夏夜に笑う顔〜平安もののけ奇譚〜
緑山ひびき
夏夜に笑う顔〜平安もののけ奇譚〜
夏の夕暮れ、宮中の奥は、昼の熱を抱えたままだった。廊を歩くと、板の下からまだ温い空気が上がる。
女房たちの居るあたりへ近づくほど、声は低くなる。足音が揃う。袖が触れ合う音だけが目立つ。
御簾の外が薄く暗くなると、座の輪郭がはっきりした。衣の重なりと、扇の影。
誰かが笑った。小さな噂話がひとつ、扇の陰で回った。
その声が途切れた。
座の端、御簾の影が濃く落ちるところで、白いものが動いた気がした。
白い衣の裾――いや、裾ではない。床に触れていない。
ふわりと浮いたまま、部屋の隅に寄っていく。足元がない。輪郭だけが、薄い布みたいに揺れる。
顔は見えない。
長い黒髪に隠れている。
女房が息を呑んだ。息の音が布を擦った。
隣の女房が、扇で口元を押さえた。声が出る前に息が引っかかった。
もう一人が座をずらそうとして、裾が絡んだ。ほどけない。衣擦れが異様に大きい。
いちばん近い女房が、扇を持ち替えた。指が滑り、扇が畳へ落ちた。乾いた音が跳ねる。
その音で息が戻った者がいて、次の瞬間、甲高い声が裂けた。
「ひ——っ!」
声の主は立とうとして裾を踏み、膝から崩れた。誰かが支えに手を出すが、袖が絡んで上手くいかない。衣擦れが重なり、座の形がほどけていく。
その隙間で、部屋の隅に白いものが浮いた。足がない。白い裾だけが、畳に触れぬまま揺れている。
「いやっ、いや——っ!」
叫びながら扇を振り上げた女房の手が止まった。目が、そこに釘付けになったまま動かない。声だけが途切れ、喉が鳴り、身体がすとんと落ちた。
倒れる音にかぶさって、誰かが簾の端を掴み、引き下ろした。隠すためではない。足場を探すような手つきだ。影が増え、白い輪郭はまだ在るのに、どこに在るのかだけが曖昧になっていった。
女房たちは這うように部屋を出て、別の部屋で固まるように夜を明かした。
⸻
翌日の夜。
何事もなかったことにしたい顔が、宮中には多い。
ゆうべの部屋は封鎖され、離れた部屋で皆過ごす。
けれど集まった座は、最初から整っていなかった。扇は揃わない。膝も揃わない。笑い声は一つも立たない。誰も座の隅を背にしたがらず、簾の影が深い所だけが空いたままだった。
「……今宵は」
誰かが言いかけて、口を閉じた。
そのとき、ひとりの女房が急に息を詰めた。
扇の骨を握った指が白くなる。目が、座の端に吸い寄せられる。
「……っ」
声にならない音が漏れた。次の瞬間、女房は扇を落とした。畳に当たる音が跳ね、座が一斉に揺れた。
女房はそのまま崩れ、口を開けたまま固まった。声が出ない。舌だけが動き、言葉にならない。
「——やめて、やめて」
誰かが立とうとして裾を踏み、ひどくみっともなく転びかけた。
別の女房が悲鳴を噛み殺し、喉の奥で鳴らした。簾ががた、と鳴る。誰かが掴んだからだ。
「水を——早く」
「誰か――っ」「誰か、誰か!」
言葉がばらばらに飛び、誰も指図の形にならない。
倒れた女房の袖へ手を伸ばした者が、触れた瞬間に引っ込めた。汗が冷えているのに、指先だけが熱い。
座は、もう座ではなかった。
誰も次の言葉を探せず、息だけが乱れていた。
⸻
翌朝から、臥せる者が出た。
人が減った。
女房部屋の人数が減ると、声がさらに低くなる。いつもより沈む。
「部屋に何かある」
そんな言い方が、御簾の内側でだけ回った。
どの部屋なのかは、言われない。言えば、その部屋の者の責になるからだ。
⸻
昼下がり、
その背を、ひとりの少年が追いかけて来た。近衛府に出入りする
今の竹丸は余裕がないらしい。走り方が下手で、廊板を打つ音が大きい。
「少将様。——奥から、少し」
少将は立ち止まった。
竹丸は息を整えようとせず、そのまま言った。
「女房方で、臥せる者が出ております。数が」
少将は、この竹丸の姉が女房に仕えていることを思い出す。
