パリに私はいなかった
穂積 歩夜
パリに私はいなかった
――パリに来れば、人生が変わると思っていたよ。
パリの街の一角にある、こぢんまりとした日本食スーパーのレジに立ちながら、私は深い溜め息を吐いた。
フランスという国に興味を持ち始めたのは、祖母の家にあったフランス人形がきっかけだった 。
栗色のカールした髪に、フリルたっぷりの赤いドレス。祖母の嫁入り道具だったという話も含めて、女の子の心を掴むには、十分すぎる素材だった。ガラスケースの中に凛と佇む美しいフランス人形を、幼い日の私は、時に何時間も飽きずに眺めていた。
――将来は、こんなお人形さんみたいに綺麗になりたい。フランスに行ったら、なれるのかな。
当時の私は、そんな女の子らしい夢を抱き、フランスという未知の世界に憧れた。人形みたいに美しくなった未来の自分の姿を思い浮かべて、うっとりとしていたものである。
大きくなると、さすがにお人形さんみたいになりたい、とは思わなくなったが、フランスという国への憧れはそのまま持っていた。カヌレとかマカロンとか、フランスに関する単語はいちいち何でも気になった。
大学の授業でも、第二外国語はフランス語を専攻した。甘美な響きを持つ独特の発音に、私は心を奪われた。ワーキングホリデーや留学を考えたこともあった。
でも、結局、当時は実現しなかった。大学時代はサークルやバイトに明け暮れ、海外に行かずとも、毎日が充実していたからである。
就職もさほど苦労せずに済み、無難な会社に入った。文句のつけようもないホワイト企業。このまま平穏な人生が送れたらいいな、と思っていた。
しかし、三十歳を手前にして、私は突如、代わり映えのない毎日に虚しさを覚えるようになった。
結婚とか出産とか、これぞ女の人生、というようなきらきらした話題が、周囲で続いていたからかもしれない。悪いことがあったわけではないのだけれど、このままで良いのかと、自分の人生に危機感が出てきた。
――私って、何がしたい人なんだっけ。
自分というものの実体が、どこにもないことに気づいてしまったら、私は居ても経ってもいられなくなった。
そこで、ふと脳裏に蘇ってきたのが、かつて抱いていたフランスへの強い憧れである。
フランスに行ったら、自分というものが見つかって、人生が何もかも良い方向に変わるのではないだろうか。
ワーキングホリデーの制度を改めて調べ、今からでも行けそうだと分かると、私は人生を動かす決心をした。
三十歳という、ワーキングホリデービザの年齢制限ギリギリでの渡航――通称「ギリホリ」を実行することにしたのである。
滞在先に選んだのはパリだった。ビザの期限はたったの一年だけれども、映画に出てくるようなパリの街角のカフェで働く経験ができたら、一生の財産になると信じて疑わなかった。
意外なほど、私には不安がなかった。渡航の日まで、ただただ期待に胸を膨らませた。
長いフライトを終え、石畳のパリの街を歩くと、夢にまで見たお洒落な街並みや、あちこちから漂うバゲットの香りに心が躍った。道行く人が全員、映画俳優みたいに見えた。彼らと同じ空間にいるだけで、私はもう、生まれ変わったような気持ちになっていた。
だが、それも最初の一週間程度。その後の私を待っていたのは、夢をも吹き飛ばすような生々しい現実だ。
すぐに、日本と比べて不衛生な環境が気になるようになった。バゲットの香りよりも先に、街に染みついた糞尿の臭いが鼻についてしまう。地下鉄の駅の中では、実際にその場で用を足している人まで目にした。
天候も気に入らなかった。曇りが多くて、何はなくとも気分が落ち込む。かと言って、晴天も歓迎できなかった。夏のパリは、日本と同じように、三十度を超える日も珍しくない。それなのに、エアコンがある場所は限られる。一般家庭にはまず、ないのである。
フランス人と同じ生活をしてみたい、と憧れて選んだアパルトマンも、いざ住んでみれば不便なことだらけだった。まず、四階なのにエレベーターがない。建物も設備も何もかもが古くて、防音なんてもちろんない。週末になれば、上の階も下の階も、パーティーで馬鹿騒ぎ。うるさくて眠れたものではなかった。
