第3話 職人の手
「なんだ、この図面は」
現場事務所のプレハブ小屋に、怒声が響いた。
左官職人の葛城棟梁だ。
日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。ねじり鉢巻の下から覗く眼光は鋭く、まるで獲物を狙う鷹のようだ。
「寸法は合っています。何か問題でも?」
慎一は努めて冷静に返したが、声が少し上ずった。
有名大学を出て、大手事務所で実績を積んできた自負がある。たかが現場の職人に、図面の不備を指摘される覚えはない。
「寸法? そんなもん見てんじゃねえ!」
葛城棟梁は、図面を机に叩きつけた。
バシッ、という音が痛い。
「この入り隅(いりずみ)の納まりだ。こんな中途半端な隙間じゃ、『押さえ』が効かねえんだよ」
「押さえ……ですか?」
「ああ。漆喰ってのはな、ただ塗ればいいってもんじゃない。最後にグッと力を込めて、魂ごと壁に押し込むんだ。そうしねえと、艶も出ねえし、長持ちもしねえ」
棟梁は、自分の右手をグーパーと開閉させた。
岩のようにゴツゴツとした手。指の関節は太く変形し、爪の間には白い漆喰がこびりついている。
「チリ鏝(ごて)みてえな細い鏝を使えば、塗ること自体はできるさ。だがな、俺の手の動きができねえ。手首を返して、体重を乗せる。そのための『懐(ふところ)』がねえ図面なんぞ、俺にとっちゃ紙屑だ」
慎一は息を呑んだ。
物理的な空間の話ではない。職人の身体性、そのパフォーマンスを最大限に発揮するための空間が欠如していると言われているのだ。
「……ですが、構造上、これ以上広げるのは難しいです」
慎一は反論した。
「あなたの技術でなんとかするのが、プロの仕事でしょう」
言った瞬間、しまったと思った。
棟梁の目が、すっと細められたからだ。
「ほう。プロの仕事、か」
棟梁は静かに立ち上がった。
「なら、あんたが見せてみろ。プロの設計屋の手並みをな。現場に来い。体で覚えろ」
葛城棟梁に連れられ、慎一は作業場に立った。
鼻を突く、石灰のアルカリ臭。
大きなプラスチック桶の中で、白濁した泥が渦を巻いている。
「やってみろ」
渡された鏝は、想像以上に重かった。
鉄の冷たさが、掌に直接伝わってくる。
慎一は漆喰をすくい、壁に塗りつけようとした。
ボトッ。
漆喰は無惨にも床に落ちた。
もう一度すくう。今度は壁に乗ったが、伸ばそうとした瞬間にボロボロと崩れ落ちる。
「くそっ……」
額に脂汗が滲む。
簡単な動作に見えたのに、まるで自分の手ではないように動かない。
「手首が硬い!」
棟梁の檄が飛ぶ。
「鏝で塗ろうとするな。手で塗るんだ。鏝は手の延長だと思え」
道具が意識から消え、身体の一部となる状態。
今の慎一にとって、鏝はまだ「異物」だった。重く、扱いづらい鉄の塊。
「貸してみろ」
見かねた棟梁が、鏝を奪い取った。
その瞬間、空気が変わった。
サッ、サッ、シュッ。
リズミカルな音が響く。
棟梁の手首は鞭のようにしなり、鏝はまるで生き物のように壁の上を滑る。
荒々しい岩のような手が、繊細な波紋を描き出していく。
それは、舞踊だった。
あるいは、祈りだった。
塗り上げられた壁は、水分を含んで艶やかに光っていた。
まだ乾いていない漆喰の匂いが、不思議と甘く感じる。
「建築ってのはな、先生」
棟梁は鏝についた漆喰を拭き取りながら言った。
「人間の手と、材料の手が握手することなんだよ。機械には心がない。でも、わしたちの手には血が通ってる。漆喰も生きてる。だから、握手できるんだ」
慎一は、自分の手をじっと見つめた。
白い指先に、少しだけ漆喰がついていた。
指を擦り合わせると、ザラリとした感触があった。
自分の描いた図面は、この職人の手と握手できていただろうか。
独りよがりな線を引いて、悦に入っていただけではないか。
恥ずかしさで、顔が熱くなった。
「……出直してきます」
慎一が頭を下げると、葛城棟梁はニカッと歯を見せて笑った。
その顔の皺一本一本に、職人としての誇りが刻まれていた。
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