「姉からの話か。それで、病か」
「はい。ただそれが……病とも言い切れぬと」
少将は目を細める。
竹丸は言いにくそうに唇を動かし、結局、短く済ませた。
「見た、と」
「何を」
竹丸は喉を鳴らした。答えを言い切れない。言葉にするのが怖い顔だった。
「……白いものを。座の隅に、ふわっと……顔はわからず」
少将はそこで足を止めたまま、続きを待った。
竹丸は首を振りかけて、振らない。
「臥せているのは、どこの者だ」
「女房方の……下の者も、上の者も」
少将は顎を撫でた。
噂の形に落ちない。誰か一人の怯えが伝染した、という数ではない。数が出ている。数が出るときは、場に何かが混じる。
「その“座”は、ひとつか」
竹丸は曖昧に首を振った。
「違う、と……申しておりました。場所を変えても、同じように……」
少将は息を置いた。
今夜は夕涼みの催しがある。女房たちの出入りも増える。こういう騒ぎは、表へは出さず、奥で押し潰そうとする。
「臥せている者を見たか」
「いえ。見ていません」
少将は、行くべき先を思い浮かべた。
嵯峨野。
あの切れ長の目。沈香の匂い。
少将は竹丸に言った。
「女房方の名を、できるだけ拾っておけ。臥せている者。見たと言った者。何を見たのか」
竹丸が頷く。
少将は廊を急いだ。
夕方の支度が始まる前に、嵯峨殿へ会いに行く。
⸻
嵯峨野にある山荘の門は閉じていた。
少将が名を告げる前に、内側で戸が擦れた。家人が戸を開け、無言で脇へ退いた。
山を背にした家は静かで、手入れの行き届いた匂いがする。人の気配は薄い。少将は、通されるまま奥へ進んだ。
奥の座にいたのは、嵯峨殿だった。
長い黒髪を後ろで束ねただけで、痩身。姿勢が崩れない。切れ長の鋭い目と通った鼻筋が、涼しい顔立ちをさらに冷たく見せている。
硯が出たまま、紙も置かれたままだ。沈香と墨の匂いが薄く立っていた。
「嵯峨殿。知恵を貸してくれ」
座に着くなり少将が言うと、嵯峨殿は筆を止めた。硯の脇に筆を置き、正面から少将へ向き直る。
「何があった」
少将はふっと息を整え、話し始めた。
「女房方で、伏せる者が出ている」
嵯峨殿は相槌を打たない。遮りもしない。ただ、聞く。
「怨霊の類が出たらしい。それを見た者たちが、怖がって起きられぬ」
嵯峨殿は一拍置いた。
「怨霊……どんなものを見た、と」
「白い女だそうだ。宙に浮いていた、と」
「顔までは見えていない。——座を変えても、また出た」
嵯峨殿はそこで初めて口を開いた。
「同じ場所ではない、と」
「違う」
「ならば、場に憑いているのではないな」
少将は頷いた。
「きっかけが分からぬ。人の集まるところで起きている。夜だ。——二度とも」
嵯峨殿は視線を落としたまま、短く言った。
「最近、女官でいなくなった者は」
少将は即答できなかった。
だが、その問いが的外れでないことは分かる。
「辞めた者か。亡くなった者か」
「どちらもだ」
嵯峨殿はそれ以上説明しない。
少将も、理由を求めなかった。
「調べる」
そう言って、少将は立ち上がった。
嵯峨殿は止めない。
立ち上がり、少将の袖口へ手を伸ばし、結び目を一度直した。
少将は息を整え、山荘を出た。
⸻
宮中へ戻ると、人の気配が厚かった。
今夜の涼みの催しが近いせいだろう。廊の端々に、仕度の足音がある。布が擦れる音。箱が置かれる音。水を運ぶ音。
少将は近衛府に戻らず、小舎人の竹丸を連れ、そのまま宮中の奥へ行った。
女房たちの区画の手前で足を止める。ここから先は、男の声がそのまま届かない。
「おまえの姉は、ここに勤めているな」
竹丸が頷く。
「呼べ。急ぎだ」
竹丸は走り出した。走り方は相変わらず落ち着かない。音が出る。けれど今は、それが頼もしかった。
少将は廊の柱影で待った。
仕度の人足が通り過ぎ、裾が揺れる。箱がぶつかり、誰かが小声で詫びる。そういう現実の音の中で、先ほど見聞きしたものだけが浮く。
