第2話 古い手の痕跡

 現場の古民家は、開発されたばかりの住宅街の奥に、ぽつんと取り残されていた。


 周囲の建売住宅が、無機質なサイディングボードで覆われているのに対し、その家だけが墨色の瓦と、飴色に変色した板壁を纏っている。

 まるで、そこだけ時間の流れが淀んでいるようだ。


 玄関の引き戸を開けると、カラン、と乾いた音が響いた。

 途端に、濃密な空気が慎一を包み込む。

 古い畳の匂い。線香の残り香。そして、湿った土の匂い。


「ようこそ。お待ちしておりました」


 奥から現れた楠木ハルさんは、小柄だが背筋の伸びた女性だった。

 着ている割烹着の白さが、薄暗い土間に鮮やかに浮かび上がる。


「どうぞ、上がってくださいな」


 通された居間は、南側の縁側から柔らかな光が満ちていた。

 太い梁は煤で黒光りし、柱には無数の傷がある。


「この柱の傷はね、息子たちが背比べをした跡なんですよ」


 ハルさんが愛おしそうに柱を撫でた。

 その指先は節くれ立ち、皮膚は薄いが、温かみを感じさせる。


 慎一は調査のために、壁に近づいた。

 漆喰の壁だ。経年で薄汚れ、所々にひび割れがある。

 補修が必要だな、と職業的な目で判断し、手帳に書き込もうとした時だった。


「触ってみてください」


 ハルさんに促され、慎一はペンを止めた。

 恐る恐る、壁に手を伸ばす。


 ひんやりとしているかと思った。

 だが、違った。


 掌(てのひら)が触れた瞬間、じんわりとした温もりが返ってきたのだ。

 表面は滑らかに見えて、指の腹で探ると微細な凹凸がある。まるで、皮膚のようだ。

 呼吸をしているような、静かな鼓動さえ感じる錯覚。


 ドクン、と慎一の心臓が跳ねた。


 これは単なる石灰と砂の塊ではない。

 八十年分の夏の日差し、冬の寒風、煮炊きの湿気、人々の話し声。それらすべてを吸い込み、結晶化させた「時間」そのものだった。


「この壁はね、私たちの手を覚えているのよ」


 ハルさんの声が、静寂に溶ける。


「主人が酔っ払って寄りかかった場所。私が毎日雑巾で拭いた場所。孫たちが泥だらけの手で触った場所。全部、ここに残っているの」


 慎一は自分の手を見た。

 白く、清潔な手。

 今まで自分が設計してきた建物に、こんな風に「触れたい」と思ったことがあっただろうか。

 汚れを嫌い、抗菌素材を選び、触れることを拒絶するような建築ばかり作ってきたのではないか。


 ふと、学生時代に読んだ古い哲学書の一節が脳裏をよぎる。


『触れる手は、同時に触れられる手でもある』


 誰の言葉だったか忘れてしまったが、その意味が今、痛いほど理解できた。

 自分の右手で左手に触れる時、触れている感覚と、触れられている感覚が溶け合う不思議な瞬間。

 今、慎一は壁に触れながら、壁からも触れられているのを感じていた。

 八十年の時間が、慎一の指先を通して流れ込んでくる。


「先生、この壁、残せますか?」


 ハルさんの瞳が、不安げに揺れている。

 慎一は大きく息を吸い込み、肺の奥まで古民家の空気を入れた。


「はい。必ず残します。……いや、残させてください」


 その夜、慎一はいつものようにCADを立ち上げたが、マウスを握る手が止まった。

 画面の中の真っ白な壁が、あまりにも薄っぺらく見えたからだ。


 彼はモニターの電源を切り、スケッチブックを開いた。

 鉛筆を握る。

 ザッ、ザッ。

 紙に芯が擦れる音だけが、部屋に響く。

 その音は、昼間聞いた引き戸の音や、畳を踏む音と、どこか似ていた。

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