悪であることを、誰かが肯定しなければならない

高町 希

判断をやめた瞬間

親友は、黒瀬澪を過去最高で過去最悪な生徒会長だと言った。


その言い方は、正確で、だからこそ雑だった。

世界を理解した気になれる言葉ほど、人はそれに安堵してしまう。


私は、その評価を受け取らなかった。

否定もしなかった。ただ、少しだけ言い換えたくなった。


――過去最低ではあるものの、過去最高に美しい。


それは擁護ではない。

まして赦しでもない。

ただ、私の見ている現実に、いちばん近い表現だった。


生徒会室は、いつも静かだ。

静かすぎて、誰かが排除された痕跡さえ、音を立てずに消える。


黒瀬澪は、長机の中央に座っていた。

書類に視線を落とし、ペンを走らせる。その指先に、迷いはない。


「白石」


名前を呼ばれて、私は顔を上げた。

彼女は、いつも必要なときにだけ、私を呼ぶ。


「これ、見ておいて」


差し出された紙には、生徒の名前が並んでいた。

一つだけ、赤い線が引かれている。


「……転校、ですか」


問いというより、確認だった。


「ええ」


澪は、それ以上説明しなかった。

説明しないことが、この学園では最も効率的な誠実さだ。


「問題、あったんですか」


「問題になる前に終わらせたの」


その言葉を、彼女は淡々と置いた。

善悪の成分を、完全に取り除いた声音で。


私は、それ以上聞かなかった。

聞けば、判断しなければならなくなる。


判断するという行為は、世界に対して立場を取ることだ。

そして立場を取るということは、誰かを孤独にする。


「……疲れてませんか」


代わりに、そう言った。


澪は少しだけ目を細めた。

評価されたわけでも、責められたわけでもないと理解した顔だった。


「疲れているわ」


そう言って、彼女は椅子にもたれた。

その仕草は、役割を脱いだ人間のものだった。


私は、隣に立った。

近づきすぎず、離れすぎず。


「紗季が、また何か言ってました?」


私がそう尋ねると、澪は小さく笑った。


「『あなたは過去最高で過去最悪』ですって」


親友――早乙女紗季は、正しい言葉を選ぶのが上手だ。

だから、いつも傷つく。


「どう思う?」


澪は、私を見た。

試す視線ではない。

確認する視線だった。


私は答えなかった。


その沈黙は、逃げではない。

判断停止――エポケー。

一度、世界を括弧に入れるという態度。


「……あなたは、本当に何も言わないのね」


澪はそう言って、少しだけ息を吐いた。

それは落胆ではなく、安堵に近かった。


「悪いですか」


「いいえ」


即答だった。


「あなたが何も言わないから、私は選べる」


その言葉は、感謝ではなかった。

許可だった。


私は、その意味を理解してしまった。

判断しないことは、否定しないこと。

否定しないことは、続けていいという合図だ。


それでも私は、立場を取らなかった。


「綺麗ですね」


ふいに、そんなことを言ってしまった。


「何が?」


「あなたが」


澪は一瞬、言葉を失った。

それから、ほんのわずかに視線を逸らす。


「……それは、褒めてるの?」


「事実です」


事実と評価は違う。

私は評価しない。ただ、見ている。


澪は小さく笑った。

その笑顔は、誰かを切り捨てた人間のものだった。

それでも、息を呑むほど、美しかった。


「あなたは、残酷ね」


「そうかもしれません」


否定しなかった。


判断をやめるということは、

善にも悪にも与しないということではない。


それは、

誰かが堕ちていくのを、

正しさという名の手綱で止めないと選ぶことだ。


私はそのとき、気づいていなかった。

この沈黙こそが、

この物語でいちばん最初の共犯だったということに。

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