第9話 二つの影と双子の背嚢

特注のベルベットカーテンが閉ざされた部屋は、昼も夜も関係なく静寂な闇に包まれている。 だが、今のエリストールにとって、その闇は決して孤独なものではなかった。 ランプの火を小さく絞り、彼女は床に座って「その時」を待っていた。 父の監視は相変わらず厳しい。 廊下には常に衛兵の足音が響き、定期的にメイドが様子を見にくる。 けれど、この分厚いカーテンの裏側にある「世界への抜け穴」だけは、誰にも気づかれていなかった。


カリリ、カリリ。


待ちわびた音が響く。 エリストールは音もなくカーテンを捲り上げた。 そこには、いつもの灰色の騎士——彼女の相棒であるねずみが、誇らしげに髭を震わせて座っていた。 だが、今日の彼はいつもと様子が違った。 すぐに部屋へ入ってこようとせず、壁の隙間を振り返り、小さく鳴き声を上げているのだ。 まるで、誰かを促しているかのように。


「……どうしたの?」


エリストールが顔を近づけると、灰色のねずみの背後から、もう一つの影が揺れ動いているのが見えた。 怯えるように鼻先を出したり引っ込めたりしている。 やがて、先輩である灰色のねずみに鼻で小突かれ、観念したようにその影が姿を現した。 それは、一回り小柄な、淡い茶色の毛並みをしたねずみだった。 つぶらな瞳は恐怖で見開かれ、小刻みに震えている。


「まあ……」


エリストールは息を呑んだ。 あの蜂蜜の味が忘れられず、仲間を連れてきたのだろうか。 それとも、危険な任務をこなす古参の騎士を心配して、妻か弟分がついてきたのだろうか。 どちらにせよ、これは嬉しい誤算だった。 彼女は驚かせないように、ゆっくりと小皿を差し出した。 そこには、先日ガエルから貰った蜂蜜をたっぷりと垂らしてある。


「おいで。怖くないわ。貴方の友達は、私の友達よ」


灰色のねずみが手本を見せるように、堂々と蜂蜜を舐め始めた。 それを見て、茶色のねずみもおっかなびっくり近づいてくる。 そして、恐る恐る蜂蜜をひと舐めすると、その甘美な味に衝撃を受けたように目を丸くし、夢中で舌を動かし始めた。 二匹のねずみが仲良く並んで食事をする光景。 それは、冷たい石造りの塔の中で、そこだけ体温を感じさせる温かい絵画のようだった。


「ふふ、よく食べるわね」


エリストールは微笑みながら、素早くペンを取った。 新しい仲間ができたのなら、彼にも「制服」が必要だ。 そして、運び手が二人になれば、今まで諦めていた「重いもの」や「嵩張るもの」も運べるようになるかもしれない。


塔の下、赤竜の爪痕亭。 ガエルは送られてきた手紙を読み、エールの杯を吹き出しそうになった。


『ガエル、朗報です。騎士団が増員されました』 『新入りは少し小柄ですが、食欲は旺盛です。至急、もう一つ鞄をお願いします』


足元を見ると、いつもの灰色のねずみの隣で、茶色のねずみがガエルのブーツの匂いを嗅いでいる。 ガエルは呆れたように笑い、しゃがみ込んだ。


「おいおい、ファミリーでのご登場かよ。ここを託児所か何かと勘違いしてねえか?」


茶色のねずみはガエルを見上げ、キョトンとしている。 だが、その態度は堂々としたものだ。 どうやら灰色の相棒が「この人間は安全だ(というかチョロい)」と教育したらしい。 ガエルは懐から革の端切れと、裁縫道具を取り出した。 冒険者崩れの便利屋にとって、装備の補修はお手のものだ。 彼は慣れた手つきで、一回り小さな新しい背嚢を縫い上げた。 今度はエリストールのドレスの切れ端ではなく、丈夫な革製だ。 留め具には、彼女が以前くれた真珠の予備を使った。


「ほらよ、新入り。今日からお前も共犯者だ」


ガエルが茶色のねずみに鞄を背負わせると、サイズはあつらえたようにぴったりだった。 二匹のねずみが、お揃いの鞄を背負って並んでいる。 灰色と茶色。 街の石畳と、建物のレンガのような色だ。