やがて、竹丸が戻って来た。後ろに女房がひとり付いている。
派手な装いではなく下仕え寄りのようだが、袖口の整い方がきれいだ。人の目がある場所で、言うべきことと言わぬことを知っている歩き方をしていた。
竹丸が言った。
「姉の
女房は深くは頭を下げない。礼は取り、顔は上げる。少将を見て、場を読む目になった。
「少将様。何か」
少将は周りを一度だけ見た。
人の往来が切れた瞬間に、声を落とす。
「女房方で、臥せる者が出ている。怨霊の類が出たらしい。見た者が怖がって、伏せている」
女房の目が動いた。知っている者の動きだ。
「……お尋ねの向きは」
「近頃、奥から居なくなった者がおるのではないか」
女房は息を小さく吐いた。すぐ答える気配がなかった。
それから、短く言う。
「春に——ひとり、亡くなっております」
少将はその言葉を待っていたわけではない。けれど、待っていたのだと分かった。
「名は」
「……伊勢の君と呼ばれていた者です」
少将には覚えがない。覚えがないのが普通だ。
少将は言葉だけを重ねる。
「病か」
「違います」
女房が切った。切り方に、場の重さがある。
「自ら」
少将は一拍置いた。
「いつだ」
「春の終わり頃。——
季節が繋がる。
春の催しのあとに、夏の夕涼み。
まさに今夜、帝の御前でまた薫物合が行われる。
一気に気持ちがざらつく。
「何があった」
女房は少将を見たまま、言葉を選んだ。
選んだ末に、削って言う。
「秘伝の
「盗まれた」
「はい。けれど、証がございませぬ。先に使われたと申したところ、
少将の袖の中で指が固くなる。
虚言、という言葉は、言われた場所ごと人を削る。
「誰が先に使った」
女房は返事を躊躇する。
「名を出せば、また、同じことが起きます」
少将は声を落とした。
「今夜は御前だ。先に口が回れば、守れぬ」
女房のまぶたが一度だけ伏せられた。
そして、必要なところだけ言う。
「
少将は眉を寄せた。
「その者が盗んだのか」
椿は息を小さく吐いた。
「……確かなことは、誰も申しません。けれど」
「けれど?」
「春の薫物合の前夜、右少弁の君が伊勢の君の部屋の近くを歩いていたのを見た、という者がおります。翌日、伊勢の君の秘伝と同じ香りが、右少弁の君の香炉から立ち上った、と」
少将の指が袖の中で固くなる。
「伊勢の君は、それを訴えたのか」
「はい。けれど、証拠がございませぬ。『先に思いついただけだ』と言われ、虚言とされました」
椿の声が沈む。
「……そして、伊勢の君は、それから間もなく」
少将は頷かなかった。頷けない。
だが、繋がった。
「右少弁の君は、今夜の催しにも出るか」
「出ます」
女房は今度こそ即答した。
「わかった。よく話してくれた」
少将の言葉に、女房は小さく頭を下げた。
竹丸は椿を見送り、少将を見る。何か言いたげだが、言わない。
少将は廊を急いだ。
――嵯峨野へ。
夕涼みの会の始まる刻が近づく。
⸻
嵯峨野へ馬を駆ける。都から離れるほど、人の声が薄くなる。
座に入ると、嵯峨殿は同じ場所にいた。
硯も紙も動いていない。墨だけが乾きかけている。人の時間の進み方が違う。
少将は座る前に言った。
「女官が死んでいた。春の薫物合のあと、自ら。秘伝の練香を盗まれ、先に使われ、虚言とされた」
嵯峨殿は、少将を見た。
肩の奥ではない。顔を、はっきりと。
「香だ」
短い。
言い切りだった。
「香炉か」
「香炉も、香もだ」
嵯峨殿はそれ以上、言葉を飾らない。
「香は嗅がせる。嗅がせて、囲う。——薫物合は、その場だ」
少将の指が袖の中で固くなる。
「今夜が、御前での薫物合だ」
嵯峨殿は頷かない。
頷かずに、淡い声で言った。
「怨霊を、御前へ出させるな」
「私の父も、帝も、その場に居る」
嵯峨殿の鋭い目が少将を深く見やる。
