第10話 別視点(バルガン男爵):庭師の狂悦と禁断の果実

城下町の宝石店「銀の聖杯」は、この界隈で最も格式高い店として知られている。 だが、バルガン男爵にとって、そこは単なる石ころを売り買いする俗な場所に過ぎなかった。 彼は店の奥にある特別室で、ベルベットのトレイに並べられた宝石の数々を冷ややかな目で見下ろしていた。


「男爵閣下、こちらなどいかがでしょう。南方の鉱山から届いたばかりの、鳩の血のようなルビーでございます」


揉み手をする店主の声が、耳障りな羽虫の羽音のように神経を逆撫でする。 バルガンは無言で首を横に振った。 赤は駄目だ。 あれは血の色だ。争いの色だ。 あの塔の中に隔離された純白の世界に、そのような暴力的な色彩は相応しくない。 彼の視線は、トレイの端にあった一つの石に吸い寄せられた。 深海のように静かで、冷たく澄んだサファイア。 それは、娘のエリストールの瞳の色と同じだった。


「……これだ。これをあしらった首飾りを用意しろ」


「お目が高い。これほどの蒼玉は滅多にございません。デザインはいかがいたしましょうか」


「鎖は細く、しかし絶対に千切れない強度のプラチナを使え。肌に吸い付くようなチョーカータイプだ。余計な装飾はいらん」


店主が畏まって頭を下げる。 バルガンは杖をつき、重厚な足取りで店を出た。 一歩外に出れば、そこは汚穢(おわい)に満ちた世界だ。 泥にまみれた冒険者、汗臭い商人、欲望を剥き出しにした娼婦たち。 風に乗ってくるのは、馬糞と安酒と、人間の浅ましい息遣いだけ。 バルガンはハンカチで口元を覆い、待たせていた馬車へと乗り込んだ。


「急げ。私の庭へ帰る」


馬車が石畳を跳ねる振動すら、今の彼には不快だった。 なぜ、この世界はこうも不完全で、醜いのだろうか。 かつて彼は、この世界にも美しさがあると信じていた。 愛した妻が生きていた頃までは。 だが、あの日、全てが崩れ去った。 妻を奪ったのは病ではない。この世界の「悪意」と「無秩序」だ。 だからこそ、彼は誓ったのだ。 残された唯一の希望である娘だけは、何があっても守り抜くと。 外敵から、病から、そして老いという名の腐敗からも。


馬車が領主の館の門をくぐり、離れの塔が見えてくる。 高くそびえ立つ石造りの塔。 あれこそが、この地上に残された最後の聖域だ。 バルガンは館には戻らず、そのまま塔へと足を向けた。 完成したばかりのサファイアの首飾りを、上着のポケットに忍ばせて。 入り口の衛兵たちが直立不動で敬礼するのを無視し、彼は螺旋階段を登る。 一段登るごとに、空気の純度が増していく気がした。 下界の澱んだ空気が濾過され、最上階に近づくにつれて、甘く清らかな香りに満たされていく。 それは、彼が厳選した香油と、娘自身の体臭が混ざり合った、天上の香りだ。


重い鉄の扉の前に立つ。 鍵を取り出し、複雑な機構を回す。 カチャリ、という解錠音は、彼にとって至福の儀式の始まりを告げる鐘の音だった。 扉を開けると、先日取り付けさせた濃紺のベルベットカーテンが、部屋を薄暗く包み込んでいた。 その闇の中、ランプの灯りを頼りに本を読んでいる少女の姿が浮かび上がる。


「……お父様」


エリストールが顔を上げ、本を閉じる。 その仕草の一つ一つが、計算された芸術品のように優雅で美しい。 銀色の髪は月光の糸のように輝き、白磁のような肌は一点の曇りもない。 成長するにつれて、彼女は亡き妻の面影を色濃く宿すようになった。 いや、違う。 妻は美しい女性だったが、同時に人間臭い弱さや、感情の起伏を持っていた。 だが、今のエリストールはどうだ。 この閉ざされた空間で培養された彼女は、世俗の垢を一切知らぬまま、純粋培養された「概念としての美」そのものへと昇華しようとしている。