水回りにも不満があった。シャワーは日本人の感覚でのんびり使っていると、タンクのお湯がすぐなくなってしまうから、何度もボイラーでお湯を沸かさなければならない。その度に待ち時間が発生して、時間がもったいない。コスパ、タイパという概念は、どうやらフランスにはないらしい。
しかも、日本と違って硬水だから、髪がよく抜けるようになったし、水が乾いた後には白い石灰が残る。まめに掃除をしないと、どちらも排水溝に詰まってしまうから、非常に面倒だ。
そして、トイレには暖房便座など存在しなかった。冬ならばそのまま、ひんやり冷たい。しかし、街中のトイレには、便座がないことさえあったから、贅沢は言えなかった。
海外ドラマに憧れてルームシェアを選んだけれど、これも大失敗だった。日本人が作った日本語の情報サイトで探した自分が悪いのだが、ルームメイトは全員が日本人で、顔を合わせれば当然、日本語でコミュニケーションを取る。そのせいで、全くフランス語が上達しない。
いくらかフランス人の友達はできたが、みんな日本に留学経験のあるような、日本語に堪能な人たちばかり。会話はもっぱら、日本語である。
一ヶ月、二ヶ月と滞在しても、私はフランス語の挨拶さえ満足にできなかった。そんな調子だから、もちろん、カフェなんかでは雇ってもらえなかった。そもそも、応募しようにも、フランス語の履歴書をまともに書けなかったのである。
貯金が尽きかけて後がなくなり、日本人の友達の紹介でようやく就けた仕事は、うらぶれた街角にある小さな日本食スーパーだった。
オーナーも、スタッフも、みんな日本人。お客さんも、ほとんど現地に住んでいる日本人。お金をやり取りする段になり、通貨がユーロなのを見て、ようやくここがフランスだということを思い出すような始末。
――私、何しに来たんだっけ?
でも、私は自分を情けないとは思わなかった。
ここに来て分かったことがある。私みたいな人は、存外、多いのだ。
海外に来れば何か変わるだろうという期待だけ抱いて、無計画な行動を続けた人は大抵、私みたいになっている。
日本食スーパーの私の同僚・ありすもそうだった。早々にフランス語を諦めた彼女は、私と同じギリホリ仲間である。ワーホリに来てすぐにここで働き始めて、それ以外の時間はずっとゲームをして過ごしているらしい。
彼女の両親は、どちらもフランスに留学していた経験があり、そこで出会って結婚したそうだ。だから、彼女も『ありす』なんて、フランス人でも通用する可愛らしい名前を与えられた。
だが、今なお日本文化にどっぷり浸った彼女の振る舞いを見ていると、フランスに興味があるかどうかさえも、疑わしいところである。
「ねえ、ひまり」
勤務中にもかかわらず、スマホでゲームをしながら、ありすが私に話しかけてきた。
「何?」
「あんたのライフ、どれくらいだっけ?」
彼女の言う『ライフ』は、ワーキングホリデービザの残り期間を指している。
「六ヶ月だけど」
「いいなぁ。あたし、もう三ヶ月切った」
彼女は盛大な溜め息を吐く。
「経験値は?」
彼女の言う『経験値』は、フランスに来てから増えた体重を指している。
「五キロだけど」
「いいなぁ。あたし、十キロは太った」
いろいろと期待外れなことが多いけれど、さすがはフランス、食べ物はとても美味しい。スーパーでバゲットやチーズ、乾燥ソーセージを調達し、日本よりも遥かに安く手に入るワインと一緒に味わうのが、私のお気に入りである。ここに来てからは、ワイン一本くらい、一人で軽く空けてしまうようになった。
しかし、そういう食事は、驚くほど日本人を太らせる。
「あたし、このままじゃ帰れない。体重以外に得られたものがない」
「そんなこと言ったって、帰るしかないじゃない。それに、帰国して日本食生活に戻ったら、体重は自然に落ちるって言うよ? 心配ないよ」