少将は頷いて、そのまま身を翻して外へ出た。
山荘の門を抜ける頃には、もう空の色が落ちている。
⸻
都へ戻る。
宮中へ近づくほど、人の声が増える。
灯りが増える。衣の色が増える。
夕涼みの会の支度は、すでに始まっている。
少将は、門を抜けるなり小舎人を呼んだ。
「薫物合の席はどこだ」
「清涼殿の——」
少将は足を止めなかった。
廊を急ぐ。
近衛府の詰所へは寄らない。父へ取り次ぐ段取りも踏まない。
段取りを踏めば、間に合わない。
清涼殿へ向かう廊は、人が多い。
少将はその中を割るように進んだ。声を荒げず、ただ止まらない。止める者が居ないのは、冠と父の名の力だ。
催しの場には、御簾や几帳が様々並んでいる。
集う女房たちの顔をあからさまにしないためだ。
「今は誰がお披露目を」
「ちょうど右少弁の君が……」
御前の御簾の前に近づくと、空気が変わる。
人が言葉を控える空気。
その中で、香の匂いが漂う。
御簾の向こうに人影がある。帝だ。
父、東三条の右大臣も座に居る。
その前に、台盤が置かれていた。
腰の高さほどの台盤の上には大きめの
籐できつく編まれた半円の伏籠の下には、問題の香炉があるはずだ。
膝立ちで近寄った女房によって、いま伏籠が外されようとしている。
少将は言葉を選ばずに叫んだ。
「御前、失礼!——その香炉、使うな!」
場が止まる。
扇が止まる。衣擦れが止まる。
女たちが驚き、顔を隠す。
だが、香は止まらない。伏籠の隙間から、匂いが滲む。
几帳の手前にいた父が振り向いた。
東三条の右大臣の視線が少将を捉える。驚きではない。叱責でもない。まず、状況を掴もうとする目だ。
「少将。何事だ」
少将は一歩進んだ。
御前の前へ出る距離だ。普通なら止められる。だが場の者が止められない速さで、少将は伏籠へ近づいた。
「それは、出してはならぬ」
少将は言った。
言い切ってから、しゃがみこみ、伏籠へ手を出した。
伏籠の中に香炉はあった。
陶だ。名品の艶がある。
火種が入れられたばかりだった。
香が、いま立ち上がろうとしている。
側にいた女房が傾けて持ち上げている伏籠の内側が、わずかに白く曇った。
——そこに、何かが寄る気配がある。
少将は躊躇いなく香炉を伏籠から出さず、中の金属の盆へ叩きつけた。
乾いた音がした。
割れた。陶が裂け、火種が散り、香が一瞬だけ強く立った。
その瞬間、少将は見た。
傾けた伏籠の中に、顔があった。
顔だけが、そこにある。
髪が長い。白い頬が近すぎる。
口元が横に大きく、笑いの形を作っている。
目を大きく開けて、顔は左右に揺れていた。
少将は伏籠を力いっぱい伏せ、目を逸らした。
像は目の奥に貼りつく。
場の誰もが息を呑んだ。
けれど、皆に見えたのは、薄く立ち上る白い霞のようなものだけだっただろう。
「顔」を見た者は、少将と伏籠を開けていた女房だけのはず。
香の匂いが途切れると、白い霞は消えた。
割れた陶片と灰だけが残る。火種は誰かが水で始末したようだ。
場が、ゆっくり戻る。
帝の声が、低く落ちた。
「よし」
帝の肯定に、周りの者たちがふっと息を吐く。
少将は返事ができない。
胸の奥が詰まっている。
父が、少将のほうへ一歩出た。
叱るためではない。確かめるためだ。
「怪異か」
少将は、ようやく息を吐いた。
「……はい」
「よくやった」
父は頷いた。
その頷きは、場への頷きでもあった。
褒められた言葉が、今は重い。
少将は御前の空気が再び固く締まるのを感じた。
そして、遅れて気づく。
伏籠を扱っていた女房の一人が、倒れていた。
誰かが支えようとして、手が止まる。
横向きに倒れた女房の目が、恐怖に見開いている。
まばたきをしない。
少将は一歩動こうとして、父の声に止められた。
「少将。——触るな」
父の言葉は、嵯峨殿の言葉に似ていた。
少将は動けず、倒れた女房の顔を見た。
女房は、恐怖そのものの顔をしていた。
