多数の幸福のために
早乙女紗季は、怒ると静かになる。
声を荒げたりはしない。
その代わり、言葉の温度が、周囲の空気を冷やす。
「透」
放課後の廊下で、彼女は私を呼び止めた。
窓の外では、部活の掛け声が遠くに聞こえている。
「昨日、生徒会室にいたでしょ」
「うん」
否定する理由はなかった。
「……澪、またやった」
それは報告だった。
告発ではない。まだ。
「一年の、佐伯さん。覚えてる?」
私は少し考えてから、頷いた。
物静かで、目立たない生徒。
存在を説明するのに、それ以上の言葉がいらないタイプ。
「来週、いなくなる」
紗季は、そう言った。
「転校、だよ」
転校。
その言葉は、この学園では柔らかい。
刃を布で包んだような言い方だ。
「理由は?」
私は、聞いてしまった。
「理由が必要だと思う?」
紗季は、私を見た。
その目は、私が何を言うかを知っている人の目だった。
「彼女、何かしたの?」
「何も」
即答だった。
「何もしてない。
でも、何かが起きそうだった」
その言い回しに、私は既視感を覚えた。
澪がよく使う言葉だ。
「兆候?」
「そう。兆候」
紗季は、少しだけ口角を下げた。
「クラスで浮いてた。
相談室に通ってた。
ネットで、学校のこと調べてた形跡もある」
私は黙って聞いた。
「要するにね」
紗季は言った。
「問題になる可能性が高かった」
その瞬間、
私の中で、何かが静かに音を立てた。
「それで、切った?」
「切った、なんて言い方はしない」
「でも、いなくなる」
紗季は、息を吸った。
言葉を選んでいる、珍しい間だった。
「透。
澪はね、間違ってない」
私は、少し驚いた。
「……そう思ってるの?」
「功利主義的には、ね」
彼女は、はっきり言った。
「一人が消えれば、
残りの数百人が平和でいられる」
それは、澪が信じている論理だった。
そして、紗季はそれを、理解している。
「学園全体の幸福を最大化する。
そのために、少数を切る」
紗季は続けた。
「理屈は、完璧」
「じゃあ、何が不満なの?」
私がそう聞くと、
紗季は、初めて視線を逸らした。
「……それでも、嫌なんだよ」
功利主義は、感情を必要としない。
数字だけが、正しさを証明する。
「嫌、というのは、感情でしょ」
「そう」
紗季は、頷いた。
「だから困ってる」
沈黙が落ちた。
その沈黙は、一話のそれとは違った。
判断を止めるための沈黙ではなく、
判断してしまったあとの沈黙だった。
「透は?」
不意に、問いが飛んできた。
「どう思う?」
私は、少し考えた。
「……学園は、平和だよね」
紗季の眉が、わずかに動いた。
「いじめも減った。
問題も起きてない」
それは、事実だった。
「だから?」
「だから、多数は救われてる」
紗季は、私を睨んだ。
けれど、その視線には、怒りよりも期待があった。
「それでいいの?」
「いい、とは言ってない」
私は、正確に言い直した。
「ただ、そうなってる」
功利主義は、
「それでいいか」を問わない。
「結果はどうか」だけを見る。
「透」
紗季の声が、少し震えた。
「もし、あの子が」
彼女は、言葉を切った。
「もし、私だったら」
その仮定は、ずるい。
功利主義が、唯一答えられない問いだ。
私は、答えなかった。
そのとき、生徒会室の扉が開いた。
黒瀬澪が、廊下に出てくる。
いつも通り、整った顔。
いつも通り、静かな目。
「二人とも、ここにいたのね」
紗季は、一歩前に出た。
「澪」
その呼び方は、友達のものだった。
同時に、裁く者のものでもあった。
「佐伯さんの件」
澪は、頷いた。
「ええ」
否定もしない。
隠しもしない。
「必要だった?」
紗季は、真正面から聞いた。
澪は、即答した。
「必要だったわ」
「誰にとって?」
「学園にとって」
功利主義の完成形。
主語が、個人ではない。
「本人は?」
「幸福だったと思う?」
紗季の声は、冷えていた。
澪は、少し考えてから答えた。
「短期的には、不幸でしょうね」
「長期的には?」
「分からない」
正直だった。
「でも」
澪は、続けた。
「残った人たちは、幸福よ」
私は、その横顔を見ていた。
彼女は、迷っていない。
だから、美しい。
「澪」
私は、名前を呼んだ。
彼女は、私を見る。
「疲れてる?」
その問いに、紗季が息を呑んだのが分かった。
澪は、一瞬だけ、目を細めた。
「……ええ」
それだけで、十分だった。
紗季は、拳を握った。
「透」
彼女は、私を見た。
「それでも?」
それでも、彼女を肯定するのか。
それでも、沈黙を選ぶのか。
私は、紗季を見返した。
「多数は、救われてる」
繰り返しただけだ。
功利主義は、冷たい。
けれど、合理的だ。
紗季は、唇を噛んだ。
「透は、澪を甘やかしてる」
その言葉は、刃だった。
「判断しないふりをして、
一番、澪の味方をしてる」
否定できなかった。
澪は、私を見て、静かに言った。
「あなたがいるから、私は計算できる」
それは、愛の言葉ではない。
機能の話だった。
私は、その役割を引き受けてしまった。
功利主義の世界では、
感情はノイズで、
沈黙は、最も有用な資源だ。
私は、その資源として、
彼女の隣に立った。
その瞬間、
紗季の目に浮かんだものが、
怒りではなく、失望だったことを、
私は、はっきりと見てしまった。
次の更新予定
悪であることを、誰かが肯定しなければならない 高町 希 @takamatinozomi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。悪であることを、誰かが肯定しなければならないの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます