第21話 氷の晩餐会への序曲

窓の外で、太陽が血のように赤い光を放ちながら地平線へと沈んでいく。運命の夜が来た。


エリストールは、父から贈られた純白のシルクドレスに袖を通していた。冷たい絹の感触が肌を滑る。鏡に映る自分の姿は、これから祝宴に向かう令嬢というよりは、祭壇に捧げられる生贄そのものだった。


「……行きなさい、スレート」


エリストールは、窓枠に小さな相棒を乗せた。スレートは不安げに鳴き、彼女のドレスの裾を引っ張ろうとした。まるで、一緒に行くと訴えるように。


「だめよ。今日は危険すぎる」


彼女は指先でスレートの頭を優しく撫でた。もし計画が失敗すれば、この部屋は殺戮の場になるかもしれない。あるいは、父の狂気が暴走し、部屋ごと焼かれるかもしれない。小さな友人を巻き込むわけにはいかなかった。


「ガエルのところへ行って。……そして、私が死体として出てくるのを待ってて」


言い聞かせると、スレートは黒い瞳を潤ませながらも、主人の覚悟を悟ったように頷いた。そして、素早い動きで外壁の蔦を伝い、闇の中へと消えていった。


部屋に一人残されたエリストールは、袖口の隠しポケットから小さな小瓶を取り出した。黄金色に輝く粘度の高い液体、『太陽の涙』だ。あらゆる昏睡毒を無効化する最強の解毒剤。


コン、コン。


扉がノックされた。正確無比なリズム。執事マリウスだ。


「お迎えに上がりました、お嬢様」


エリストールは小さく息を吸い込んだ。ここからは、一言も発してはならない。彼女は小瓶のコルクを抜き、中身を一気に口の中へと流し込んだ。 舌が痺れるような強烈な苦味。だが、彼女はそれを飲み込まず、舌の下に留めた。この薬は、毒と混ざり合うことで初めて効果を発揮する。父が勧める『月の吐息』を飲むその瞬間まで、口の中で維持しなければならない。


彼女は空になった小瓶を窓の外へ投げ捨てると、鏡に向かって最後の確認をした。顔色は蒼白だが、それは恐怖のせいだけではない。これから演じる死にゆく白鳥にとって、これ以上の化粧はないだろう。


ガチャリと扉が開いた。正装したマリウスが、恭しく一礼する。


「……準備はよろしいですか」


エリストールは無言で頷いた。口を開けば、黄金の雫が垂れてしまう。その沈黙をどう受け取ったのか、マリウスは何も言わずに手を差し出した。 エリストールはその手を取り、部屋を出た。長い螺旋階段を降りていく。コツ、コツ、とヒールの音が石畳に響く。それはまるで、断頭台へと続くカウントダウンのようだった。


その頃、屋敷の最奥にある『鏡の間』は、死後の世界のように静まり返っていた。窓は厚いベルベットのカーテンで完全に閉ざされ、外の世界の騒音、すなわち遠く響く砲撃音や風に混じる焦げ臭さを拒絶している。


バルガン男爵は、長いテーブルの上座に座り、懐中時計の蓋を何度も開け閉めしていた。


「あと五分……。いや、三分か」


彼は落ち着きなく立ち上がり、テーブルセットの微調整を始めた。銀のフォークの角度、ナプキンの折り目。すべてが幾何学的な完璧さで並んでいなければ気が済まない。今日の晩餐は、ただの食事ではない。神聖な儀式なのだ。


男爵の視線が、テーブルの中央に置かれたクリスタルのデキャンタに吸い寄せられた。中には、氷のように透き通った液体が揺れている。東方の密売人から法外な値段で買い取った、至高の仮死毒、『月の吐息』だ。


「美しい……」


男爵はデキャンタに触れ、その冷たさに恍惚とした溜息を漏らした。これを飲めば、人は苦しむことなく永遠の夢を見る。心臓の鼓動は極限まで遅くなり、老化も止まり、ただ美しい肉体だけがそこに残る。


「外の世界は汚れている」


男爵は独り言を呟いた。西の野蛮な兵士たちが、土足でこの領地を踏み荒らそうとしている。疫病が流行り、民は飢え、秩序が崩壊していく。そんな醜い世界に、私の天使エリストールを晒すわけにはいかない。 エリストールは一番美しい瞬間のまま、時を止めるべきなのだ。ガラスの棺に入れて、毎日その髪を梳き、新しいドレスを着せ替える。それこそが、親ができる最高の守護ではないか。


「そうだ。私は正しい。誰よりも娘を愛している」


男爵は震える手で、自分のグラスに毒を注いだわけではない。ただ、その美しさを確かめるように光にかざした。


コツ、コツ、コツ。


廊下の向こうから、規則正しい足音が近づいてくる。一つは重く、もう一つは軽く繊細なヒールの音だ。来た。 男爵は居住まいを正し、強張っていた表情を緩めた。鏡に映る自分の顔を確認する。優しく、慈愛に満ちた父親の顔になっているだろうか。


「さあ、おいで。私のエリストール」


彼は両手を広げ、入り口の扉を見つめた。その瞳孔は興奮で大きく開き、常軌を湿らせた不気味な輝きを放っていた。扉の向こうにいるのが、従順な娘ではなく、口の中に『太陽』を隠し持った反逆者であることなど、露ほども疑わずに。


重厚な扉が、ゆっくりと内側へと開かれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る