周りがざわめきかけ、すぐ沈む。
帝の前だ。騒げない。
少将は息を整えようとして、整わなかった。
倒れた女房のまわりに、人の輪ができた。けれど輪は密にならない。誰も触れようとしない。
女房の目は見開いたままだった。瞳が何かを映している。
恐怖にゆがんだ口元が、わずかに動いた。笑いの形に——いや、違う。
謝っているのか。許しを乞うているのか。
御前で、声を上げられない。誰もが息だけで動いている。
僧と
首を横に振る動作だけが返ってくる。言葉にしなくても分かる合図だった。
帝の声が落ちる。
「下げよ」
その一言で、人が現実の手順に戻る。
倒れた女房は向こうへ運ばれ、香の席は解かれた。
残ったのは、割れた香炉と灰と、場に残り続ける“見えなかったふり”だ。
少将は、香炉の破片を見た。
艶のある陶が割れて、断面だけが白い。火種の黒と混じっている。
父、東三条の右大臣が少将へ寄った。近い。
声は低い。
「よく止めた。——だが、踏み込みすぎるな」
叱責ではない。
止め方を教える声だ。褒められているのに、背筋が冷える。
「……はい」
少将はそれ以上言えない。
自分の目の奥に、さっきの“顔だけ”がまだある。あの距離の近さが、言葉を削る。
父は視線を外へ投げた。
片付けが始まっている。香炉を扱っていた者たちが、顔色を消して動いている。
一人が伏籠を開ける。
少将は思わず目をそらした。
だが、何も騒ぎは起きず、片付けは進められる。
「倒れたのは誰だ」
少将が竹丸を呼ぶより先に、父が言った。
父のほうが早く拾う。宮中で生きてきた速度だ。
「右少弁の君——香の上手と」
父の目が、一度だけ細くなる。
そして、何も言わない。
少将の胸の奥が詰まった。
恨みの相手。
盗んだか、盗ませたか、奪ったか、奪われたと決めつけたか。
——その中心にいた女房が、御前で死んだ。
少将は、父の前で呼吸を整えた。
褒められる筋の話なのに、吐き気に近いものが上がる。
父は少将へ言った。
「今夜のことは、口を閉じさせろ。お前の判断は、帝の前での判断だ。——噂に落とすな」
少将は頷くしかない。
頷くことで、ひとつ終わった形になる。けれど、少将の中では終わっていない。
⸻
夜。
少将は近衛府に戻っても座に着けなかった。
香炉を叩き割った掌が、まだ熱を覚えている。火の熱ではなく、場の熱だ。
小舎人の竹丸が戻り、拾った話を短く告げる。
先ほど倒れた女房はやはり、命を落とした、と。
春の薫物合で、秘伝の練香を持っていた女房がいた。
それが、別の者の香として先に出た。
嘘つきとされた女房は、ほどなく自ら死んだ。
そして春から夏へ、勝った側の香炉が、あちこちで使われ続けた。
少将は聞き終え、口を閉じた。
筋は通る。
そのぶん、胸が余計に冷える。
少将は、最後の手順を踏むために嵯峨野へ向かった。
ただ報告のためではない。自分の中身を戻す場所が必要だった。
⸻
嵯峨野山荘。
嵯峨殿は座にいた。
硯の墨が、今度は乾いている。時間が進んだ証がそれだけだ。
少将は座る前に言った。
「香炉を割った。御前で。——だが、女房が一人、死んだ」
嵯峨殿は、少将の顔を見て、短く言う。
「見たか」
少将は息を置いた。
「……見た」
嵯峨殿は、何も言わない。
言わない代わりに、立ち上がった。奥へ行き、湯の器を持って戻る。湯気は強くない。色が濃い。
「飲め」
少将は器を受け取った。
匂いが青い。薬湯だ。苦い。鼻の奥が少し痛む。
それが、なぜか助かる。
少将は一口飲んだ。苦味が喉を落ちる。
香の匂いが、ようやく薄くなる気がした。
「主上は『よし』と。父にも褒められた」
少将が言う。
言った瞬間、自分でも可笑しかった。褒められたことを報告しているのに、声が沈む。
嵯峨殿は、少将を見たまま言った。
「褒めるしかない」
少将は眉を寄せた。
「私は、助けたつもりだった。御前を。父を。——けれど」
