第28話 迫り来る鉄鳴りと最初の軍令
街から西へ十キロ。国境付近に広がる深い森の中は、夜明け前だというのに異様な熱気に包まれていた。 木々の間から漂ってくるのは、朝霧の湿った匂いではない。焦げた油と、研がれた鉄の匂いだ。
「……おいおい、冗談だろ」
巨木の上に身を潜めたカミラは、眼下に広がる光景を見て口元を引きつらせた。 隣の枝では、ファルクが青ざめた顔で単眼鏡を覗いている。 彼らの視線の先、街道沿いの広場を埋め尽くしていたのは、ただの荒くれ者の集団ではなかった。
全身を分厚いプレートメイルで覆った重装歩兵たちだ。 その数はざっと五百。 彼らが動くたびに、ガシャリ、ガシャリと、森の静寂を押し潰すような金属音が響く。
「『鉄甲騎士団』だ。西の国が誇る、動く城壁だよ」
カミラが忌々しげに吐き捨てた。 それは傭兵稼業をしていれば誰もが知る、最悪の相手だ。 彼らの戦術は単純かつ暴力的だ。圧倒的な装甲と重量で密集陣形を組み、敵をすり潰しながら前進する。 矢も通じず、剣も弾く。魔法のないこの世界において、彼らは物理的な最強の質量兵器だった。
「工作員のザイードとかいう奴、本気で街を落とす気だぜ。あんなのが市街地に入り込んだら、家ごと踏み潰される」
「……報告しよう。これは、ガエルのナイフやカミラの剣でどうにかなる相手じゃない」
ファルクは音もなく木を降りると、茂みに隠しておいたスレートの籠を開けた。 小さなねずみの背中に、震える手で走り書きしたメモを結びつける。 相手は質量と数の暴力。 それに対抗できるのは、塔の中にいる知恵だけだ。
*
塔の最上階。 朝日が差し込む執務室で、エリストールはスレートが運んできたメモを広げていた。 その横顔を、執事マリウスが冷徹な視線で見下ろしている。
「『鉄甲騎士団』。……西側も、随分と奮発しましたね」
マリウスは紅茶を注ぎながら、他人事のように言った。
「彼らの装甲は、我が領の守備隊が持つ槍では貫通不可能です。平地でぶつかれば、数分でこちらの防衛線は決壊するでしょう」
「……ええ。物理的に考えて、正面突破は不可能よ」
エリストールは地図の上に赤いインクで騎士団の位置を書き込んだ。 彼女の脳内で、五百の鉄塊が街へ進軍するシミュレーションが高速で走る。 止められない。 門を破壊され、広場を制圧され、この塔が包囲されるまで、半日とかからない。
「それで? 降伏を提案しますか? 賢者様」
マリウスが試すように尋ねた。 エリストールは顔を上げ、執事の目を真っ直ぐに見据えた。
「いいえ。彼らには致命的な弱点があるわ」
彼女はペンを取り、街の入り口にある、最も長く急な『大坂』を丸で囲んだ。
「彼らは重すぎるのよ」
「……ほう」
「全身鎧の総重量は一人あたり四十キロを超える。それに武器と自身の体重を合わせれば百キロ以上。彼らは強固だけれど、一度ついた勢いを止めることはできない」
エリストールは別の紙を取り出し、素早い手つきで配合表を書き殴った。
「ガエルたちに伝えて。街中の『油』を買い占めるの。食用油、機械油、なんでもいいわ。それと、石鹸を作る工房から大量の灰汁を」
「滑らせるつもりですか? ですが、彼らの靴底には滑り止めのスパイクがありますよ」
「ただ滑らせるだけじゃないわ。……炙るのよ」
エリストールの瞳に、冷たい光が宿った。
「あの大坂に油と灰汁の混合液を撒き、彼らが密集して登ってきたところで足場を奪う。重装歩兵は一度転倒すれば自力で起き上がるのに時間がかかるわ。そこへ火を放つの」
「焼き殺すと?」
「いいえ。殺す必要はないわ。鉄は熱を吸いやすい。外から炙れば、中は数分で耐え難い温度になる。パニックになった彼らは、命を守るために自ら鎧を脱ぎ捨てるでしょう」
それは残酷だが、血を流さないための唯一の策だった。 敵の最強の武器である鎧を、逆に彼らを追い詰める檻に変えるのだ。
「……素晴らしい」
マリウスは初めて、心からの感嘆を漏らしたように口元を歪めた。 彼はエリストールが書いた配合表を手に取り、恭しく一礼した。
「貴女はやはり、父君よりも優秀な支配者だ。敵を人として見ず、ただの質量として処理できる冷徹さがある」
「勘違いしないで。私は誰も殺したくないだけよ」
「結果は同じことです。……直ちにガエルたちへ指示を飛ばしましょう。物資の調達には私の裏帳簿を使って構いません」
マリウスが部屋を出て行く。 エリストールは一人、窓の外を見つめた。 遠く西の空には、不気味な黒い雲が湧き上がっていた。
彼女は震える手を膝の上で握りしめた。 人を攻撃するための指示を出した。 間接的とはいえ、自分の知恵が、数百人の人間に恐怖と苦痛を与えることになる。 その事実に指先が冷たくなるのを感じながらも、彼女は逃げるわけにはいかなかった。
「……お願い、ガエル。準備を急いで」
彼女は再びスレートを呼び寄せ、詳細な配置図を書き始めた。 風向き、傾斜角度、油の粘度。 すべての変数を計算し、勝利の方程式を組み上げる。 それが、今の彼女に許された唯一の戦い方だった。
*
街の市場は、朝から異様な熱気に包まれていた。 ガエルたちが走り回り、店という店から油樽を買い集めていたからだ。
「おいおい、兄ちゃん! 全部買うって本気か!?」
油屋の親父が目を丸くする。 ガエルはマリウスから渡された重たい革袋をカウンターに叩きつけた。
「本気だとも! 領主代行からの特別注文だ。一滴残らず寄越しな!」
隣では、トトたち子供組が空き瓶を集め、カミラたちがボロ布を詰め込んでいる。 即席の松明と着火剤だ。 街の人々は、何が起きているのか完全には理解していなかったが、ガエルたちの真剣な表情と、『賢者様の指示だ』という言葉に押され、協力の手を貸し始めていた。
「準備完了だ、ガエル!」
油と煤にまみれたカミラが、親指を立てて合図を送る。 ガエルは空を見上げた。 太陽が真上に昇りつつある。 敵の進軍速度から計算すれば、あと二時間もしないうちに、あの坂道に鉄の軍団が現れるはずだ。
「ここが正念場だ」
ガエルは坂の上、バリケードの陰に隠した大量の油樽を見つめた。 震えそうになる足を叩き、自分を鼓舞する。
「お嬢の計算が正しいってことを、あの鉄屑どもに教えてやるぞ!」
遠くから、地響きのような行進音が聞こえ始めていた。 物理と知略対圧倒的武力。 バルガン領の命運を賭けた防衛戦の幕が、今まさに上がろうとしていた。
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