第22話 鋼の包囲網と招待状

屋敷の裏手、下水溝の出口付近に潜むガエルは、不自然なほどの静寂に肌を粟立てていた。


「……おい、ガエル。変だぜ」


隣に伏せている仲間の少年が、耳元で低く囁いた。 彼らの視線の先、バルガン邸を囲む外壁の上には、いつもなら怠惰な衛兵たちが松明を揺らしているはずだった。酒を飲み、下卑た笑い声を上げているのが日常の風景だ。 だが今夜は違う。


松明の数は半分に減らされ、代わりに闇の中に同化するような、漆黒の装備に身を包んだ男たちが音もなく巡回していた。


「あいつら、いつもの衛兵じゃねえ。……軍人だ」


ガエルは奥歯を噛み締めた。 装備の質、歩幅、そして視線の鋭さ。それは領主が金で雇っている無能な私兵ではなく、訓練され、一人の指揮官のために動く『プロ』の動きだった。


(お嬢、あんたの読み通りだ。屋敷の中はもう、男爵の庭じゃねえ)


エリストールが事前にスレートへ託したメモには、最近、屋敷内の人員が入れ替わっていることへの懸念が記されていた。 マリウスが密かに呼び寄せた手駒。 彼らは男爵の狂気に従うためではなく、別の目的のために配置されている。


「作戦、中止にするか? あの門を突破するのは無理だぜ」


仲間の手が震えている。 ガエルも同じだった。だが、ここで引けばエリストールは永遠にあの塔に、あるいは男爵の狂気に沈むことになる。


「いや、待て。よく見てみろ。あいつら、外を警戒してるんじゃねえ。……中を閉じ込めようとしてるんだ」


ガエルの指摘通り、黒い服の男たちの銃口や槍先は、外敵ではなく屋敷の窓や玄関に向けられていた。 それは警備ではなく、完全な包囲だった。 マリウスは今夜、この屋敷で起きる『何か』を、一滴の情報も外へ漏らさぬよう封じ込めようとしている。


「ガエル、見ろ! 鏡の間に灯りがついた!」


仲間の指差す先、屋敷の最上階に近い大きな窓に、ぼんやりと光が灯った。 あそこに、エリストールがいる。 あそこで、彼女は毒の入ったグラスを手に取ろうとしているはずだ。


「……作戦は続行だ。ただし、プランBに切り替える。男爵が馬車を出すのを待つんじゃねえ。もし混乱が起きたら、あいつらの隙を突いて中へ潜り込むぞ」


ガエルは懐のナイフの柄を強く握った。 彼らが用意した『死体回収用の荷車』は、今や役立たずになる可能性が高い。 それでも、スレートがどこかで彼女を見守っているはずだ。


(頼むぜ、お嬢。あんたが『太陽の涙』で意識を保っている間に、俺たちがそこへ辿り着く。……それまで、死ぬんじゃねえぞ)


夜風が冷たさを増し、雨の匂いが混じり始めた。 運命の晩餐が始まる。 ガエルたちは泥にまみれたまま、嵐の前の静寂を突き破る最初の一撃を待ち続けた。



重厚な扉が左右に開かれた瞬間、エリストールの視界に飛び込んできたのは、無数の自分自身だった。 鏡の間。 壁一面に張られた巨大な鏡が、燭台の炎と、純白のドレスを纏った彼女の姿を幾重にも反射し、逃げ場のない白い迷宮を作り出している。


「……おお、来たか。私の天使よ」


部屋の奥から、這いずるような声が響いた。 テーブルの上座に座る父、バルガン男爵だ。その目は血走り、口元には異様な笑みが張り付いている。 エリストールは、一歩ずつ、死刑台へ向かうような足取りでテーブルへと近づいた。


舌の下には、激しい苦味を放つ『太陽の涙』が溜まっている。 口をわずかにでも動かせば、黄金色の液体が溢れ出してしまうだろう。彼女は唇を固く結び、一言も発さずに父の正面へと座った。


「どうした、エリストール。声も出ないほど、このドレスが気に入ったのかい?」


男爵が身を乗り出し、彼女の顔を覗き込む。 その息は荒く、酒と薬の匂いが混じっていた。エリストールはただ無言で、小さく頷いて見せた。 その横で、執事マリウスが音もなく動き、エリストールの前に銀の皿を置いた。


「今夜の料理は、旦那様の格別な計らいにより、すべて特別製でございます」


マリウスの声は、恐ろしいほど平坦だった。 彼はエリストールの横に立ったまま、彫像のように動かない。その指先が、わずかに懐の隠しポケットのあたりに触れているのを、エリストールは見逃さなかった。 マリウスは何を待っているのか。男爵が毒を盛る瞬間か、それともエリストールが倒れる瞬間か。


「さあ、始めよう。外の世界の穢れをすべて忘れ、家族だけの『永遠』を祝うのだ」


男爵が合図すると、マリウスは中央に置かれたクリスタルのデキャンタを手に取った。 中に満たされた透明な液体が、炎を反射して不気味に揺れる。高濃度の仮死毒、『月の吐息』だ。


トクトク、と小気味よい音が響き、エリストールのグラスに毒が注がれていく。 部屋の温度が、一気に数度下がったような錯覚に陥る。 鏡に映る無数のエリストールたちが、一斉にグラスを見つめていた。


心臓の鼓動が耳の奥で激しく打ち鳴らされる。 恐怖で指先が震えそうになるのを、彼女は必死で抑え込んだ。 ここで失敗すれば、鏡の中の自分たちはすべて、永遠に目覚めることのない人形へと変わる。


「さあ、お飲み。……痛みはない。ただ、長い夢を見るだけだ」


男爵のその言葉こそが、地獄への招待状だった。 エリストールは、ゆっくりと、しかし確かな足取りでグラスへと手を伸ばした。

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