「けれど?」
「一人、死んだ」
少将の声が低くなる。
「死んだ女房が、本当に盗んだのかも分からぬ。もしかしたら、無実だったかもしれぬ。それなのに、私が香炉を割ったせいで——」
「違う」
嵯峨殿が遮った。
「おまえが割らねば、御前で何が起きたか分からぬ。おまえは、助けた」
「だが——」
「助けた」
嵯峨殿は繰り返した。
その短さが、慰めに近い。
少将は黙った。
嵯峨殿の言葉を、受け取るしかない。
少将は器をもう一口飲み、口を拭った。
「……なら、なぜ死んだ」
嵯峨殿は、少将から目を外さない。
「呼ばれた側が勝てば、生きる。負ければ、連れて行かれる」
「あの者は、負けた、と……」
嵯峨殿は低く静かに言う。
「そうだ。そして、おまえは勝った。ここに戻った」
少将は薬湯の器を見下ろした。
「……では、伊勢の君は満足したのか。連れて行きたかった相手を連れて行って」
「分からぬ」嵯峨殿は短く言った。「怨みは、終わりを決めぬ」
「……
少将は、嵯峨殿の
「なんだ。子どものころに戻ったか――
嵯峨殿は咎めない。少将の諱を返しのように言う。
少将は黙った。
目の奥で「顔」が笑う。
嵯峨殿は、薬湯の器を少将の前へ戻させるように、視線で促した。
少将が器を置くと、嵯峨殿は言った。
「今夜は帰るな。ここで寝ろ」
少将は顔を上げた。
「お前の家だぞ」
「知っている」
嵯峨殿は言った。
そこで、言葉が終わる。余計な飾りがない。
⸻
夜更け。
少将は山荘の客の寝所で横になった。
目を閉じると、すぐ顔が来る。あの距離で、顔だけが来る。
少将は身を起こし、渡された薬草の包みを嗅いだ。
青い匂いが鼻を刺す。苦味が舌の奥に戻る。
それで、少しだけ現実に足が着く。
嵯峨殿の声が、先ほどのまま蘇る。
『おまえは勝った。ここに戻った』
少将は、薬草の匂いをもう一度深く吸った。
目を閉じた。
夜半、少将は目を閉じたまま、伏籠の中の顔を思い出していた。
あの距離。あの笑い。見開いた目。左右に揺れて迫る。
喉の奥が詰まる。
そのとき、障子の向こうで気配がした。
足音はない。けれど、嵯峨殿がそこに立っているのが分かる。
少将は目を開けた。
障子の隙間から、細い灯りが漏れている。
「……起きているのか」
嵯峨殿の声だった。
少将は身を起こした。
「ああ」
障子が少しだけ開いた。
嵯峨殿が立っている。長い黒髪を束ねたまま、薄衣一枚の姿だ。
「薬湯を足そうか」
「……頼む」
嵯峨殿は奥へ消え、すぐ戻って来た。
湯の器を少将の前に置き、そのまま少し離れた場所に座る。
少将は湯を一口飲んだ。苦味が喉を落ちる。
嵯峨殿は黙って少将を見ていた。
「……御前で、何を見た」
少将は器を持ったまま、言葉を選んだ。
「顔だ。伏籠の中に、顔だけがあった」
嵯峨殿の目が、わずかに細くなる。
「距離は」
「近かった。——触れるほど。目を逸らした」
嵯峨殿は息を置いた。
「よく、目を逸らした」
「……逸らさねば、どうなっていた」
嵯峨殿は答えなかった。
少将は湯を飲み干した。
器を置くと、嵯峨殿が言った。
「今夜は、私がここに居る」
少将は顔を上げた。
「見張りか」
「違う」
嵯峨殿は短く言った。
それ以上、説明しない。
少将は、ふっと息を吐いた。
「……助かる。時雨」
嵯峨殿は頷かなかった。
代わりに、短く言った。
「眠れ。実弥」
命令ではない。願いに近い声だ。
立ち上がらずに、そこに座ったままいる。
少将は再び横になった。
嵯峨殿の気配が、すぐ近くにある。
その夜、少将は眠れなかったが、目を閉じることはできた。
そして、朝が来るまで、嵯峨殿はそこに居た。
夏夜に笑う顔〜平安もののけ奇譚〜 緑山ひびき @midoriyama_hibiki
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