「エリス、変わりはないかい」


バルガンは娘の元へ歩み寄り、その手を取った。 冷たく、華奢な指先。 少し力を入れれば折れてしまいそうなほど脆く、だからこそ愛おしい。


「はい、お父様。おかげさまで、静かな時間を過ごしております」


「そうか。お前に贈り物を買ってきたんだ」


バルガンはポケットからビロードの小箱を取り出した。 蓋を開けると、サファイアのチョーカーが妖しい光を放つ。 エリストールの瞳が僅かに揺れたのを、彼は喜びの色だと解釈した。


「……美しいわ」


「お前の瞳と同じ色だ。さあ、つけてごらん」


エリストールは従順に後ろを向き、豊かな銀髪をかき上げた。 露わになったうなじ。 白く、滑らかで、産毛の一本一本までが光を帯びているように見える。 バルガンは震える手で首飾りを回した。 プラチナの鎖が、彼女の細い首に冷たく絡みつく。 留め金をかけようとした指先が、ふと、彼女の頸動脈の上で止まった。 トク、トク、トク。 指の腹に、小さな脈動が伝わってくる。 生きている。 この人形のように美しい少女は、確かに熱を持ち、血を通わせているのだ。


不意に、バルガンの脳裏にどす黒い衝動が走った。 かつて愛した妻の肌の感触と、目の前の娘の肌の感触が重なる。 いや、それ以上だ。 妻を知った時の年齢に近づきつつある娘は、妻にはなかった「禁断の果実」特有の、背徳的な甘い匂いを放っていた。 誰にも触れさせず、誰にも見せず、自分だけで育て上げた花。


「……っ」


留め金をかける手が震え、指先がうなじから滑り落ち、滑らかな肩のラインへと這う。 ドレスの襟元、鎖骨の窪み。 視界が赤く染まるような錯覚を覚えた。 父性という理性の皮一枚の下で、雄としての渇望が鎌首をもたげる。


「お父様……?」


怯えたような、微かに震える声。 その声に、バルガンは弾かれたように我に返った。 鏡越しに娘の目を見る。 そこにあるのは、慕情ではない。底知れぬ恐怖と、困惑だ。 紫水晶の瞳が、彼を射抜いている。 その瞳は、あの日——燃え盛る屋敷の中で、彼を見つめていた妻の最期の瞳と重なった。


『——私を、愛しているのなら』


記憶の中の声が、冷水を浴びせられたように彼を現実に引き戻した。 バルガンは荒い息を飲み込み、パチリと留め金をかけた。 指先を素早く引き離す。 残ったのは、指の腹に焼き付いた滑らかな感触と、心臓を締め付けるような罪悪感、そしてそれを上回る興奮の余韻だけだった。


「……よく似合うよ、エリス」


声が裏返りそうになるのを、必死で威厳という仮面で抑え込む。


「この首飾りは、私の愛の証だ。決して外してはいけないよ」


それは首輪だ。 どこにも行かせないという、呪いの鎖だ。 エリストールは蒼白な顔で、しかし気丈に微笑んでみせた。


「……はい。大切にします」


「ああ、大切にするんだ。お前は私の全てなのだから」


バルガンは逃げるように背を向けた。 これ以上ここにいては、理性が焼き切れてしまう。 扉を開け、外の廊下へと出る。 冷たい空気が熱った頬を冷やすが、身体の奥底に灯った暗い炎は消えない。 彼は衛兵に向かって、今までで最も低い声で命じた。


「警備を強化しろ。ネズミ一匹、風一筋たりとも通すな」


「はっ!」


バルガンは自身の掌を見つめた。 あの子は美しくなりすぎた。 外の世界の害虫どもに食い荒らされるくらいなら、いっそこの手で——。


重い鉄の扉が閉ざされる。 その音は、まるで牢獄の入り口を塞ぐ大岩のような響きを持って、塔の静寂に吸い込まれていった。

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