「あと三ヶ月もしたら、あんたもそんなこと言えなくなるよ」
「そうかなぁ……」
本当は、そうかも、と嫌な焦りが出てきていたが、私は平静を装った。
「あたし、考えたの。男を捕まえて、この状況をどうにかしよう、って。この際、フランス人なら誰でもいい」
「は?」
「日本人女性って人気でしょ? その気になればいけると思う」
随分と飛躍した考えではあるが、彼女の言うことには一理ある。アジア圏の女性は、比較的モテるのだ。――ただし、歓迎されない理由で。
フランスに来たばかりの頃、ワーキングホリデーの先輩に言われたことがある。
「イエローフィーヴァーに気をつけてね」
「イエローフィーヴァー? 黄熱病ですか? アフリカで、蚊に刺されてかかる病気?」
アフリカに植民地を持っていたという歴史から、フランスにはアフリカ系の人も多い。そういう人たちから感染する可能性があるということだろうか。
首を傾げていると、先輩に笑われた。
「違うわよ。黄色人種――つまり、アジア人女性が好きな白人男性って意味。アジア人は簡単だと思われてんのよ」
思わず赤面してしまったことを覚えている。
もちろん、みんながみんなそうではないのだろうけど、男性経験の少ない私は、常に警戒心を持っていた。
「リスク高くない?」
「ひまり、冷静に考えてみて。仕事を捨てて海外に行った三十過ぎの女が、何一つやり遂げたこともないまま帰国する方が、リスク高くない?」
うっ、と私は言葉に詰まる。
パリに来れば、自分というものが見つかって、何もかも良い方向に変わるような気がしていた。だから、渡仏前の私は、将来のことにはとても楽観的で、帰国したらフランス語と海外経験を生かして、バリバリ働いていけると思っていた。
でも、現実はどうだ。
日本語環境で日本人と生活し、パリに来て六ヶ月も経つのに、未だに『ボンジュール』の発音さえままならない。増えた経験値は、ありすと同じく、本当に体重くらいだ。
この状態で帰国したら、どうなるか――ありすよりも三ヶ月猶予があるとはいえ、他人事ではない現実に向き合わされる。
「グローバル化だなんて言うけどさ、今の日本なんてまだまだ保守的だよ。フランス人のパートナーがいるなんて言ったら、それだけで、すごいってなる。勝ち組って思ってもらえる。箔がつくんだよ。今から必死こいて何かやり遂げようとするより、誰でもいいから男作る方が、よっぽど楽だと思わない?」
「それは……」
「あたし、明日の夜、ランゲージエクスチェンジに行こうと思うんだ。日仏限定のやつ。日仏カップルが主催なんだって。ひまりも来ない? ここから一緒に大逆転狙おうよ」
ランゲージエクスチェンジ――言語交換とは、異なる言語を母語に持つ者同士が、お互いの言語を学び合うために交流するイベントのことである。パリに来たばかりの頃は、私もきちんとフランス語を学ぶ意欲があったから、積極的に参加した。
しかし、ランゲージエクスチェンジには、単なる言語の学び合い以上の交流を求める人も混ざっていることを、いくつか足を運ぶ中で知った。
特に、日本人とフランス人だけのランゲージエクスチェンジには、その傾向が強いように思う。
日本人の参加者は、学生やワーキングホリデーの人が多いから、二十代女性に偏る。
かたや、フランス人の参加者は四十代、五十代男性が多い。何年もイベントに参加している常連だというのに、全く日本語を話せない人もいるから、言語交換なんてしていないのがバレバレだ。
彼らは、簡単な日本人女性を捕まえに来ている。
実際に私は、男性に連絡先の交換を迫られたり、食事に誘われたり、何度か居心地の悪い思いをした。
「ひまり。泣いても笑っても、あと半年だよ」
返事をしない私に、ありすが迫る。私はついに折れた。
「分かった、行くよ」
ありすは、ぱっと顔を輝かせる。
「そうこなくっちゃ! 明日、八時から。会場はここから遠くないんだ。仕事終わったら、そのまま一緒に行こう」
仕事が終わるのも八時だが、そんなこと、私もありすも気にしない。フランスじゃ、時間ぴったりになんか誰も来ないのだから。
