第16話 消えた白塩といぶる予感
「おい、ふざけるな! 塩ひと袋が銀貨3枚だと!?」
城下町の市場で、怒号が飛び交っていた。 普段は活気のある食料品売り場が、殺伐とした空気に包まれている。 主婦たちが取り囲んでいるのは、老舗の乾物屋の店主トマスだ。 彼は青ざめた顔で、空っぽの木箱を前に立ち尽くしている。
「信じてくれ! 俺が値を吊り上げてるわけじゃないんだ! 仕入れようにも、問屋に在庫がないんだよ!」
「嘘をつけ! 倉庫に隠して、高値で売りつける気だろう!」
怒った男の一人がトマスの胸ぐらを掴む。 そこへ、割って入ったのはガエルだった。 隣には、不機嫌そうに眉を寄せたカミラがいる。
「よせよ。爺さんが嘘をつくタマに見えるか?」
ガエルが男の手首を掴んで引き剥がすと、カミラが凄味を利かせて周囲を睨む。 群衆は怯んで少し下がったが、不満の声は収まらない。 冬は近い。 この地方では、冬を越すために肉や魚を大量に塩漬けにして保存する。 塩がないということは、冬の間の食料が腐ることを意味する。それは死活問題だ。
「ガエル、どうなってるんだい。この街の塩が、一晩で蒸発しちまったみたいだ」
カミラがガエルに耳打ちする。 ガエルはトマスに事情を聞いた。 彼によると、数日前から「灰色のフードを被った男たち」が、市場に出回る塩を言い値で根こそぎ買い占めていったという。
「……買い占めか。それも、尋常な量じゃねえな」
ガエルはその足で裏路地へ向かい、スレートを呼び出した。 これほどの量の塩を、誰が、何のために必要としているのか。 そして、塩を奪われた街の人々をどうすれば救えるのか。
塔の最上階。 エリストールは、ガエルからの手紙を読み、即座に点と線を繋げた。 ここ数日、塔の地下倉庫から、頻繁に重い荷物を運び込む音が響いていた。 そして、父との食事の会話。 『今年の冬は寒くなりそうだ。だが安心しなさい、備えは万全だ』 父の言う「備え」とは、このことだったのだ。
エリストールは父の書斎にある『兵站(へいたん)管理録』の知識と、現在の状況を照らし合わせた。
『ガエル、犯人は私の父です』 『父は市場の岩塩を買い占めました。それは調理用ではなく、肉を長期保存するための「塩漬け」に使われます』 『計算すると、いくつもの酒樽が満杯になる量です』 『父は、何かを恐れて籠城の準備をしています』
エリストールはペンのインクを補充し、解決策を綴った。 塩は男爵の倉庫にある。取り返すのは困難だ。 ならば、別の方法で冬を越す知恵を授けるしかない。
『塩がないなら、「煙」を使いましょう』 『「燻製」という保存方法があります。塩漬けほど一般的ではありませんが、桜やナラの木のチップで食材を燻せば、煙の殺菌成分で腐敗を防ぎ、長期間保存できます』 『しかも、燻製にすれば味も良くなります。近くの森で適した木を集めてください』
翌日。 市場の広場には、ガエルの指導のもと、急造の燻製器がいくつも並べられた。 古樽やレンガを積み上げ、中で木片を燃やして煙を出す。 カミラが森から切り出してきた大量の薪が、次々と煙に変わっていく。
「いいか、火を大きくするな! 煙だけを肉にまとわせるんだ!」
ガエルが声を張り上げる。 最初は半信半疑だった人々も、やがて燻製器から漂い始めた芳醇な香りに顔色を変えた。 肉の生臭さが消え、食欲をそそる香ばしい匂いが広場を満たす。
「こいつはすげえ! 塩漬けの干し肉よりずっと美味いぞ!」
「ありがとうガエル! これで冬を越せるわ!」
人々は歓声を上げ、持ち寄った肉や魚を次々と燻製にしていく。 ガエルは煤だらけの顔で笑い、カミラとハイタッチを交わした。 塩を奪われた絶望は、新しい知恵によって「美味しい冬支度」という希望に変わったのだ。
その煙は、風に乗って高く昇り、塔の窓辺にも届いた。 夕刻、男爵と執事マリウスが部屋を訪れた時、男爵は不快そうに鼻をつまんだ。
「なんだこの焦げ臭い匂いは! 下民どもめ、ボヤでも出したか!」
男爵は窓の外を見ようとしたが、マリウスがそっとカーテンを引いて遮った。
「……いいえ、旦那様。あれはボヤではございません」
マリウスはカーテンの隙間から、広場の賑わいを一瞥した。 彼の目には、煙の中で笑うガエルたちの姿が見えていたはずだ。 そして、その知恵の出処が、目の前に座る令嬢であることも。
「どうやら、民草は新しい『保存の知恵』を身につけたようでございます。……いぶされた肉は、時として生の肉よりも味わい深くなると申します」
「ふん、貧乏人の浅知恵か。野蛮な匂いだ」
男爵は興味なさげに吐き捨てた。 彼は気づいていない。 自分の買い占めが生んだ危機を、娘の知恵が乗り越えたことを。 そして、その結果として、ガエルが街の人々の「リーダー」としての地位を確立しつつあることを。
マリウスは紅茶を注ぎながら、エリストールの耳元でささやいた。
「……賢い調理法ですな。しかし、煙は高く昇りすぎると、狼煙となって敵を呼び寄せますぞ」
エリストールはカップを受け取りながら、小さく頷いた。 街は救われた。 だが、父が「籠城を想定しているという事実は、重くのしかかっている。 父は何を知っているのか。 西の国からの風は、燻製の香ばしい匂いの中に、火薬の匂いを微かに含んで近づいていた。
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