女子校という理想郷で逢いましょう ~ありえないから理想なんです~
五平
第1話:百合は購買部では売っていない
新しい制服の生地は、驚くほど硬く、そして冷たかった。
佐倉真昼は、校門をくぐり抜ける瞬間、心臓の奥が小さく、けれど確かに震えるのを感じていた。紺色のブレザーの肩に触れる、春の柔らかな光。正門の左右で、計算されたように美しく枝を伸ばす桜の木々。風が吹くたびに、淡い花びらが少女たちの足元をなでる。
ここは、聖域だ。
中学までの、あの、男子の怒鳴り声や、部活動のあとの汗臭い廊下や、幼稚な冷やかしが飛び交う、あられもない空間とは違う。
清楚で、凛としていて、どこか銀細工のような繊細さを湛えた世界。
真昼は、自分の内側にある「理想」を、丁寧に折り畳んで胸のポケットに仕舞い込んだ。今日から私は、この理想郷の一員になる。ここには、私がずっと夢見てきた「真実の友情」や、あるいはそれ以上の、魂が共鳴するような誰かとの出会いが待っているはずだ。
けれど、その幻想に最初の一筋の亀裂が入ったのは、昇降口に足を踏み入れた瞬間だった。
「……うわ、すご」
真昼の口から、期待していた感嘆とは違う、困惑の溜息が漏れた。
聖域の入り口は、女子特有の、高く鋭い声の礫(つぶて)で満たされていた。あちこちで再会を喜ぶ叫び声が上がり、彼女たちの足元では、新品のローファーがワックスの効いた床を不協和音で鳴らしている。
そして、匂いだ。
桜の香りを期待していた鼻腔を突いたのは、数百人分の柔軟剤と、制汗剤と、そして、雨上がり特有の生乾きの靴下の、湿った混濁した臭気。
それは、真昼が思っていたよりもずっと「生物」としての女子が発する、生々しい空気だった。
一年A組。
真昼は、指定された教室のドアを開けた。
教室内は、外よりもさらに湿度が一段高いように感じられた。まだ誰の体温にも馴染んでいないはずの机が、窓際から差し込む光を不自然に反射している。
自分の名札を探し、真昼は窓際の後ろから二番目の席に座った。
隣の席には、すでに一人の少女が座っていた。
真昼は、思わず息を呑んだ。
その少女――市川栞は、真昼が抱く「女子校の幻想」をそのまま形にしたような姿をしていた。
透き通るような白い肌。手入れの行き届いた、艶やかな黒髪。長く整った睫毛の奥にある瞳は、どこか遠い場所を見つめるように冷たく、そして気高い。
(綺麗……)
これだ。こういう子が、ここにいる。
真昼は、運命的な何かを感じて、少し上気した顔で彼女に声をかけようとした。
「あの、おはようございま……」
その時。
栞は、真昼の方を一切見ることなく、机の上に置いていたスマホの画面を親指で激しく弾き始めた。
カチカチ、とネイルが画面に当たる音が、静かな教室内で異様に硬く響く。
「……腹、痛い」
栞の口から漏れたのは、真昼が期待していた鈴を転がすような声ではなく、低く、澱んだ呟きだった。
「詰んだ。このタイミングでくるとか、マジでないんだけど」
彼女はそのまま、机に突っ伏した。
完璧だったはずの黒髪が、机の上で乱雑に広がる。その隙間から、首筋に貼られた小さなサロンパスが覗いていた。
「あ、あの……大丈夫?」
真昼が恐る恐る尋ねると、栞は顔を半分だけ上げて、真昼を「観察」した。
その視線には、慈しみも、歓迎の色もない。
ただ、この空間において相手が自分に害を及ぼすか、あるいは利用価値があるかを確認するような、値踏みする眼差し。
「……なに?」
「あ、いや、体調が悪そうだったから。私、鎮痛剤持ってるよ」
真昼が必死にバッグを探ろうとすると、栞は無機質な声でそれを遮った。
「いらない。慣れてるから。……それより、あんた。内部? 外部?」
「えっ、あ、外部。公立の中学から来たんだけど……」
「ふーん」
栞は、それ以上の関心を示さなかった。
「外部なら、今のうちにトイレ行っときなよ。入学式が始まったら二時間は出られないから。……それと、このクラス、あそこの四人組が中学からの『一軍』だから、関わりたくないなら目を合わせないこと」
栞は、顎の先で教室の入り口付近に集まっている派手なグループを示した。彼女たちは、まだ始まってもいない学校行事の愚痴を、周囲に聞こえるような大声で垂れ流している。
真昼の思い描いていた、高潔な生徒会のような、あるいは文学的な交流のような光景は、そこには微塵もなかった。
「女子校って、もっとこう……キラキラしてるものだと思ってた」
真昼が思わず漏らすと、栞は鼻で小さく笑った。
「百合の花でも咲いてると思った? 残念。そんなもの、購買部にも売ってないよ。ここはただの、逃げ場のない女の檻だから。……ねえ、あんた名前は?」
「佐倉真昼」
「真昼、ね。……私は栞。よろしく、真昼。これから三年間、お互い死なない程度にやりましょう」
栞はそう言うと、再びスマホの画面に視線を戻した。
彼女がチェックしていたのは、SNSのタイムラインだった。そこには、すでに入学前から形成されている「グループ」の、無言の勢力図が可視化されていた。
真昼は、窓の外を眺めた。
満開の桜は相変わらず美しいが、教室の中の空気は、不快なほど重く、そして湿っている。
自分のブレザーの袖が、汗で少しずつ肌に張り付いていくのを感じた。
理想郷。
それは、ありえないからこそ、理想なのだ。
真昼は、机の下で、自分の膝を強く握りしめた。
ここには百合は咲いていない。
あるのは、誰かが誰かを評価し、誰かが誰かに依存し、誰かが誰かを排除するための、生存戦略としての日常だけだ。
始業のチャイムが、歪んだ音で鳴り響いた。
それは、真昼が抱いていた最後の幻想が、粉々に砕け散る合図のように聞こえた。
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