翌日、仕事を終えた私たちは、会場のバーを目指して歩いた。道中、ケバブ屋さんに立ち寄って、腹ごしらえをする。ソースをどうするか訊かれたから、ケチャップもマヨネーズもたっぷり入れてもらった。
フランスで美味しいのは、フランス料理ばかりではない。手軽なストリートフードでありながら、ボリューム満点のケバブは、私もありすも大好きだ。こういう物ばっかり食べているから、太るんだけど。
八時を回っていても、夏のパリは昼間みたいに明るい。だから、人々もカフェやバーのテラスで、遅くまでビールやワインを片手に騒いでいた。平日でも関係ない。
日本のサラリーマンが居酒屋でしていることと同じなのに、ここがパリというだけで絵になるから、羨ましい。
この絵の中に、私もずっといたい。日本になんか帰りたくない。
「会場、こっちみたい」
スマホで場所を確認していたありすが、路地に入った。何やら不穏な空気が私たちを包む。煙草を吸っている人たちがたむろしている場所だった。彼らがふかす煙の中には、甘ったるい臭いが混ざっている。
フランスに来たばかりの頃は、変わった香りの煙草があるんだなぁ、と思っていたけれど、後からそれが大麻の臭いであることを知った。パリの街中でこの臭いに遭遇するのは珍しいことではないけれど、今から行こうとしているイベントが怪しいだけに、私は怖くなってきてしまう。
「ねえ、やっぱりやめない?」
「泣いても笑っても、あと半年だよ」
ありすの言葉に、私は口答えできなかった。
辿り着いたバーは、ナイトクラブが併設されているようで、まさに夜の遊び場、という雰囲気だった。本気でランゲージエクスチェンジをやるならば、こういう場所は選ばないのではないか、と思う。まあ、想定通りなのだけれど。
バーは人で溢れかえっていた。ランゲージエクスチェンジの人たちを探してきょろきょろしていたら、状況を悟ったバーテンダーが、階段を指さして二階だと教えてくれた。場所を聞く簡単な会話さえ、私たちはできないのだった。
「あら、ようこそお越しくださいました!」
私たちが階段を上がると、主催と思しき日本人女性が出迎えてくれた。気の良いおばちゃん、という感じ。『Mimi』――ミミ、と書いた名札を付けている。ワインを片手に、もう随分と酔っ払っている様子だ。
隣にいる背の高いフランス人が、多分、パートナー。もう頭部が薄い年齢である。『Mathieu』――マチュー、と書いた名札を付けていた。
フランス人には聖人由来の名前が多い。だから、必然的に同じ名前の人ばかりになる。このマチューは、フランスに来てから私が出会った三人目くらいのマチューだ。
「名札、これ」
マチューが、私たちに紙の名札とペンを渡してきた。促されるままに、私たちは名札を準備して服に付け、会場を見渡す。
二階は貸切らしい。私はまず、フランス人の顔ぶれを確認した。主催の日仏カップルと同い年くらいの男性が十名ほど。ほんの数名、学生くらいの年代の男女もいる。
対して日本人の方は、予想通り、二十代くらいの女性がちらほらいるだけ。みんな、フランスに来て日が浅い子たちだと思った。一目見れば分かるのだ。
フランスでの生活に慣れてくると、身なりの整え方だって、だんだんとフランス人じみてくる。毎日の化粧なんてしなくなったりもするし、着る服だって単調になってくる。
まだ日本人が抜けない子たちは、メイクもファッションも、ばちっと決めてくる。
だから、狙われる。
うぶな女の子たちはもう、みんな男性陣に捕まっていた。乗り遅れた男たちの何人かが、期待したような表情で私たちの方を見ている。その視線を受け止めて、ミミが意味ありげな笑顔を浮かべ、甲高い声で叫んだ。
「今日は日本人が少ないかも、って心配してたのよ!」
私は、隠しもせずに顔を顰める。
この男の人たち、世代からして、きっと主催の二人の友達だ。日本人の女の子と出会える会があるから、とでも言って誘ったのではなかろうか。いや、むしろ、男の人たちからお金をもらって、二人の方が頼まれてセッティングしたくらいかも――そんな邪推をしてしまうくらい、私はこの空間が嫌になり始めていた。
