第23話 最後の晩餐と砕かれたグラス

ガシャン!!


鋭い破砕音が、静寂を引き裂いた。 エリストールの手よりも先にグラスが取り上げられ、床に叩きつけた。 飛び散った毒液が、絨毯をジュワリと濡らす。


「な……っ!?」


男爵が目を見開き、犯人を見上げた。 そこには、無表情のまま佇む執事マリウスがいた。 彼は懐から白いハンカチを取り出し、汚れた手袋を拭うように外した。


「ま、マリウス! 貴様、何をする! これは娘を救うための神聖な儀式なのだぞ!」


男爵が顔を真っ赤にして怒鳴りつける。 だが、老執事は微動だにしない。 彼は冷ややかな瞳で、かつての主人を見下ろした。


「旦那様。ご乱心が過ぎます」


その声は、氷点下の冷たさだった。


「救済? 永遠? ……非合理的です。この『器』をただの標本にするなど、資源の無駄遣いにも程がある」


「な、何を言って……私は当主だぞ! 衛兵! 衛兵!!」


男爵が扉に向かって叫んだ。 ガチャリ、と扉が開き、武装した衛兵たちがなだれ込んでくる。 エリストールは椅子から立ち上がり、壁際に退いた。 だが、衛兵たちが槍を向けたのは、西の刺客でも、謀反を起こした執事でもなかった。 彼らの槍の穂先は、バルガン男爵に向けられていた。


「ひっ……!? き、貴様ら、誰から給金をもらっていると……」


「私です、旦那様」


マリウスが淡々と告げた。 その瞬間、エリストールは全てを悟った。 父が狂気と浪費に溺れている間に、屋敷の実権、財産管理、そして私兵の掌握——全てがこの執事の手に移っていたのだ。


「西の国との戦争も始まります。今の貴方様のような不安定な精神状態では、領地経営に支障が出ます。……静かな離れで、療養していただきましょう」


「やめろ! 放せ! エリストール! 私の娘だけは……!!」


男爵は衛兵たちに両脇を抱えられ、引きずられていった。 娘を守らねばという絶叫が、廊下の向こうへ遠ざかり、やがて聞こえなくなった。 部屋には、エリストールとマリウスだけが残された。


彼女は、口の中にある太陽の涙を吐き出した。 毒を飲む必要はなくなった。 だが、状況は好転したのだろうか?


「……助けてくれたの、マリウス?」


彼女は震える声で尋ねた。 マリウスはゆっくりと彼女の方へ向き直った。 その表情には、先日のようなテストの時とは違う、明確な支配者の色が浮かんでいた。


「勘違いなさらぬよう。貴重な『財産』が損なわれるのを防いだだけです」


マリウスは床に散らばったガラス片を靴底で踏み砕いた。


「お嬢様。貴女には稀有な知性がある。あの愚かな父親と共に心中させるには惜しい。……これからは、私が貴女を管理いたします」


「管理……?」


「ええ。塔の警備は倍にします。窓の金網も、より強固なものに変えましょう。今後、旦那様との面会も禁じます」


それは、今まで以上の完全な監禁宣告だった。 父の檻は「歪んだ愛」だったが、マリウスの檻は「冷徹な計算」で作られている。 隙などないだろう。


マリウスは懐から一束の書類を取り出し、テーブルに置いた。


「さて、命を拾った代償を払っていただきましょう。……これは領内の食料配給と、西の軍の動向予測に必要な暗号文です。明日の朝までに解読し、最適解を導き出しなさい」


「もし、断ったら?」


「ガエルという名の便利屋と、路地裏のねずみたち。……彼らがどうなるか、賢い貴女ならお分かりでしょう?」


エリストールは息を呑んだ。 彼は全て知っている。 その上で、彼らを人質に取り、エリストールを塔の中の参謀として利用しようとしているのだ。


「……分かったわ」


エリストールは書類を手に取った。 純白のドレスは、今や囚人服のように重く感じられた。 だが、彼女は瞳の光を失ってはいなかった。 父という狂気から、マリウスという論理へ、敵が変わっただけだ。 論理で攻めてくるなら、こちらの得意分野だ。


「期待しておりますよ。……私の、小さな賢者様」


マリウスは恭しく一礼し、エリストールを塔へ連れ戻すよう衛兵に指示した。 長い夜が始まる。 毒よりも苦い現実を噛み締めながら、囚われの令嬢の新たな戦いが幕を開けた。

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