第27話 別視点(ガエル):泥濘の焦燥と結ばれる赤い糸

冷たい雨が、掃き溜め地区の石畳を容赦なく叩きつけていた。 赤竜の爪痕亭の地下にある隠れ家は、かつてないほどの重苦しい沈黙に支配されていた。 部屋の隅には、泥にまみれた一台の荷車が放置されている。 それは本来であれば、今頃エリストールという名の仮死状態の令嬢を乗せ、自由への道を疾走しているはずのものだった。


「……クソッ」


ガエルは濡れた髪を掻きむしり、壁に背を預けて崩れ落ちた。 拳には、何度も壁を殴ったせいで血が滲んでいる。


「俺たちが全財産はたいて買った『太陽の涙』も、入念に練った死体回収ルートも、全部無駄になりやがった」


ガエルの声は震えていた。 昨夜の晩餐会の刻限、彼らは屋敷の裏手で突入の合図を待っていた。 だが、聞こえてきたのは悲鳴や混乱ではなく、鋼鉄のような規律を持った軍靴の音だった。 漆黒の装備に身を包んだ謎の私兵たちが屋敷を完全に包囲し、バルガン男爵の絶叫と共に彼を闇の向こうへと連れ去っていったのだ。


「ありゃあ、普通の兵士じゃないね」


部屋の中央で大剣の手入れをしていたカミラが、布で刀身を拭いながら低く呟いた。 その横顔には、歴戦の傭兵らしい厳しい色が浮かんでいる。


「動きに無駄がない。あの兵士たち、ただの雇われじゃあないよ。……男爵が狂っている隙に、どこかの誰かが屋敷の『中身』を総入れ替えした?相当に冷めた頭を持った奴が、裏で糸を引いている」


カミラは誰が黒幕かは断定しなかったが、その口ぶりには警戒心が滲んでいた。 男爵のような感情的な人間に、あんな冷徹な軍隊は動かせない。 屋敷の主導権は、確実に別の何者かに移っている。


「誰がやったにせよ、問題はお嬢がどうなったかだ!」


ガエルが叫ぶと、少年のトトが怯えたように肩を震わせた。 窓際で雨音に耳を澄ませていたファルクが、静かに首を振る。


「屋敷の警備は三倍に増えている。特に塔の周りは蟻一匹通さない警戒態勢だ。……もしお嬢様が生きていたとしても、あの『監獄』から連れ出すのは、もう不可能に近い」


ファルクの冷静すぎる指摘が、ガエルの胸をえぐった。 もし新しい奴がエリストールを危険分子とみなして始末していたら。 あるいは、男爵の共犯として地下牢に放り込んでいたら。 彼らが命懸けで届けた解毒薬は、使われることのないまま彼女のポケットで冷たくなっているのだろうか。


「俺がもっと早く……強引にでも踏み込んでいれば」


ガエルは膝に顔を埋めた。 後悔と無力感が、雨の冷気と共に全身を侵食していく。 この街で唯一、自分たちのような泥鼠に知恵と誇りを与えてくれた少女。 彼女がいなくなれば、ガエルたちはまた、ただの薄汚い盗人に戻ってしまう。


その時だった。


チュウ。


雨音に紛れて、天井裏から微かな鳴き声が聞こえた。 全員が弾かれたように顔を上げる。 梁の隙間から、ずぶ濡れになった小さな黒い影が飛び出してきた。


「スレート!」


ガエルは転がるようにして駆け寄り、泥だらけの相棒を掌で受け止めた。 スレートは寒さに震えながらも、ガエルの指を強く甘噛みした。 その首には、赤い糸で何重にも巻かれた小さな油紙の包みがあった。


「手紙だ……! 生きてる!」


ガエルは震える指で糸を解き、湿った紙を慎重に広げた。 そこには、見慣れた優雅で、しかし力強い筆跡が記されていた。


『作戦は中止。貴方たちがくれた『太陽の涙』は、ただの苦いアメ玉になったわ』


その一行目を読んだ瞬間、ガエルの全身から力が抜け、その場にへたり込んだ。 毒は飲んでいない。 彼女は生きている。 あんな状況下で、こんな軽口を叩けるほどに。


「なんて書いてあるんだ、兄ちゃん!」


トトが身を乗り出す。 ガエルは涙で滲みそうになる視界を拭い、続きを読み上げた。


『心配しないで。支配者が父から執事のマリウスに代わっただけよ。 この執事は手強いけれど、合理的だわ。私は彼と取引をした。 これからは隠れてコソコソするのではなく、堂々と塔の中から知恵を振るうことにしたの。 この手紙も、マリウスの黙認の下で送っているわ』


「……なんだって?」


カミラが目を丸くし、それから呆れたように口笛を吹いた。


「あの堅物の執事が黒幕だったのかい。しかも、あいつを言いくるめて、公認の連絡網にしちまったって? ……とんでもない交渉術だね」


手紙にはさらに続きがあった。 そこには、もはや助けを求める囚われの姫の言葉ではなく、前線で指揮を執る司令官の言葉が並んでいた。


『ガエル、カミラ、みんな。 嘆いている暇はないわ。戦いの形が変わったの。 マリウスは私の知恵を利用して領地を立て直そうとしている。私はそれを利用して、貴方たちに仕事を回すわ。 まずは西の国境付近。商人になりすました工作員たちが『傭兵団』を手引きしているという情報があるの。 ファルクの耳とカミラの勘で、その規模と装備を特定して。 報酬は領主代行の経費から弾ませるわ』


「……ははっ」


ガエルは乾いた笑い声を漏らした。 全財産を失ったと思っていたが、とんでもない。 彼女はもっと巨大なスポンサーを捕まえてきたのだ。


「野郎ども、聞いたな!」


ガエルは立ち上がり、紙片を高く掲げた。 その瞳には、先ほどまでの絶望的な色は微塵もない。 あるのは、悪戯な冒険心と、確固たる信頼の光だけだ。


「お嬢は無事だ。それどころか、塔の中からこの街を支配する気満々だぜ」


隠れ家の空気が一変した。 重苦しい沈黙は消え、武器を点検する金属音と、少年たちの活気ある声が戻ってくる。


「傭兵団の偵察か。……あたしの出番だね」


カミラが大剣を背負い直し、獰猛な笑みを浮かべた。


「おいスレート、街中のねずみに伝えろ。今日から俺たちは、ただの運び屋じゃねえ」


ガエルはスレートの頭を指先で優しく撫で、その小さな瞳を見つめた。


「俺たちは『壁の賢者』様の手足だ。 あの気取った執事が驚いて腰を抜かすくらいの情報を集めて、お嬢の机に積み上げてやろうぜ」


「おう!!」


雨はまだ降り続いていたが、彼らにとってはもう冷たいものではなかった。 見えない赤い糸は、塔の鉄格子と監視の目をすり抜け、より太く、強固な絆となって結ばれた。 こうして、物理と知略だけが支配するこの街で、囚われの賢者と路地裏の軍隊による、新たな反撃の狼煙が上がったのである。

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