「その図面じゃ握手できねえ」と職人は言った。冷たいマウスを握る僕の手が、80年前の漆喰に触れて熱を取り戻すまで

木工槍鉋

第1話 デジタルの手

 カチッ、カチッ。


 乾いたクリック音だけが、深夜二時の静寂を切り裂いていた。

 空調の低い唸り声。蛍光灯の青白い光が、デスクに散らばる図面を無機質に照らし出している。


 氷室慎一は、充血した目で液晶画面を睨みつけていた。

 右手の人差し指が、わずかに痙攣する。

 画面の中では、仮想の光が仮想の壁に反射し、完璧な陰影を作り出していた。レンダリング完了まであと五分。その五分が、永遠のように長く感じる。


 コーヒーはとっくに冷めきり、表面に薄い膜が張っていた。


「……できた」


 画面に表示されたのは、美しいオフィスビルだった。

 ガラスのカーテンウォール。研ぎ澄まされたエッジ。ノイズの一切ない、純粋な幾何学の結晶。

 クライアントは喜ぶだろう。効率的で、近未来的で、メンテナンスも容易だ。


 しかし慎一は、完成したパース図を見つめながら、奇妙な空虚さを感じていた。


 指先を擦り合わせる。

 カサカサと乾いた音がするだけだ。

 そこには、木のささくれも、土の湿り気も、鉄の錆びた匂いもない。あるのは、プラスチックのマウスのツルリとした感触だけ。


 ふと、窓ガラスに映る自分の顔を見た。

 青白く、生気がない。まるで、この画面の中の人物のようだ。


「これは本当に建築なのか?」


 誰に問いかけるでもなく、呟いた声は空調の音に吸い込まれて消えた。


 幼い頃の記憶が蘇る。

 父の設計事務所。鉛筆を削る木の香り。製図板に広げられたトレーシングペーパーの、頼りないけれど温かい手触り。

 父の手はいつも黒く汚れていた。芯の粉と、消しゴムのカスまみれの手。その手で頭を撫でられると、少しだけ鉛筆の匂いがした。


 今の自分の手はどうだ。

 白く、清潔で、そして冷たい。


 慎一は引き出しの奥から、父の形見である製図用シャープペンシルを取り出した。

 真鍮製のボディはずっしりと重い。

 ローレット加工されたグリップのザラつきが、指の腹に心地よい刺激を与える。


「重いな……」


 その重さは、物理的な質量以上のものを含んでいる気がした。


 翌朝、所長の桜井に呼ばれた会議室は、ブラインドの隙間から鋭い朝日が差し込んでいた。

 空気中に舞う埃が、光の帯の中でキラキラと踊っている。


「氷室君、君に頼みたい案件がある」


 桜井が差し出したのは、黄ばんだ古い青焼きの図面だった。

 独特のアンモニア臭が、鼻腔をくすぐる。


「築八十年の古民家だ。施主の楠木ハルさんは、この家を『記憶ごと』残したいと言っている」


「古民家……ですか」


 慎一は眉をひそめた。

「僕は、最新の技術を使った都市開発が専門です。古民家の改修なんて、畑違いもいいところだ」


 喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 桜井の目は笑っていたが、その奥には有無を言わせぬ光があった。


「君はずっと、触れられない建築ばかり作ってきた。だからこそ、この仕事が必要だと思うんだ」

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