囚われの令嬢とねずみ

地べたぺんぎん

第1話 愛という名の牢獄と、最小の共犯者

重厚な鉄の扉が閉ざされる音が、エリストールの世界を二つに断ち切った。 ガチャリ、と施錠される冷徹な響き。 それは一日の終わりではなく、彼女の孤独な時間の始まりを告げる合図だ。 扉の向こう側から、粘りつくような甘い声が漏れ聞こえてくる。


「エリス、愛しい私の娘。今日もお前は完璧だ。だが、外は危険に満ちている。狼たちがその無垢な身体を狙っているのだから、決しておとなしくしているんだよ」


男爵である父の言葉は、慈愛という名のついた呪いだった。 遠ざかる足音を聞きながら、エリストールは深いため息をつく。 部屋に残されたのは、父が好んで使う香油の匂いと、窒息しそうなほどの静寂だけ。 彼女は豪奢なドレスの裾を翻し、壁に掛けられた大きな姿見の前に立った。 鏡の中に映るのは、透き通るような銀髪と、紫水晶を嵌め込んだような瞳を持つ少女。 皮肉なことに、成長するにつれて磨きがかかるその美貌こそが、彼女をこの高い塔の最上階に縛り付ける鎖となっていた。


ここは不自由のない牢獄だ。 最高級の調度品、柔らかな羽毛布団、そして壁一面を埋め尽くす書物の山。 食事は温かく、ドレスは季節ごとに仕立て直される。 けれど、ここには「自由」という概念だけが欠落していた。 エリストールは窓辺に歩み寄る。 嵌め殺しの鉄格子に額を押し当て、眼下に広がる世界を見下ろした。


城下町は今日も喧騒の只中にある。 西の大国との緊張が高まっているせいか、大通りを行き交う冒険者たちの装いは以前よりも物々しい。 革鎧の擦れる音や、鍛冶屋が剣を打つ甲高い音が、風に乗って微かに届く。 商館の前では、隊商の護衛を巡って傭兵たちが声を荒らげているのが見えた。 この世界は争いに満ちている。 書物によれば、国境付近の森には凶暴な魔物が出没し、領地を巡る小競り合いは日常茶飯事だという。 父が言う「危険」は、確かに嘘ではないのかもしれない。 だが、鉄格子の内側でただ老いていくだけの時間は、剣で貫かれる痛みよりも遥かに残酷に思えた。


「……私も、生きたい」


誰に届くわけでもない言葉が、唇からこぼれ落ちる。 知識だけはあった。 戦略論も、古代語も、魔物の生態も、父が与えた書物が教えてくれた。 けれど、本物の土の匂いも、雨の冷たさも、他人の体温さえも、彼女は知らない。 まるで精巧に作られた観賞用の人形だ。 エリストールは窓から離れ、ソファに身を沈める。 手元のサイドテーブルには、手つかずのパンが置かれたまま冷え切っていた。 無力感が身体を支配する。 このまま、この部屋で一生を終えるのだろうか。 父の狂気じみた愛に飼い殺され、誰にも知られることなく朽ちていくのだろうか。 思考が暗い淵へと沈みかけた、その時だった。


カリリ。


部屋の隅で、硬質な音が鳴った。 エリストールは弾かれたように顔を上げる。 風の音ではない。建物の軋みでもない。 明らかに、意志を持った何かが立てた音だ。 彼女は息を潜め、音のした方角——使われていない暖炉の脇にある、石壁のわずかな亀裂へと視線を凝らす。 誰も入ってくるはずのない密室だ。 ドアの前には屈強な衛兵が二人、交代制で張り付いている。 空を飛ぶ魔物だとしても、この鉄格子を抜けることはできない。 恐怖よりも先に、好奇心が胸を叩いた。 退屈という猛毒に侵されていた彼女にとって、その異音は予期せぬ劇薬だった。


カリリ、カリリ、カリリ。


音は続く。 エリストールは足音を殺して近づいた。 石壁の隙間から、黒い小さな鼻先が覗いている。 目が合った。 ビーズのように黒く輝く瞳。 それは一匹のねずみだった。 どこにでもいる、薄汚れた灰色のねずみ。 本来ならば悲鳴を上げて逃げ出すべき不潔な侵入者かもしれない。 だが、エリストールの目に映ったのは、汚れではなく「自由」そのものだった。 この分厚い石壁を、厳しい監視網を、いともたやすく突破してきた小さな冒険者。


「……まあ」


感嘆の息が漏れる。 ねずみは驚いて引っ込みかけたが、エリストールが動かないのを見て、再び鼻先を出した。 ヒクヒクと鼻を動かしている。 視線の先にあるのは、サイドテーブルの上のパンだ。 空腹なのだろうか。 エリストールはゆっくりと、可能な限り威圧感を与えない動作でパンを手に取った。 指先で小さくちぎる。 そのパン屑は、彼女が初めて自分の意志で他者に与える「施し」だった。


「おあがり。毒なんて入っていないわ」


そっと床に置く。 ねずみは警戒しながらも、空腹には勝てない様子で、ちょろちょろと隙間から出てきた。 その姿は、この完璧で無機質な部屋において、唯一の「生きた異物」だった。 小さな前足でパン屑を抱え、忙しなく口を動かす。 カリカリ、ポリポリ。 その咀嚼音を聞いているだけで、エリストールの胸の奥で凍りついていた何かが溶けていく気がした。 父以外の誰かと、こうして時間を共有する。 ただそれだけのことが、涙が出るほど嬉しかった。


「美味しい?」


答えなど期待していなかった。 だが、ねずみはふと食事を止め、エリストールの顔をじっと見上げた。 その瞳には、野生動物特有の鋭さと、どこか知性を感じさせる光が宿っていた。 言葉は通じない。 それでも、意思の疎通ができたような錯覚を覚える。 ねずみはパンを完食すると、名残惜しそうにその場で一度くるりと回った。 そして、来た時と同じ素早さで、石壁の隙間へと姿を消していく。 黒い尻尾が見えなくなる瞬間、エリストールは咄嗟に声をかけていた。


「また、来てくれる?」


返事の代わりに、壁の奥から小さく爪を研ぐような音が聞こえた気がした。 エリストールはその場に座り込んだまま、口元を綻ばせる。 鏡の中の作り物のような笑顔とは違う、心の底からの微笑み。 部屋は再び静寂に包まれたが、もはやそれは絶望の色をしていない。 あの小さな隙間は、外の世界へと繋がっている。 父も、衛兵も、誰も知らない秘密の道。 今日という日が、ただの退屈な一日の終わりではなく、運命が動き出した最初の日であるという予感が、彼女の心臓を高鳴らせていた。


「明日も、待っているわ」


エリストールは立ち上がり、読みかけの歴史書を手に取る。 外の世界の知識をもっと蓄えよう。 いつかあの小さな友人が、外の話を聞かせてくれるかもしれない。 あるいは、自分が外へ出る日のために。 鉄格子の向こうに沈む夕陽が、覚悟を決めた少女の横顔を赤く染め上げていた。

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