第3話 路地裏の便利屋と絹の背嚢
エリストールは震える指先で、羊皮紙の切れ端を小さく折り畳んだ。 そこに記したのは、助けを求める悲痛な叫びではない。 自身の素性を明かす言葉でもない。 もし、この手紙が父の目や、悪意ある者の手に渡れば、ねずみの命さえ危うくなる。 だからこそ、彼女が選んだ言葉は慎重であり、同時に賭けでもあった。
『今日の空は、どんな色をしていますか』
たった一行、それだけの問いかけ。 窓から見える空しか知らない彼女にとって、それは切実な疑問であり、同時に「風流」を解する知性を持った相手を選別するための暗号でもあった。 彼女は折り畳んだ紙片を、ねずみが背負う絹の鞄の右ポケットへと滑り込ませた。
「お願いね。誰か、優しい人に届けて」
ねずみは理解しているのかいないのか、小さく鼻を鳴らすと、慣れた足取りで石壁の隙間へと潜り込んでいった。 エリストールはその後ろ姿が見えなくなると、窓辺へと駆け寄る。 ここからは、彼の姿を見ることはできない。 それでも、祈らずにはいられなかった。 この高い塔の外壁は、断崖絶壁よりも険しい。 吹き荒れる風、塔を旋回する猛禽類、そして壁の隙間に潜む毒蟲たち。 小さな騎士の行く手には、数多の死が待ち受けているのだから。
世界は残酷で、けれど美しい。 ねずみは本能に従い、垂直に切り立った石壁を駆け下りていた。 鉤爪を石の僅かな凹凸に引っかけ、驚くべき敏捷さで降下していく。 背中の鞄は軽く、エリストールの縫製技術のおかげで身体にしっかりと固定されていた。 風が吹き付け、小さな体を壁から引き剥がそうとするが、彼は長い尾でバランスを取り、決して落ちることはない。 やがて、地面の匂いが近づいてくる。 土と、馬糞と、鉄と、香辛料が混ざり合った、濃厚な「生」の匂い。 塔の基部に到達したねずみは、茂みの中に身を隠し、呼吸を整えた。 目の前には、巨人の国のような城下町が広がっている。 巨大な車輪を回して進む荷馬車、地面を震わせて歩く重装の騎士、残飯を漁る野犬。 彼は鼻をヒクヒクさせ、安全なルートを探り当てると、喧騒の海へと飛び出した。
そこは、冒険者たちが集う「赤竜の爪痕亭」という名の酒場だった。 昼間からエール酒の匂いが充満し、紫煙が立ち込める薄暗い店内。 賭博に興じる男たちの怒号と、吟遊詩人が爪弾くリュートの音色が不協和音を奏でている。 その店の片隅、一番奥の薄暗いテーブル席に、一人の男が座っていた。 男の名はガエル。 年齢は二十代半ば、伸び放題の黒髪を適当に縛り、擦り切れた革のコートを羽織っている。 腰には二本の短剣。 冒険者崩れのようにも見えるが、その瞳には獲物を品定めするような鋭い理知が光っていた。 彼はこの街で「何でも屋」を営んでいる。 迷い猫の捜索から、貴族の不倫調査、時には裏社会の揉め事の仲裁まで。 金になれば何でもやるが、今の懐具合は寂しい限りだった。
「……シケた日だ」
ガエルは温くなったエールの木杯を揺らし、独りごちる。 何か面白いネタは転がっていないか。 そう思いながら店内を見渡していた彼の視界の隅を、何かが横切った。 床板の継ぎ目を縫うように走る、灰色の影。 ねずみだ。 酒場にいれば珍しくもない害獣だが、ガエルの優れた動体視力は、そのねずみにある「違和感」を見逃さなかった。
「おい、待て」
ガエルは音もなくブーツの底を床に踏み鳴らした。 威嚇ではない。 奇妙なことに、そのねずみは逃げるどころか、ガエルの足元でピタリと止まり、こちらを見上げているのだ。 そして何より、ガエルの目を釘付けにしたのは、ねずみの背中だった。 薄暗い照明の下でも分かる、上質な光沢。 鮮やかな青色の絹で作られた、極小の背嚢。 しかも留め具には、小さいながらも本物の真珠が使われている。
「……幻覚か? それとも酔っ払った妖精の悪戯か?」