余っている男性陣たちは、私たちに品定めするような目線を送ってきたけれど、すぐには誰も動かなかった。他の子みたいな初々しさがないことを見破ったのだろう。
私たちはひとまず、カウンターで飲み物を注文した。ありすは何の躊躇いもなくワインを注文していたけれど、私はコーラにしておいた。酔っ払いたくなかった。
「あたし、あの人に決めた」
ありすは私に耳打ちすると、カクテルを飲んでいる男の所にすたすたと向かっていった。なるほど、他の男性と比べると、比較的身なりが良い。紳士って感じ。お金も持っていそう。年は、二十は離れていそうだけど。
私はどうしようかな、と視線を彷徨わせる。すると、一人の男性がこちらを見ているのに気がついた。この会場には珍しい、まだ若い顔である。ただ、ダークブラウンの前髪がべたっと長いし、俯き加減で、陰鬱な印象を受けた。それに、白字で『忍者』と書いた黒いTシャツを着ている。
あんまりお近づきになりたくない――私は見なかったふりをしようとする。
しかし、その前に彼の方が私に近づいてきた。さすが脚の長いフランス人、予想よりも到達が早い。
彼がビールのグラスを差し出してきたので、私たちは乾杯をした。長い前髪の下から、ブラウンの瞳が私を捉える。
最近になってようやく慣れてきたのだが、フランスでは、乾杯の時に相手の目を見る。最初の頃は、ついグラスを見てしまい、失礼だと怒られたものだった。今も、見つめ合うようでちょっと恥ずかしい。
それが伝わってしまったのか、彼はおかしそうに笑った。どこか幼さを感じさせる笑い方。もしかしたらこの人、私よりずっと若いかも。年上だと思っていた人が年下だったという経験を、私はこの国で何度もしている。
「あじめまして……」
フランス語では発音しない『H』の音をしっかり落とし、彼は自信なさげに話し出した。
「わたしのなまえ、レオといいます。よおしくおねがいします」
やはり、フランス語らしい癖のある『R』の発音を残して、彼は緊張の抜けない声で言う。ちなみに、私がフランスで出会ったレオはこれで二人目だ。
「はじめまして。私はひまりです」
名札の『Himari』を指さしながら、私は自己紹介した。
「いまい?」
「ひまり」
『H』も『R』も含まれる私の名前は、フランス人が発音するには非常に難易度が高い。
「あつおん、むずかし、です」
「そうですよね」
慣れっこなので、私はもはや気にならない。
「いまい、がくせいですか?」
「いいえ」
「じゃ、ワーオリ?」
「そう」
こういう所に来るのは、ほとんど学生がワーホリの人だと知っているのだ。彼の言葉の端々から、私の分析が止まらない。
「レオは、学生ですか?」
向こうが日本語初心者だと分かったから、何となく、こちらの問いかけも教科書的になった。
「そう。がくせい。だいがくいちねんせいです。だいがくで、におんご、べんきょしてます」
「どうして日本語の勉強をしているんですか?」
「におん、すきですから」
「忍者が好きですか?」
私はレオのTシャツを指さす。すると、彼が嬉しそうに笑った。おやつをもらった子供みたいな笑みだった。
「そう、にんじゃ!」
彼の声のトーンが、興奮したように上がる。
「わたし、におん、いきたいです」
「日本で何をしたいですか?」
「にんじゃ、ないたいです。クールですから」
レオはきらきらと目を輝かせて言った。猫背気味だった背中が、いつの間にかピンと伸びている。そのうち、楽しそうに手裏剣を飛ばすふりまでし始める。彼の豹変ぶりに、私は目を剥いた。
忍者、本当に大好きなんだ。
だが、これはどういう意味なのだろうか。忍者のコスプレがしたいということだろうか。それとも、忍者村みたいな観光施設でやっている、忍者体験のようなものがしたいんだろうか。まさか、本当に、忍者になりたいという意味ではないよね?