「……よし、決めたぞ。名前がないと呼びにくい」


ガエルは指先で二匹を順に指差した。


「灰色のお前は『スレート』。茶色のお前は『ブリック』だ」


スレート(灰)は分かったような顔で髭を揺らし、ブリック(茶)は嬉しそうに尻尾を振った。 これでチームの結成だ。 そして、ガエルの脳裏にある計算が弾き出された。 一匹なら紙切れ数枚か、小さな宝石が限界だ。 だが、二匹なら。 あるいは、協力して一つのものを運ばせることは無理でも、分担すれば倍の量を運べる。


「……これなら、アレが送れるな」


ガエルはずっと送るのを躊躇っていたある物を、カウンターの下から取り出した。 それは、小指の先ほどの小さなガラス瓶に入った「インク」だった。 エリストールからの手紙は、いつも羽根ペンのインクが薄かったり、煤を水で溶いたような跡があったりした。 おそらく、塔の中では上質なインクが手に入りにくいのだろう。 父から与えられた本はあっても、消耗品までは自由にならないのかもしれない。 だが、液体は重い。 一匹のねずみに背負わせるのは酷だと諦めていたのだ。


ガエルはインク瓶の蓋を蝋で厳重に封印し、スレートの右ポケットに入れた。 そして、左ポケットにはバランスを取るために、小さな干し肉を詰める。 重さはギリギリだが、ベテランの彼ならいけるだろう。 そして、新入りのブリックには、ガエルからの手紙を託した。


『ようこそ、新米騎士ブリック。そっちのスレートは先輩風を吹かせてないか?』 『輸送力倍増を祝して、特製のインクを送る。これで思う存分、長文を書いてくれ』 『それと……いつまでも「お嬢様」とか「エリストール様」ってのも他人行儀だろ』


ガエルはそこでペンを止め、少し迷ってから、あえて乱暴な文字で続きを書いた。


『これからは「エリス」と呼ばせてもらう。俺のことも好きに呼べ。……よろしく頼むぜ、相棒』


夕暮れ時。 二匹のねずみが塔の壁を登りきり、エリストールの元へ帰還した。 スレートは少し息を切らしていたが、その足取りは力強かった。 エリストールは彼が運んできた小さな瓶を見て、息を呑んだ。 光に透かすと、深い青色の液体が揺れている。 ラピスラズリを砕いて溶かしたような、最高級のブルーインクだ。


「……綺麗」


彼女は震える手で瓶を開けた。 インクの匂いが部屋に広がる。 それは、父が与える「完成された書物」の匂いではない。 これから何かを記し、何かを変えるための「可能性」の匂いだった。 エリストールは、ブリックが運んできた手紙を読み、そこで動きを止めた。 文字を目で追うごとに、頬が熱くなっていくのが分かる。


——エリス。


たった三文字。 けれど、その呼び名は彼女の胸の奥深くに響いた。 父が呼ぶ「エリス」は、愛玩動物への呼びかけだ。 使用人たちが呼ぶ「エリス様」は、義務的な敬称だ。 けれど、ガエルが呼ぶ「エリス」には、対等な人間としての体温があった。 彼女は手紙を胸に抱きしめ、クスクスと笑った。 嬉しい。ただひたすらに、嬉しかった。


彼女は新しいインクをペン先に含ませた。 滑らかな書き心地。 紙の上に、鮮やかな青い文字が躍る。 これなら、もっと多くの言葉を、もっと遠くまで届けられる気がした。


「ありがとう、ガエル」 「そして、頑張ったわね。スレート、ブリック」


エリストールは二匹の頭を指先で優しく撫でた。 名前がついたことで、彼らもまた、ただの動物から特別な「個」になった気がした。 塔の上の秘密基地は、賑やかさを増していた。 窓の外には、見渡す限りの星空が広がっている。 その星々の数と同じくらい、彼女が知りたいこと、伝えたいことは山ほどあった。 そして今、それを運ぶ翼は二つになったのだ。 エリストールは青いインクで、次なる計画を羊皮紙に綴り始めた。 街の地図と、古い文献、そしてスレートとブリック。 盤上の駒は揃いつつあった。

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