第11話 氷の首輪と震える筆跡

重い鉄扉が閉ざされ、父の足音が遠ざかっていっても、エリストールはしばらくその場から動けなかった。 彼女は無意識のうちに、自身の首元に手を添えていた。 父が触れた場所。 そこに痛みはない。父の手はいつも通り温かかったはずだ。 けれど、なぜだろう。 皮膚の奥に、説明のつかない「違和感」が残っている。 それはまるで、熱いお湯に氷を入れた時のような、温度の混じり合った奇妙な感覚だった。


「……お父様?」


彼女は鏡台の前に座り、恐る恐る自分の姿を映した。 首元には、父が贈ったサファイアのチョーカーが鎮座している。 プラチナの鎖は、彼女の首の細さに合わせて精巧に作られており、まるで皮膚の一部のように冷ややかに吸い付いている。 美しい宝石だ。父の言う通り、愛の証なのだろう。 だというのに、鏡の中の自分は、なぜか何かに怯えているような目をしている。 先ほどの父の視線。 一瞬だけ見えた、父であって父ではないような、あの熱っぽい瞳。 エリストールは首を横に振った。 考えすぎだ。父は私を大切に想ってくれている。 ただ、その想いが少しだけ……強すぎて、重いだけなのだ。


その夜、スレートとブリックが現れた時、エリストールはペンを握ったまま溜息をついていた。 二匹のねずみは、いつもと違う彼女の様子——どこか上の空で、元気がない様子——を敏感に察知し、心配そうに鼻を鳴らしている。 手元の羊皮紙には、書きかけの文字が並んでいた。


『父から贈り物を……』


そこまで書いて、彼女は手を止めた。 この正体不明のモヤモヤを、ガエルに伝えるべきだろうか。 いいや、と彼女は思う。 ガエルは外の世界で、命がけの仕事をしている。 「父の様子が少し変だった」「首飾りが重い気がする」などという、子供の戯言のような愚痴を送って、彼を困らせたくはない。 それに、これを言葉にしてしまえば、この不安が「決定的な事実」になってしまいそうで怖かった。


彼女は書きかけの行を塗りつぶし、当たり障りのない言葉を選んで書き直した。


『最近、急に冷え込んできましたね』 『塔の中は静かです。貴方も風邪など引かぬよう、気をつけてください』


内容は平穏そのもの。 けれど、その筆跡だけは、彼女の心の動揺を隠しきれず、僅かに震え、インクが滲んでいた。


塔の下、赤竜の爪痕亭。 ガエルはブリックが運んできた手紙を受け取り、眉間の皺を深くした。 文字が震えている。 いつもの流麗で自信に満ちた筆跡に、迷いが見える。 それに、内容だ。 いつもなら「新しい謎はないの?」「外の景色を教えて」と好奇心旺盛な彼女が、定型文のような挨拶しか書いていない。 これは「書くことがない」のではなく、「書きたいことがあるのに、飲み込んでいる」時の手紙だ。


「……何かあったな、エリス」


ガエルは呟き、天井を見上げた。 男爵との間で何かあったのか、あるいは一人でいることに疲れてしまったのか。 詳細は分からない。 だが、相棒が元気をなくしている時に、理由を根掘り葉掘り聞くのは無粋というものだ。 必要なのは、追求ではなく、気分を変える「きっかけ」だ。


ガエルはポケットを探った。 何か、彼女の沈んだ空気を変えるような、明るいものを。 彼の指が、先日街の市場で「手描き地図」を作るために買った文具の残りに触れた。 それは、束ねた書類をまとめるための、安っぽい色付きの紐(リボン)だった。 鮮やかなオレンジ色。 どんよりとした曇り空のような彼女の心に、太陽のような色を差してやりたい。


ガエルはペンを取り、あえて悩みには触れず、軽口を叩くような文面を綴った。


『こっちは相変わらずドブさらいの毎日だ。風邪を引いてる暇もねえよ』 『そういえば、市場で変なもんを見つけた。……まあ、ただの書類束ねる紐なんだがな』 『綺麗なオレンジ色だろ? 髪を結ぶのにちょうど良さそうだ。仕事(調査)をする時、邪魔な髪をこれでまとめちまえ』 『下を向いて書き物ばかりしてると気が滅入る。たまには髪を結い上げて、上を向いて深呼吸でもしてみろよ』


ガエルはオレンジ色のリボンをスレートの鞄に入れた。 何の変哲もない紐だが、今の彼女には、宝石よりもこういう「実用品」の方が役に立つはずだと信じて。


塔の最上階。 戻ってきたスレートからリボンを受け取ったエリストールは、目を丸くした。 宝石店には決して置かれない、鮮やかすぎるオレンジ色のただの紐。 あまりの唐突さと、その安っぽさに、思わずふふっ、と乾いた笑いが漏れた。 けれど、その紐を指に巻き付けると、不思議な温かさを感じた。 ガエルの不器用な気遣い。 何も聞いてこないけれど、「元気を出せ」と言われているのが伝わってくる。


「……下を向いてちゃ、駄目ね」


彼女は鏡の前に立ち、長い銀髪を手櫛でまとめ上げ、そのリボンで無造作に結んだ。 首筋が露わになり、父の贈ったサファイアのチョーカーが目に入る。 冷たくて重い、高価な首輪。 けれど、その上に揺れるオレンジのリボンが、不思議とその重さを中和してくれている気がした。 髪をアップにした彼女の顔には、少しだけ血色が戻っていた。


「ありがとう、ガエル」


エリストールは大きく深呼吸をした。 父への違和感は消えない。不安もまだある。 けれど、このリボンがある限り、心まで押しつぶされることはない。 彼女は涙を拭い、ペンを握り直した。 震えは、もう止まっていた。 窓の外の闇に向かって、彼女は小さく呟いた。


「私は大丈夫。……まだ、戦えるわ」


オレンジ色のリボンが、ランプの灯りを受けて陽だまりのように揺れていた。 偶然か、必然か。 ガエルの贈った安物のリボンは、父の贈った高価な首輪に対する、ささやかな抵抗の旗印となった。

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