だけが、そこにある。

 髪が長い。白い頬が近すぎる。

 口元が横に大きく、笑いの形を作っている。

 目を大きく開けて、顔は左右に揺れていた。


 少将は伏籠を力いっぱい伏せ、目を逸らした。

 像は目の奥に貼りつく。


 場の誰もが息を呑んだ。

 けれど、皆に見えたのは、薄く立ち上る白い霞のようなものだけだっただろう。

 「顔」を見た者は、少将と伏籠を開けていた女房だけのはず。


 香の匂いが途切れると、白い霞は消えた。

 割れた陶片と灰だけが残る。火種は誰かが水で始末したようだ。


 場が、ゆっくり戻る。


 帝の声が、低く落ちた。


「よし」


 帝の肯定に、周りの者たちがふっと息を吐く。


 少将は返事ができない。

 胸の奥が詰まっている。


 父が、少将のほうへ一歩出た。

 叱るためではない。確かめるためだ。


「怪異か」


 少将は、ようやく息を吐いた。


「……はい」


「よくやった」


 父は頷いた。

 その頷きは、場への頷きでもあった。

 褒められた言葉が、今は重い。

 少将は御前の空気が再び固く締まるのを感じた。


 そして、遅れて気づく。


 伏籠を扱っていた女房の一人が、倒れていた。

 誰かが支えようとして、手が止まる。

 

 横向きに倒れた女房の目が、恐怖に見開いている。

 まばたきをしない。


 少将は一歩動こうとして、父の声に止められた。


「少将。——触るな」


 父の言葉は、嵯峨殿の言葉に似ていた。

 少将は動けず、倒れた女房の顔を見た。


 女房は、恐怖そのものの顔をしていた。


 周りがざわめきかけ、すぐ沈む。

 帝の前だ。騒げない。


 少将は息を整えようとして、整わなかった。


 倒れた女房のまわりに、人の輪ができた。けれど輪は密にならない。誰も触れようとしない。


 女房の目は見開いたままだった。瞳が何かを映している。

 恐怖にゆがんだ口元が、わずかに動いた。笑いの形に——いや、違う。

 謝っているのか。許しを乞うているのか。

 御前で、声を上げられない。誰もが息だけで動いている。


 僧と薬師くすしが呼ばれ、短く診た。

 首を横に振る動作だけが返ってくる。言葉にしなくても分かる合図だった。


 帝の声が落ちる。


「下げよ」


 その一言で、人が現実の手順に戻る。

 倒れた女房は向こうへ運ばれ、香の席は解かれた。

 残ったのは、割れた香炉と灰と、場に残り続ける“見えなかったふり”だ。


 少将は、香炉の破片を見た。

 艶のある陶が割れて、断面だけが白い。火種の黒と混じっている。


 父、東三条の右大臣が少将へ寄った。近い。

 声は低い。


「よく止めた。——だが、踏み込みすぎるな」


 叱責ではない。

 止め方を教える声だ。褒められているのに、背筋が冷える。


「……はい」


 少将はそれ以上言えない。

 自分の目の奥に、さっきの“顔だけ”がまだある。あの距離の近さが、言葉を削る。


 父は視線を外へ投げた。

 片付けが始まっている。香炉を扱っていた者たちが、顔色を消して動いている。

 一人が伏籠を開ける。


 少将は思わず目をそらした。


 だが、何も騒ぎは起きず、片付けは進められる。


「倒れたのは誰だ」


 少将が竹丸を呼ぶより先に、父が言った。

 父のほうが早く拾う。宮中で生きてきた速度だ。


「右少弁の君——香の上手と」


 父の目が、一度だけ細くなる。

 そして、何も言わない。

 

