第2話 忘れな草と極小の鞄

翌日からのエリストールは、まるで恋人との逢瀬を待つ乙女のようだった。 朝、目覚めるとすぐにカーテンを開け、陽の光を入れる。 専属のメイドが運んでくる朝食のトレイから、焼き立てのパンを一切れだけナプキンに包んで隠すのが、彼女の新たな日課となっていた。 男爵である父は、娘の機嫌が良いことを自身の愛が届いたのだと解釈し、満足げに頷いて去っていく。 だが、その愛は塔の扉が閉まると同時に遮断される。 あとに残るのは、彼女と、壁の隙間に潜む小さな秘密だけだ。


午後の陽射しが部屋の絨毯に長い影を落とす頃、待ち人は現れた。 カリリ、という控えめな音。 エリストールは読んでいた詩集を閉じ、音のしないようにソファから降りて、暖炉の脇へと向かう。


「待っていたわ。お腹、空いたでしょう?」


彼女がそう囁くと、隙間から灰色の影が滑り出てきた。 昨日と同じねずみだ。 人間であれば見分けがつかないかもしれないが、エリストールの優れた洞察力は、その左耳の先がわずかに欠けていることを見逃していなかった。 かつて天敵と戦った名誉の負傷なのかもしれない。 ねずみは、昨日よりも警戒心を解いていた。 エリストールが差し出したパン屑にすぐさま飛びつき、前足で器用に抱えて食べ始める。


「今日は蜂蜜を塗ったパンよ。甘くて美味しいでしょう」


ねずみは忙しなく口を動かしながら、時折つぶらな瞳でエリストールを見上げる。 その視線には、明らかに知性が宿っていた。 ただの餌場として認識しているだけではない、親愛の情のようなものが感じられる。 エリストールは、この小さな友人に名前をつけるべきか悩んだが、あえて名付けないことにした。 名前をつければ、それは「飼う」ことになってしまう。 彼は自由な冒険者であり、彼女の所有物ではないのだ。


それから数日が過ぎた。 ねずみは毎日、決まった時間に現れるようになった。 エリストールはパンだけでなく、時にはチーズの欠片や、父が差し入れた高価な焼き菓子を分け与えた。 彼女は彼が食事をする間、読みかけの本の内容を語って聞かせた。 西の国で起きた王位継承戦争の話、南の海に住むという巨大な海竜の伝説、錬金術師たちが追い求める賢者の石について。 ねずみは食事の手を止め、耳をピクリと動かして聞き入っているように見えることもあった。 言葉は通じない。 それでも、この狭い部屋の中で、知識を共有できる相手がいるという事実が、エリストールの孤独を癒やしていった。


ある雨上がりの日だった。 いつものように現れたねずみは、その口に何かを咥えていた。 最初は食べ残しか何かだと思ったが、彼がエリストールの指先にぽとりと落としたものは違った。 それは、一輪の小さな青い花だった。


「……これは」


エリストールは息を呑み、震える指先でその花を拾い上げる。 忘れな草だ。 城下町の路地裏や、城壁の隅にひっそりと咲く雑草の一種。 だが、温室育ちの薔薇や百合しか知らないエリストールにとって、その野趣あふれる生命力は、どんな宝石よりも輝いて見えた。 花弁には、まだ雨の雫が光っている。 これは、外の世界の欠片だ。 彼が自分の足で外を駆け回り、雨に濡れた土の上を歩き、ここまで運んできた証拠だ。


「私のために、持ってきてくれたの?」


問いかけると、ねずみは得意げに髭を震わせた。 エリストールの胸が熱くなる。 ただ施しを受けるだけでなく、対価として、あるいは感謝の印として、彼は贈り物をしてくれたのだ。 そこには確かな意思疎通があった。 種族を超えた友情が、この冷たい石塔の中で芽吹いていた。 彼女は花瓶の代わりに、空になった香油の小瓶に水を入れ、その青い花を活けた。 殺風景だった部屋の一角に、小さな空が切り取られたようだった。


その夜、エリストールはベッドの中で一つの考えを巡らせていた。 ねずみは賢い。そして、口に物を咥えて運ぶことができる。 ならば、彼にもっと運びやすい道具を与えれば、より多くのものを運べるのではないか。 あるいは、言葉を運ぶこともできるのではないか。 彼女の頭脳が、急速に回転し始める。 退屈な時間を埋めるために磨いてきた刺繍の技術と、書物で得た知識が結びつく。 彼女は飛び起きると、裁縫道具を取り出した。 父が贈ってくれた最高級のシルクのハンカチ。 本来なら涙を拭うためのそれを、彼女は躊躇なく鋏で切り刻んだ。 求めているのは美しさではない。 軽さと、丈夫さと、ねずみの小さな体にフィットする機能性だ。


翌日の午後、ねずみが現れた時、エリストールの手には極小の鞄が握られていた。 絹糸で丁寧に縫い合わされた、二つのポケットを持つ背負い袋だ。 留め具には、彼女の髪飾りに使われていた小さな真珠をあしらってある。


「じっとしていてね。あなたにプレゼントがあるの」


エリストールはねずみを驚かせないよう、慎重に手を伸ばした。 ねずみは不思議そうに鼻をヒクヒクさせていたが、逃げようとはしない。 彼女の指が、その温かい毛並みに触れる。 小さな前足を通し、背中に袋を乗せ、お腹側で紐を結ぶ。 サイズは完璧だった。 エリストールの目測と洞察力に狂いはなかった。 ねずみは最初、背中の違和感に戸惑ったように体を捻ったり、後ろ足で掻こうとしたりしていた。 しかし、素材が上質なシルクであるためか、あるいは重さをほとんど感じないためか、すぐに慣れた様子で歩き回ってみせた。


「ふふ、よく似合っているわ。まるで冒険者のようね」


エリストールは微笑みながら、袋の片方のポケットに、小さく砕いた干し肉を入れた。 もう片方のポケットは空だ。 ここには、これから彼が運んでくる「何か」が入るのだろうか。 それとも、彼女が託す「何か」が入るのだろうか。 ねずみは背中の報酬に気づくと、嬉しそうに尻尾を振った。 そして、エリストールの指先を一度だけ舐めると、壁の隙間へと向かう。


「気をつけて行ってらっしゃい、私の小さな騎士様」


その背中は、どんな重装歩兵よりも頼もしく見えた。 鞄を背負ったねずみが、暗い隙間へと消えていく。 エリストールはその場に立ち尽くし、いつまでもその穴を見つめていた。 彼女の中である予感が確信へと変わっていく。 この小さな鞄が、やがて世界を変える鍵になるかもしれない。 鉄格子の窓から吹き込む風は、昨日までとは違う匂いを運んでいる気がした。 それは争いの火薬の匂いでも、魔物の腐臭でもない。 未知なる可能性の香りだった。 エリストールは机に向かうと、羽根ペンを手に取った。 まだ見ぬ誰かへ、あるいは未来の自分へ。 小さな羊皮紙の切れ端に、彼女は文字を綴り始める。 それはまだ、誰にも届く宛のない手紙だった。 だが、運び屋はもう手に入れたのだ。 あとは、その手紙を受け取るべき相手が、この広い世界のどこかにいることを信じるだけだった。 塔の下、城下町の喧騒は今日も続いている。 その喧騒の中に紛れ込んだ一匹のねずみが、背中に王国の運命に繋がる糸を背負っていることなど、まだ誰も知らない。

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