第6話
暖かい海風。
透き通る水。
「せんせーい!およごー!」
少女の声。
「███、まだ泳げないだろ」
名前を呼ぶと、少女は朗らかに笑います。
彼女はひとつの角を持ったまま生きる術を学んでいます。男は組織を辞め、田舎の小さな診療所で働いています。天才外科医という肩書を捨て、素直な自分で、彼女の隣にいることを選んだのです。
――海のそばの診療所にて――
これらは、私が見つけた診療所の棚の奥に眠っているとある男の手記である。
海の匂いは、最初、彼女には少し強すぎた。
「しょっぱい……」
朝の診療所の窓を開けると、潮風が白いカーテンを揺らす。
「そのうち慣れるよ」
医者――もう“先生”と呼ばれることのほうが多い。私は、カルテを書きながらそう答えた。
少女は、床に座り込んで貝殻を並べている。
角は一本のみだが、相変わらず、綺麗なままだ。
一緒に暮らす、ということになったのだった。
最初は、ぎこちなかった。
朝ごはんを二人分用意すること。
洗濯物に、小さな服が混じること。
夜、部屋の灯りを一つ多く残すこと。
「……先生」
布団の端から、小さな声がする。
「なに」
「ここ、いてもいい?」
私は、少しだけ手を止めた。
「……当たり前だろ」
そう言いながら、
“いつまで”とは言えなかった。
彼女は、世界にとってまだ危険な存在で、私は元・外科医で、何も保証なんてない。
それでも、彼女がここにいない夜を想像するほうがずっと怖かった。
ある日、少女が言った。
「ねえ先生」
「ん?」
「ここって……私の家?」
私は答えに詰まった。
施設でもない。
病室でもない。
でも、正式な“家族”でもない。
「……そうだな」
慎重に言葉を選ぶ。
「ここは、
帰ってきていい場所、だ」
少女は、しばらく黙っていた。
それから、にこっと笑う。
「じゃあ、家だ」
その言葉は、
私の胸に、静かに落ちた。
夜、嵐の音がした。
遠くで落雷の音がする。
少女の角が、ほんのり光る。
男は、すぐに気づいた。
「……怖いか」
布団の中で、少女は小さく頷いた。
私はは何も言わず隣に座った。それしかできないからだ。触れない。でも、離れない。
「昔はさ」
無言も何だか気が紛れないので、私は、ぽつりと話し始めた。
「昔から、優しいって言われるのが嫌だった」
「どうして?」
「……優しいと、なにも決断できないって言われてた。私は優しいんじゃなくて弱いんだ。弱いからなにも断れずにやるしかないんだ。」
少女は考えてから、ケロッとした顔で言った。
「でも、先生は逃げなかったよ」
私は少し笑った。
「……そうか」
その夜、角は光らなかった。
ある日、少女は急に言った。
「ねえ」
「なに」
「ずっと“先生”って呼ぶの、変じゃない?」
男は咳払いした。
「医者だからな」
「でも、もう手術しないでしょ」
確かに。
「……呼びたいように呼びなさい」
少女は少し考えて、
照れたように言った。
「……おとう、さん?」
その瞬間、
男の思考は完全に止まった。心臓が、痛いほど鳴った。
「……無理しなくていいから」
慌てて言う。
少女は首を振った。
「無理じゃない。なんか……うれしいきもち!」
男は、しばらく俯いてから、静かに答えた。
「……じゃあ、そう呼びなさい」
役所の手続きは、面倒だった。
戸籍。
後見。
医療同意。
「本当に、いいんですか?」
そう聞かれたとき、私は迷わなかった。
「はい」
家族とは、安心が習慣になる関係である。
私は父親になる覚悟をしたわけではなかった。
ただ、逃げなかっただけだ。
怖い感情からも、世間の正義からも、「角を切ればすべて解決する」という安易な答えからも。
少女が「おとうさん」と呼んだのは、役割を期待したからではない。
「ここにいても、いなくならない」
そう確信したからだ。
少女は、少し緊張して私の袖を掴んでいた。
夕方。海はオレンジ色に染まり、眩し過ぎるくらいの笑顔と共に娘は海まで走っていった。
「せんせ……おとうさん!はやくこっちきてー!」
呼び直して、照れる。
「およごー!」
「まだだ。今日は足だけだ」
手を繋いで、波打ち際に立つ。暖かく透き通った水が跳ねる。1人の女の子の笑い声が青い空にとんでいく。
そのとき、私は思った。
世界は、娘を危険だと呼んだ。
でも今はただの、私の子どもだ。
最後まで、綺麗なままだった。
娘のツノは、病理学的には説明不能である。
だが、感情が受け止められる環境下において、災害反応は著しく減少した。
これは治癒ではない。共生である。
この一文は、医学界への報告ではない。
私自身への言い訳でも、懺悔でも、誓いでもある。
ツノ持ちの娘 間零 @u_u_xx
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