第4話 鉄塔の問いと路地裏の答え
それからの日々、エリストールの生活は劇的に変化した。 といっても、部屋から一歩も出られない事実に変わりはない。 だが、彼女の心は毎日、塔の外へと旅立っていた。
小さな運び屋が繋ぐ文通は、日を追うごとに回数を増していた。 エリストールが朝に手紙を託せば、夕方には返事が届く。 彼女が使うのは、余白の多い上質な羊皮紙と、香油の香り。 相手が使うのは、酒場の伝票の裏や、誰かが捨てた紙切れで、いつも安酒と煙草の匂いが染み付いていた。
『街では今、どんな花が咲いていますか』 『花屋の店先には派手な薔薇が並んでいるが、路地裏には名も知らねえ白い雑草が生い茂ってる。踏まれても枯れねえ、しぶとい花だ』
『流行りの歌を教えてください』 『昨日は吟遊詩人が古臭い英雄譚を歌っていたが、今は酔っ払いたちの下品な替え歌が流行ってる。内容は令嬢の耳に入れるもんじゃない』
『外の風は、どんな味がしますか』 『砂埃と、焼けた肉と、雨の気配が混ざった味だ。あんたの紙切れからする甘ったるい匂いとは大違いだ』
ガエルと名乗ったその男の返事は、常に短く、無愛想で、そして残酷なほどに写実的だった。 エリストールが本で読んだ煌びやかな世界を、彼は容赦なく泥臭い現実へと翻訳して返してくる。 だが、エリストールにとってはその「飾らなさ」こそが救いだった。 父や使用人たちは、彼女を腫れ物に触るように扱い、心地よい嘘で塗り固めた世界しか見せようとしない。 ガエルの言葉には、嘘がなかった。 文字の端々から滲み出る彼の不器用な誠実さに、エリストールは強く惹かれていた。
ある日の午後、エリストールは報酬として、ドレスに縫い付けられていた小さなルビーを糸から外し、鞄のポケットに入れた。 これまでの真珠や銀のボタンに対する、彼なりの情報料だ。 ねずみを見送った後、彼女は窓辺で外を眺めていた。 すると、珍しく衛兵たちの慌ただしい足音が廊下から聞こえてきた。 ガチャリ、と重い鍵が開く音。 エリストールは一瞬で背筋を凍らせ、手元にあったガエルからの手紙の束を、クッションの下へと隠した。
「エリス、変わりはないかい?」
入ってきたのは、男爵である父だった。 今日の彼は、いつにも増して目がぎらついている。 上機嫌というよりは、何かに焦燥しているような、不安定な空気を纏っていた。 彼はエリストールの元へ歩み寄ると、その細い肩を抱き寄せ、髪に顔を埋めるようにして匂いを嗅いだ。
「ああ、いい香りだ。お前は本当に美しい。私の宝だ」 「……お父様、何かあったのですか?」
エリストールが身体を強張らせながら尋ねると、父は顔を上げ、歪んだ笑みを浮かべた。
「王都から縁談の話が来たよ。公爵家の三男だとか言っていたかな。身の程知らずな話だ」
縁談。 それはエリストールにとって、この塔を出る唯一の希望になり得る言葉だった。 だが、父の瞳には暗い拒絶の色しか浮かんでいない。
「もちろん断ったさ。お前はまだ幼い。それに、外の世界は汚れている。お前をあんな薄汚い男たちの目に晒すわけにはいかない」
父の手が、エリストールの頬を撫でる。 その指先は冷たく、まるで所有物に触れるような執着に満ちていた。 幼いといっても、エリストールはもう婚姻が可能な年齢だ。 父は彼女を娘として愛しているのではない。 自らのコレクションの中で最も美しい人形として、永遠に箱の中にしまっておきたいだけなのだ。
「お前はずっとここにいればいい。私が全てから守ってやるからね」
父が去った後、エリストールはその場に崩れ落ちた。 守る、という言葉が、これほどまでに恐ろしく響くとは。 希望の光が見えたかと思えば、即座にそれを塗り潰される。 彼女は震える手でクッションの下から手紙の束を取り出し、胸に抱いた。 ガエルからの手紙だけが、今の彼女を支える命綱だった。
一方、下界の酒場「赤竜の爪痕亭」。 ガエルは、ねずみが運んできたルビーを指先で弾き、カウンターの灯りにかざしていた。 傷一つない、極上の赤。 これ一粒で、彼が一年働いても稼げないほどの価値がある。
「……気前がいいってレベルじゃねえぞ」
ガエルは眉間の皺を深くした。 最初の真珠もそうだが、この依頼主は金銭感覚が常軌を逸している。 あるいは、これらの宝石が彼女(文面から女性であることは明白だった)にとって、ただの石ころ程度の価値しかないのか。 ガエルは酒場の喧騒を背に、ぼんやりと思考を巡らせる。 上質な紙、教養ある文字、浮世離れした質問。 そして、高価な宝石と、運び屋であるねずみ。 点と点が繋がり、一つの推測が彼の脳裏に浮かび上がる。
彼はエールを一口飲み干すと、炭ペンを手に取った。 ねずみがテーブルの上で、干し肉を齧りながら待っている。 ガエルはその小さな相棒の頭を指で軽く撫でてから、紙の裏に文字を走らせた。 いつも通りの素っ気ない返事。 だが、最後に彼は、ずっと聞きたかった核心に触れる一文を付け加えた。
『今日の空は、不吉なほど赤く焼けている。明日は嵐になるかもしれん』 『ところで、あんた。もしかして、高いところから降りられなくなってるんじゃないか?』
夕暮れ時、塔の最上階にねずみが帰還した。 エリストールは涙の跡を拭い、彼を迎える。 鞄の中には、いつもの紙切れと、珍しいお土産が入っていた。 それは、河原で拾ったと思われる、角の取れた青いガラスの欠片だった。 宝石のような価値はない。 ただのゴミかもしれない。 けれど、陽の光にかざすと、それは彼女の瞳と同じ色に輝いた。 エリストールはそれを愛おしそうに握りしめ、手紙を開く。
文字を読み進めるうちに、彼女の心臓が早鐘を打ち始めた。 『高いところから降りられなくなってるんじゃないか』 ガエルは気づいている。 顔も見たことのない、ただ文字を交わすだけの相手が、彼女の置かれた状況を正確に言い当てたのだ。 恐怖はなかった。 むしろ、誰かが自分を見つけてくれたという安堵感が、胸を満たしていった。
エリストールは深呼吸をし、羽根ペンをインク壺に浸した。 もう、隠す必要はないのかもしれない。 彼になら、本当のことを話してもいいのかもしれない。 彼女は震える手で、返事を綴り始めた。 それは今までの優雅な時候の挨拶ではない。 初めて彼女が発する、魂の叫びだった。
『空の色すら自由に見えないこの場所は、私にとって世界で一番高い牢獄です』 『私の名前はエリストール。どうか、外の世界の話をもっと聞かせてください』
書き終えた手紙を折り畳み、鞄に入れる。 そして彼女は、自分の首にかかっていた銀のロケットペンダントを外した。 中には母の肖像画が入っていたが、今は空っぽだ。 彼女はその中に、先ほどガエルがくれた青いガラス片を大切に収めた。
「行って。……そして、私の声を届けて」
エリストールの祈りを背負い、ねずみは再び闇に包まれた外壁へと駆け出していった。 夜の帳が下りる中、見えない糸電話が、二人をより強く結びつけようとしていた。 まだ互いの顔も知らない令嬢と便利屋。 だが、運命の歯車は、嵐の予感と共に大きく回り始めていた。
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