ガエルは眉をひそめ、ゆっくりと身体を屈めた。 ねずみは逃げない。 それどころか、催促するように前足でブーツをカリカリと引っ掻く。 ガエルは周囲に視線を走らせる。 誰もこの奇妙な光景には気づいていない。 彼は好奇心に負け、そっと手を伸ばした。 ねずみは大人しくその掌に乗る。 驚くほど軽い。 そして、近くで見れば見るほど、その背嚢の作りの精巧さに舌を巻いた。 貴族の令嬢が使うような最高級の絹だ。 こんなものをねずみに背負わせて路地を走らせる酔狂な人間など、この街にいるだろうか。
「何か入ってるのか?」
ガエルは指先よりも小さな留め具を、器用に爪先で外した。 右のポケットから、小さく折り畳まれた羊皮紙が出てくる。 これもまた、市場では手に入らない高級品だ。 微かに、高貴な香油の甘い香りが漂う。 ガエルは紙片を開いた。
『今日の空は、どんな色をしていますか』
流麗で美しい筆跡。 教養のある者が書いた文字だ。 ガエルは口元を歪め、ニヤリと笑った。 問いかけの意味は分からない。 どこかの深窓の令嬢が、退屈凌ぎに放った戯れの手紙かもしれない。 だが、ガエルの勘が告げている。 これは、ただの悪戯ではない。 この真珠一つで、銀貨数枚にはなる。 それを惜しげもなくねずみに託す「依頼主」は、相当な資産家か、あるいはよほどの訳ありか。 どちらにせよ、暇を持て余していた彼にとっては極上の獲物だった。
「面白い」
ガエルは懐から携帯用の筆記具を取り出した。 安物の紙の裏側に、炭ペンで走り書きをする。 詩的な表現など彼は知らない。 だが、この奇妙な通信相手に対する礼儀として、嘘偽りのない事実だけを書くことにした。
『あいにくの曇り空だ。路地裏は泥と馬糞の色をしている。だが、酒場のエールは黄金色だ』
彼はその紙を小さく折り畳み、ねずみの背嚢の空いている左ポケットへと押し込んだ。 そして、ついでとばかりに、つまみにしていた干し肉の欠片を右のポケットに入れてやる。
「持って行きな。雇い主によろしくな」
ガエルが掌を床に下ろすと、ねずみは一度だけ短く鳴き、再び雑踏の中へと消えていった。 ガエルはその後ろ姿を見送り、残ったエールを喉に流し込む。 ぬるい酒が、今は少しだけうまく感じられた。 この街のどこかに、ねずみを使い魔にする奇妙な住人がいる。 その正体を突き止めるのも、悪くない暇つぶしになりそうだ。
塔の最上階では、時間が永遠のように長く感じられていた。 陽が傾き、空が茜色に染まり始めた頃。 壁の隙間から、聞き慣れた音が響いた。
カリリ、カリリ。
エリストールは本を取り落としそうになりながら、暖炉の脇へ滑り込む。 小さな騎士が帰還した。 泥にまみれ、毛並みは乱れているが、その瞳は達成感に輝いている。 そして、背中の鞄は膨らんでいた。
「……!」
彼女は震える手で、左のポケットの中身を取り出す。 ざらついた安物の紙。 そこには、荒っぽい、けれど力強い筆跡で、見たこともない世界の色が記されていた。
泥と馬糞の色。 そして、黄金色のエール。 エリストールは文字を目でなぞり、想像する。 それは彼女が知る「綺麗な世界」ではない。 けれど、確かにそこで誰かが生き、呼吸し、酒を飲んでいるという、圧倒的な現実の手触りだった。 右のポケットに入っていた干し肉の欠片は、強烈な燻製の匂いを放っていた。 彼女はその匂いを胸いっぱいに吸い込む。 涙が溢れそうになるのをこらえ、彼女はねずみを両手で包み込み、頬ずりをした。
「ありがとう……ありがとう」
繋がった。 この孤独な塔と、広大な世界が。 絹と泥、香油と燻製肉。 正反対の二つの世界が、一本の細い糸で結ばれたのだ。 エリストールはその紙片を、宝物のように胸に抱いた。 返事を書かなくては。 あの無骨な筆跡の主に、感謝と、そしてもっと多くの問いかけを送らなくては。 彼女の止まっていた時間が、音を立てて動き出そうとしていた。 鉄格子の外では、一番星が静かに瞬き始めていた。
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