いずれにせよ、日本語初心者に訊ねるには、ちょっと複雑な文章になる。次の問いを考えあぐねていると、今度はレオの方が私に質問してきた。
「いまい、どうして、フランスきた?」
「えっ?」
私は、今度は頭が真っ白になって、口籠る。
どうしてフランスに来た?
――それは、ここに来れば自分が見つかって、何もかも良い方向に変わると思ったから。
どうしてそんな気持ちになったんだっけ?
――自分というものの実体が、どこにもないことに気づいてしまって、今後の人生に危機感を覚えてしまったから。
そもそも、どうしてフランスだったんだっけ?
――それは……。
「いまい?」
黙り込んで自問自答を始めた私を、レオがあどけない瞳で、不思議そうに見つめている。
若くて無垢な彼が、私は羨ましくて堪らなくなった。大学一年生なら、まだ二十歳そこらだろう。彼にはまだ知らないことも、可能性もたくさんある。だから、忍者になりたいと、こんなにも素直に言ってしまえるのだ。
「いまい、なに、ないたい?」
私は目を瞬く。何になりたいか?
――それは……。それは、確か……。
自分でも気づく前に、私は口を開いていた。
「私、フランス人形になりたい。真っ赤なフリルのドレスを着た、綺麗なフランス人形」
「Pardon?」
知らない単語だらけだったはずだ。日本語で頑張って会話していたレオが、急に素に戻って、フランス語で訊き返す。
でも、私は言い直してやらなかった。
ふっ、と思い出してしまったのだ。幼い日、祖母の家でフランス人形に目を奪われていた時の記憶を。
あの時感じていた将来への希望と、美しいものへの純粋な憧れ――私、どうして今まで忘れていたんだろう?
「いまい?」
「帰らなきゃ」
「え? もう?」
「帰らなきゃ! 今すぐ、日本に!」
私が出した大声に、会場が一瞬、静まり返る。例の男と歓談していたありすも、目を点にしていた。
「ひまり?」
「仕事、今日で退職ってオーナーに言っといて!」
そう叫ぶと、誰の言葉も聞かずに、バーを飛び出す。
私は駆け抜けた。大麻と糞尿の臭いを漂わせ、九時を過ぎてもなお明るい、パリの街を。薄汚いアパルトマンを目指して、真っ直ぐに。
――なってやろうじゃん、フランス人形に。真っ赤なフリルのドレスが似合う、綺麗なフランス人形に。
こんな国で、脂っこいものばかり食べて、ぶくぶく太っている場合ではない。
即刻、帰国だ。ダイエットだ。赤いドレスだって調達しなきゃ。どんなドレスだったか、あのフランス人形をもう一度見に行って、ちゃんと確かめなきゃ。
幼い日に憧れた私に、今からだって、なってやるんだ。
私は、軽やかにアパルトマンの階段を駆け上がった。
パリに私はいなかった 穂積 歩夜 @hoyo_hozumi
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