 少将の胸の奥が詰まった。


 恨みの相手。

 盗んだか、盗ませたか、奪ったか、奪われたと決めつけたか。

 ——その中心にいた女房が、御前で死んだ。


 少将は、父の前で呼吸を整えた。

 褒められる筋の話なのに、吐き気に近いものが上がる。


 父は少将へ言った。


「今夜のことは、口を閉じさせろ。お前の判断は、帝の前での判断だ。——噂に落とすな」


 少将は頷くしかない。

 頷くことで、ひとつ終わった形になる。けれど、少将の中では終わっていない。


 ⸻


 夜。

 少将は近衛府に戻っても座に着けなかった。

 香炉を叩き割った掌が、まだ熱を覚えている。火の熱ではなく、場の熱だ。


 小舎人の竹丸が戻り、拾った話を短く告げる。


 先ほど倒れた女房はやはり、命を落とした、と。


 春の薫物合で、秘伝の練香を持っていた女房がいた。

 それが、別の者の香として先に出た。

 嘘つきとされた女房は、ほどなく自ら死んだ。

 そして春から夏へ、勝った側の香炉が、あちこちで使われ続けた。


 少将は聞き終え、口を閉じた。

 筋は通る。

 そのぶん、胸が余計に冷える。


 少将は、最後の手順を踏むために嵯峨野へ向かった。

 ただ報告のためではない。自分の中身を戻す場所が必要だった。


 ⸻


 嵯峨野山荘。


 嵯峨殿は座にいた。

 硯の墨が、今度は乾いている。時間が進んだ証がそれだけだ。


 少将は座る前に言った。


「香炉を割った。御前で。——だが、女房が一人、死んだ」


 嵯峨殿は、少将の顔を見て、短く言う。


「見たか」


 少将は息を置いた。


「……見た」


 嵯峨殿は、何も言わない。

 言わない代わりに、立ち上がった。奥へ行き、湯の器を持って戻る。湯気は強くない。色が濃い。


「飲め」


 少将は器を受け取った。

 匂いが青い。薬湯だ。苦い。鼻の奥が少し痛む。

 それが、なぜか助かる。


 少将は一口飲んだ。苦味が喉を落ちる。

 香の匂いが、ようやく薄くなる気がした。


「主上は『よし』と。父にも褒められた」


 少将が言う。

 言った瞬間、自分でも可笑しかった。褒められたことを報告しているのに、声が沈む。


 嵯峨殿は、少将を見たまま言った。


「褒めるしかない」


 少将は眉を寄せた。


「私は、助けたつもりだった。御前を。父を。——けれど」


「けれど?」


「一人、死んだ」


 少将の声が低くなる。


「死んだ女房が、本当に盗んだのかも分からぬ。もしかしたら、無実だったかもしれぬ。それなのに、私が香炉を割ったせいで——」


「違う」


 嵯峨殿が遮った。


「おまえが割らねば、御前で何が起きたか分からぬ。おまえは、助けた」


「だが——」


「助けた」


 嵯峨殿は繰り返した。

 その短さが、慰めに近い。


 少将は黙った。

 嵯峨殿の言葉を、受け取るしかない。


 少将は器をもう一口飲み、口を拭った。


「……なら、なぜ死んだ」


 嵯峨殿は、少将から目を外さない。


「呼ばれた側が勝てば、生きる。負ければ、連れて行かれる」


「あの者は、負けた、と……」


 嵯峨殿は低く静かに言う。


「そうだ。そして、おまえは勝った。ここに戻った」


 少将は薬湯の器を見下ろした。


「……では、伊勢の君は満足したのか。連れて行きたかった相手を連れて行って」


「分からぬ」嵯峨殿は短く言った。「怨みは、終わりを決めぬ」


「……時雨しぐれ


 少将は、嵯峨殿のいみなを呟いた。


「なんだ。子どものころに戻ったか――実弥さねみ


 嵯峨殿は咎めない。少将の諱を返しのように言う。


 少将は黙った。

 目の奥で「顔」が笑う。


 嵯峨殿は、薬湯の器を少将の前へ戻させるように、視線で促した。

 少将が器を置くと、嵯峨殿は言った。


「今夜は帰るな。ここで寝ろ」


 少将は顔を上げた。


「お前の家だぞ」


「知っている」


 嵯峨殿は言った。

 そこで、言葉が終わる。余計な飾りがない。


 ⸻


 夜更け。

 少将は山荘の客の寝所で横になった。

 目を閉じると、すぐ顔が来る。あの距離で、顔だけが来る。


 少将は身を起こし、渡された薬草の包みを嗅いだ。

 青い匂いが鼻を刺す。苦味が舌の奥に戻る。

 それで、少しだけ現実に足が着く。


 嵯峨殿の声が、先ほどのまま蘇る。


『おまえは勝った。ここに戻った』


 少将は、薬草の匂いをもう一度深く吸った。

 目を閉じた。


 夜半、少将は目を閉じたまま、伏籠の中の顔を思い出していた。

 あの距離。あの笑い。見開いた目。左右に揺れて迫る。

 喉の奥が詰まる。


 そのとき、障子の向こうで気配がした。

 足音はない。けれど、嵯峨殿がそこに立っているのが分かる。

 

 少将は目を開けた。

 障子の隙間から、細い灯りが漏れている。


「……起きているのか」


 嵯峨殿の声だった。


 少将は身を起こした。

「ああ」


 障子が少しだけ開いた。

 嵯峨殿が立っている。長い黒髪を束ねたまま、薄衣一枚の姿だ。


「薬湯を足そうか」


「……頼む」


 嵯峨殿は奥へ消え、すぐ戻って来た。

 湯の器を少将の前に置き、そのまま少し離れた場所に座る。


 少将は湯を一口飲んだ。苦味が喉を落ちる。

 嵯峨殿は黙って少将を見ていた。


「……御前で、何を見た」


 少将は器を持ったまま、言葉を選んだ。


「顔だ。伏籠の中に、顔だけがあった」


 嵯峨殿の目が、わずかに細くなる。


「距離は」


「近かった。——触れるほど。目を逸らした」


 嵯峨殿は息を置いた。

「よく、目を逸らした」


「……逸らさねば、どうなっていた」


 嵯峨殿は答えなかった。

 

 少将は湯を飲み干した。

 器を置くと、嵯峨殿が言った。


「今夜は、私がここに居る」


 少将は顔を上げた。


「見張りか」


「違う」


 嵯峨殿は短く言った。

 それ以上、説明しない。


 少将は、ふっと息を吐いた。

「……助かる。時雨」


 嵯峨殿は頷かなかった。

 代わりに、短く言った。


「眠れ。実弥」


 命令ではない。願いに近い声だ。

 立ち上がらずに、そこに座ったままいる。


 少将は再び横になった。

 嵯峨殿の気配が、すぐ近くにある。


 その夜、少将は眠れなかったが、目を閉じることはできた。

 そして、朝が来るまで、嵯峨殿はそこに居た。

 

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夏夜に笑う顔〜平安もののけ奇譚〜 緑山ひびき @midoriyama_hibiki

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